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体育祭前日、翌日の準備やら練習やらで普段と違う時間に登校することになり、絵美は珍しく教室に来るのが少し遅くなってしまった。
「おはよう、師走さん。今日少し遅かったね? 家近い人とかはいいかもしれないけどさ、僕とか電車通学だから、時間変わると何時に家出ればいいのか分かんなくなっちゃうよねー」
「……そうね。貴方は何時ごろに学校に来たの?」
「気持ち焦ってたから一時間早く着いた……」
「馬鹿じゃないの」
「おっしゃる通りだと思います……」
絵美の一言に思わず葉月がしゅんとすると、絵美は呆れたように肩を竦めながら「遅刻するよりはマシね」と簡単にフォローを入れる。
(やっぱり僕、師走さんのこういうところ好きだなあ)
ぼんやりと葉月はそんなことを考えて、なんとなく気恥ずかしい気持ちになった。
(好きって? どういう意味で?)
不意に葉月の頭にはそんな考えがよぎったが、それに答えを出すのは野暮だと思った。
ここで答えを出すのは、きっと違う。
「そういえば、師走さんって通学電車だよね? 駅から家近いの?」
「……バスと電車ね。そう遠くはないけど、私自転車乗れないから」
「分かる、僕も乗れない」
まあこの場合、絵美が自転車に乗れないのは困窮した生活で自転車すら買ってもらえない、ということなのだが、葉月の場合は家に行くまでの道のりに車も自転車も必要がない上に、遠くへ出かけるときは車が勝手に用意されていたから、という圧倒的な貧富の差故から生じた共通点なのだが、ここで余計な詮索はするまい。
「自転車乗れないと過剰に反応されない? 別にいいんだけどさ」
「そうね……。「えっ!? 師走さん乗れないんですか!?」とかね」
葉月の問いに少し考えこんだ後に、絵美が顔をぱぁっと明るくさせて誰かの物まねをし始めたものだから、驚いて葉月は目を丸くさせた後に「ぷっ」と吹き出してしまう。
月人の真似もしていたが、絵美はもしかしたら意外と明るい性格だったりするのだろうか?
「ねぇ、もしかして、それって陽介くん?」
くすくすと笑いながら葉月が尋ねると、絵美もつられるように苦笑して「ええ」と頷く。
「あはは、もしかしたら僕に言われると不快指数高いかもしれないけど、結構似てたよ」
「不快指数高い自覚はあるのね。まあでも、私も似せたし、今回は免じてあげましょう」
「やった。ありがと」
なんだか意味の分からない会話をしてしまっている気がするが、恐らく、クラスメイトというのは、人間関係というものは、こういうものなのだろう。
とくになんの生産性もないことをだらだらと話すようなことに苦痛を感じなければ、それを友人と言えるのかもしれない。
しかし、そんな簡単なことに二人は気が付いていない。
人間関係というものを少し神聖化して見ている節があるから、ただただ、生産性も何もない言葉を交わすことを、友達とは定義していないのだろう。
絵美は生きることに特別真面目だが、葉月だって、人のことを言えないくらいには真面目なところがあるのかもしれない。
「それにしても、あっという間に体育祭になっちゃうねぇ。そろそろコンクールの絵も仕上げなくちゃな」
「もう終わりの目途が付いてるの?」
「今回はいつもよりずっと描き始めるの早かったからねー。気に入らないところとかあれば家にも持って帰ってやってるし。ていうか、師走さんの方は全然用意してないように思うんだけど、師走さんは逆に間に合いそう? 大丈夫なの?」
葉月がそう尋ねると、絵美は何かを答え兼ねているのか、視線を右往左往させた後に「そうねぇ」と曖昧な相槌だけを打つ。
(まさか……これも神有先生の言ってた「踏み入れられたくないプライベート」ってのになっちゃうのかな……?)
「まぁ、なんとかなるでしょう。私も家に持って帰ってやる時もあるから、時間についてはそんなに心配する必要もないわね」
「あ、そうなの?」
「私の家、何もないから」
作業するには向いてるのよ。
そう言いながら絵美が頷く姿を見て、葉月は思わず自分のアトリエの方を想像してしまう。
葉月が一人っ子だということもあって、アトリエは今でこそ一人一部屋という扱いになっているが、弥生に比べてしまうと何もない部屋と言っても差し支えないのだが、それでも、画材や道具はかなり置いてある方だし、ここで流石に「僕も」とは言えないな、というところまでは考える。
育ちが違うのだから、「何もない」というのがどれくらい何がないのか、というのも変わってくる。
強いて言うなら、絵美には自分の部屋も寝る部屋もなければ、布団もベッドも冷暖房もない。
彼女にあるものは居間の机と本棚だけ。
勿論、自分の部屋も寝室も布団もベッドもないので、寝るときは居間で壁に寄りかかるか、その辺に横たわるくらいしかない。
家単位で言うのであれば、姉と母の部屋はあるが、その中のことを絵美は知らないし、冷蔵庫も置いてあるが中身は殆ど入っていない。
姉の部屋にテレビが置いてあったような気がするが、居間にテレビは置いていない。
タンスはあるがその中にしまうものは学校や母が仕事で使うもの以外何もない。
クローゼットもあるが場所を取るだけで、母と絵美の春物と冬物の服が必要最低限に二回分ずつあるぐらいで、彼女の家の中は、あまりにも何もない。
唯一ともいえる彼女のプライベートが詰まった本棚には、申し訳程度の幼稚園やら小学生の頃から使っている画材とイラスト集だったり色彩の本が敷き詰められている。
それが、絵美の言う「何もない」。
「貴方はきっと何か余計な気を遣っているのかもしれないけれど、それには及ばないわ」
「おっと、流石にバレちゃった? いや、僕もさ、お父さんのアトリエに比べたら何もないんだけど、アトリエがある時点で何もない、とは言えないよなぁって思って」
「あら、十分自分の立場が分かってきたのね。無知で無能な天才から、少しは理解のできる天才にはなれたんじゃないかしら?」
「まさか。僕は天才なんかじゃないから」
「毎度毎度、言ってることがころころ変わるわね」
葉月の言葉に絵美が呆れたように肩を竦めると、葉月は「んー」と言葉を濁らせる。
これに関しては絵美もこの前のように「さぁ?」とすっとぼけるものだと思っていたから、何をそんなに考える必要があるのかと首を傾げてしまう。
「僕は思うんだけどさ、行動にも考え方にも、ずっと一貫性のある人って居ないんじゃないかなって」
「自分を正当化させるのに必死ね」
「まあまあ、意外とまともな持論だと思うからさ、ここはとりあえず聞いてよ」
自分を正当化させたいことは否定しないけど、と葉月が笑う。
絵美もここはとりあえず聞いて、と言われてしまっては横から口を出すこともなんとなく憚られてしまう。
葉月は、絵美の真面目な性格を理解できている。
「もちろんね、漫画の主人公とかドラマの人とかアニメの主人公とか、まあぶっちゃけちゃんと見たこともなければ読んだことないから適当なことを言うけど、そういう人たちって行動にも意思にも一貫性があるから、矛盾がないから、最初から最後までかっこいいって思われると思うんだ。悪役だってそう、世界を征服してやろうって気持ちだけで悪役の良い位置まで行っちゃうわけでしょ」
漫画や小説を読んだことが無ければ、アニメもドラマもまともに見たことがなく、ましてやゲームもほとんどやったことがない。
だが、共通する部分というものはきっと、そういうところなんだろう、ということくらいは、葉月にも理解は出来ている。
「でもさ、僕は、そう簡単なことじゃないと思う。一貫性のある行動も、意思も……そんな簡単に、出来ないよ。矛盾ばっかり。少し前までアレが嫌いだと思ったり、少ししたらアレが好きだと思ったり、ちょっとしたきっかけで嫌になったり、ちょっとしたきっかけで頑張ろうってなったり、なんてことないことで崩れちゃったり、立ち直ったり。都合が良いのは分かってるんだけどさ、結局、みんな自分が特別可愛い生き物だから……きっとね、きっと、ずっと同じことだけを見て生きていける人なんて、そりゃまあ居るだろうけど……そんなたくさん居ないよ」
「……そう、かもね」
「泣きたくないのに泣いちゃうときとか、怒りたくないのに怒っちゃうときとか、嫌いになりたくないのに嫌いになったりとか、自分の感情って思い通りにならないことばっかりでさ。自分の感情なんて、自分でも分からないんだよね。「お前の行動には一貫性がない」って言われてるのを見たことがあるんだけど……僕にも刺さるものはあったんだけど、当たり前だろ! って、思っちゃった。今日は楽しいかもしれない。でも明日は嫌なことばっかりで死にたいかもしれない。その逆だってあり得る。今まで僕は絵を描きたくなかったかもしれない。でも、些細なことで、もう一回絵を描きたいって思った。自分の名前が嫌いだったけど、その名前で救われたこともあって、それで、やっぱりこの家で生まれてよかったなって思って、でもやっぱり嫌だなって思って、そんなことの繰り返しだよ」
葛藤ばっかりだよ。
葉月がそう言うと、絵美も頷く。
「貴方が言うと、説得力もあるかもね。……貴方、作家になれば?」
「無理無理! 僕小説なんて国語の授業以外でほとんど読んだことないし!」
絵美の発言に露骨に驚いたように葉月が大きく顔の前で手を否定するように振ると、絵美は「もったいない」なんてことを言う。
(なんか、ただの言い訳みたいなことを無駄に語っちゃったな……)
なんとも言えない羞恥心でいっぱいになってしまいそうだったが、絵美の次の一言で葉月の恥ずかしい気持ちなんてどこかに飛んで行ってしまった。
「貴方と出会ったという出来事で、死にたくないと思ったわ」
(まあ、結果論だけど)
葉月と絵美がそんな話をしているうちに月人が教室に入ってくる。
それを見て、絵美と葉月はそれぞれの席に座った。
葉月が最後の絵美の言葉でニヤニヤしていたということは、言わずとも分かることだろう。




