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ドタバタお家訪問も終わり、またいつもの日々が始まる。
美術部にはいつものごとく葉月と絵美しかいないが、今日の絵美の手は少し描いては止まってを繰り返している。
比較的一度手が進んだらなかなか止まらないのが普段の絵美なのだが、それが止まっているということは、今日の進路相談の時に何かあったのだろう。
月人は丁度職員会議の時間だし、何か知っていることを聞こうと思ってもそういうことはぺらぺらと喋るようには思えない。
……否、月人は恐ろしく口が軽い。本当に教職なのかと疑ってしまうくらいには口が軽い。
(もしかしたら、神有先生に何か聞けるかも……)
「だ、大丈夫? 師走さん」
「……」
葉月が絵美に声をかけると、絵美は一瞬葉月を見た後に、すぐに画用紙の方に目線を戻した。
そこには黒で塗りつぶされた何かしか描かれておらず、ただでさえお目にかかることのできない絵美の絵が見れるチャンスかと思っても、厳しい様子である。
それに、ここまで元気のない美術部員を放っておくのも気持ちが憚られる。
仮に葉月が三年生になるまで彼女のことを認知していなくても、だ。
もしかして、この前のお家訪問のことで何か気にかかることでもあったのか? それならその日のうちに言ってほしいという気持ちも隠せないけれど。
「なんかあった?」
「……コンクールに、応募してみようと思って」
初めて目の前に親や月人という、絵美の反撃できない相手が居ない状態でまともな受け答えをされたような気がする。
一番最初の会話が自殺者とそれを止める人、というなかなか珍しい構図であったのも大きな理由だったかもしれないが、ここまで素直に返してくれることはなんだかんだで嬉しかった。なんだかんだで。
「え!? 応募するの!?」
絵美が普通に受け答えしてくれたことに衝撃を受けていたせいで謎の間ができてしまったのだが、コンクールに応募する、という意思表示を見せたことに驚きを隠せなかった。
先日コンクールの話をした時には、泣きそうな顔になっていたし、月人が現れたことによって結局のところどうするのかは聞けなかったのだ。
「悪い? どうせ貴方も応募することでしょうし、私程度が応募してもせいぜい佳作程度と思っているのでしょう。どうして天才ってこんなに嫌味っぽい存在なのかしらね。まことに腹立たしいことだけれど、まことに虚しいことだけれど、私は今コンクールに応募してみようと言ったの。あまりにもつまらなくて笑っちゃう? ほんと良い性格してるわね」
「良い性格してるのは師走さんの方だよ……」
いくつか聞き捨てならない言葉を吐かれたような気もするのだが、それでも、同じ美術部員としては彼女がコンクールに応募する気になってくれたのが嬉しかった。
最後の最後のコンクールで、まさか自分一人だけが応募するようなことになるんじゃないかとヒヤヒヤしていたからだ。
それは建前かもしれない。分からない。
「神有先生に何か言われたりした?」
思わずそんなことを尋ねてみると、絵美の方はなんとも言えなさそうな顔をしていた。
「……応募しないのか、とは、言われたけど」
(なるほど。結局、師走さんの中では神有先生が中心ってことね?)
「でも、テーマが、少し」
「テーマ?」
(今回のコンクールのテーマは……確か、そうだ、「夢」)
今年で最後のコンクールになることを考えるとかなり丁度良いテーマだとは思うのだが、どうやら絵美の方は複雑そうな表情である。
とはいえ、高校の三年目なんてほとんど進路も決まっているし、実際絵美には大学に行くという選択肢があるし、それが彼女の言う「夢」と言っても間違いではない。
もちろん、全く夢も希望も未来もありません、なんて状態でそんなテーマを出されようなもんならそれこそ絶望するようなテーマでもあるのだが、絵美には未来が十分にあるように思えるし、将来のことを見据えて生きている以上、そう難しくない話題であるように思える。
寧ろ、葉月からすればほぼ将来を確立されている状態で夢もクソもないわ、と悪態をついてやりたい気持ちはあったが、まだ四月も下旬だ。
これからゴールデンな休みも挟むことだし、その間に適当にネタの一つや二つでも見つければ良いだろうと考えている。
「貴方は知っているでしょう、私の夢を」
絵美がそう言ったのを聞いて、思わず葉月は言葉を詰まらせる。
「……あれ、は」
葉月は何も言うことができなかった。ここから何かを言うことは、憚られた。
何も言えない様子の葉月を見て、「ごめんなさい」と呆れたように絵美は肩を竦めた。
「貴方は、中途半端に優しいのね」
そう言って絵美はすこしだけ悲しそうに微笑んだ。
葉月は、彼女が自分に笑いかけてくれるのを初めて見た。
「師走、お前……前までの第一希望はどうしたんだよ」
「ん……いや、なんか、もう……どうでもいいかなって」
「今まであんなに勉強してたじゃねえか」
「無理なんですよ、私には」
「……家で何かあったのか? 大丈夫か?」
「ごめんなさい……迷惑かけてしまって」
「良いんだ。良いんだよ師走、そんなこと。俺は迷惑なんて思ってないから。お前はちょっと考えすぎちまうところがあるからさ、俺は心配だよ。またお前なんか一人で抱えてんのかなって思うよ」
「すみません……」
「謝るなよ。謝ることじゃないんだから」
月人は職員会議を話半分に聞きながら、今日の二者面談の時の絵美のことを思い出していた。
絵美は一年の頃から面倒を見ていた生徒であり、そのうえ部活動でも一緒だということもあって特別気にかけている生徒ではあったのだが、彼女は一年生の頃から難関私大に行きたいという話をしていた。
その進路が、一番最初に月人が「師走の努力次第では難しいことじゃない」と背中を押してから、彼女の中で曲がることは殆ど無かった分、今日の二者面談の時に諦めたような反応をしていたのが気になった。
元々、絵美の情緒が不安定な性格だということは知っている。
そこに自分という存在が多少ブレーキをかけていることも、二年も経てば分かっても来る。
もちろん、絵美のすべてを知っているわけではないが、絵美からぽつぽつと出てくる会話の節々に彼女の家庭環境があまり良いものではないことや、バイトや勉強、普段の生活で無理をしていることは知っている。
が、それは今に始まったことではないし、それがついに限界を超えてしまったのだろうかと心配にもなる。
話ならいつでも聞くと言っているが、絵美は人に迷惑をかけたくないという気持ちが強いのか、こちらから聞きでもしない限り中々自分から話すことはしない。
こちらから聞きだそうとしても、上手くはぐらかされてしまう。
「何か話したいことあんなら、時間作るから」
それが、月人にできる精いっぱいの優しさだった。
万が一のことがあった後では、意味がない。そんなことはないだろうと信じているが、もしもそんなことがあった時、きっと月人は酷く後悔するだろう。
聞いても答えてくれないのであれば、待つことしかできないのだ。
(師走……俺はきっと教師の立場として個人的にお前に入れ込むのが良くないことは分かってる。だけど……お前、大丈夫なのかよ?)
「神有先生? 聞いてました?」
「んっ? あ、あー、はい、大丈夫です。えーと、中間考査の試験日の話でしたっけ?」
「違います」
「……すみません……」
その頃、美術部の部室では、葉月も絵美も何一言会話することなく、目の前の自分の作品に向き合っている。
最近になって会話の増えたと思われた部室も、なんとなく今は空気が重い。
逆戻りしたというか、むしろ悪化したともいえるだろう。
あれから絵美は一言もしゃべることはなかったし、葉月も特別話しかけようとは思わなかった。
これ以上絵美に話しかけたところで、自分にできることは何もないだろうと思っていたし、絵美も今は一人で何かを考えたい様子だった。
こういう時、もしも葉月と絵美が親しい間柄だったら、何かをこの時絵美は相談していたのだろうか。
(もしも、僕が師走さんと親しいと言える仲だったなら、僕は師走さんのために何かをしてあげたりできたのかな。それとも、今と全く同じ状況になってかな)
天才は、分からない。
天才は、凡人のことが分からない。
天才は、師走絵美が分からない。