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体育祭の日まで残り数日というところまで迫った時、葉月はついにコンクールの作品の着色へと取り掛かっていた。
応募締め切りは七月中旬、体育祭が終わって、期末考査が終わってからでもギリギリ間に合う、という日程なのだが、やる気を出していた葉月は今にでも完成させたかった。
葉月があまりにも真剣に目の前の作品に取り掛かる姿勢を見せることもあって、絵美も余計な茶々を入れることはないが、その姿勢を見ると、やはり実感してしまう節はある。
(……姿勢だけは、天才なんだけど)
上から目線な視点になりながら絵美は机に肘をつけながら葉月のことをまじまじと見つめる。
いくら絵美がそちらに視線を向けても、葉月が絵美の視線に目をくれることはなく、絵美も思わず肩を竦めてしまう。
(そんなに集中できるなら、最初からそれくらいやればいいのに)
目の前で集中してキャンバスに向かう葉月の姿は、今までの飄々とした、なんてことないことをしているような雰囲気が全く感じられなかった。
今まで絵美が見てきた葉月の絵を描く姿は、「仕方なく」絵を描く姿で、その姿が、絵美は嫌いだった。
彼女は絵を描くことが好きだったから。絵が好きだったから。
だから、人にやらされているように絵を描く葉月のことは、余計に嫌いだった。
人にやらされて描きたくもない絵を描かされているように絵美には見えていたから、そんな人間が世間から「天才」と呼ばれていることが、気に食わなかった。
今の葉月は、本気でキャンバスに向き合っていて、時折口角が緩んでいるのを見るに、きっと、葉月は今、絵を描くことを楽しんでいる。
絵美も暫く葉月を見た後に画用紙に目を向けると、丸まった鉛筆で線を引く。
さあ、何もできない凡人は、凡人なりに何を描こうか。
「師走さん、それ持とうか?」
月人に頼まれて道徳の教科書を職員室まで持っていこうとしていた絵美に気が付き、葉月は絵美の返事を聞く前に絵美の手から半分より少し多いくらいの道徳の教科書を奪い取る。
「……何も言ってないんだけど」
「お節介したいなぁって思っただけ」
「あっそ」
その日の六時間目の授業はロングホームルームだった。
進路活動がある中で、社会に出るまでに知ってほしい話とやらで道徳の授業をやったのだが、まさか高校生にもなって道徳をやらされることになるとは思っていなかった。
小学生の頃は道徳の教科書は自分で持つものだったが、気付いたときには道徳の教科書は学校から借りるものになっているような気がする。
画集晩秋の話なんかが載っていたりするときもあったから、葉月としてはそのページを見るたびに複雑な気持ちになっていたけれど。
「まさか、今日の授業でおじいちゃんの話をやるなんてなぁ……神有先生、わざとじゃないの?」
「どうでしょうね。道徳はどうか知らないけど、学校の先生ってロングホームルームでやらなきゃいけないことが決まってるらしいし」
「そうなんだ? 神有先生がそう言ってたの?」
「よく分かってるじゃない」
案の定だった。
絵美の持っている教教師の情報というのは、大体の確率で月人が情報源になっている。
教師として大丈夫なのかとも不安に思わなくもないが、確かに、絵美が相手だということを考えるとぺらぺらと喋ってしまう気持ちもまあ、分からなくはない。
「画集晩秋のお母さまって、宝飾家だったのね。画集晩秋が宝石商なのを不思議に思っていたのだけれど、それを聞いたら納得したわ」
「僕も今日初めて知ったよ。そもそも、宝飾家って言われてもあんまりピンと来ないし。少し時代が前だったらよくある仕事だったのかもしれないけど、今じゃそんなに聞かないよねえ」
葉月の「僕も今日初めて知った」という発言には絵美としても眉を顰めざるを得なかったが、絵美が突っ込むよりも先に葉月は言葉を滑らせる。
「そうねぇ。一度芸術家の定義で調べたことがあるけれど、宝飾家についてはそこまで詳しく書かれてるわけでもなかったし。仕事としてはあったのかもしれないけど、珍しいお仕事なのかもね」
「ま、芸術家そのものが結構珍しい職業だから。……ああでも、舞台とか作家も芸術家っていうし、今じゃそうでもないのかな?」
葉月が苦笑を浮かべながらそんなことを言ったのを聞いて、絵美も「そうかもね」と言いかけたところで言葉を止める。
「そう」まで言ったところで絵美の声が途切れたこともあって、葉月が不思議そうに首を傾げると、絵美は首を横に振った。
「……いや……芸術文化こそ昔から続いている伝統的且つメジャーな職業だと思うけれど」
「そうなの?」
「紫式部だの清少納言だの居るじゃない。今よりもずっと昔に。当時の官僚なんかは詩人としても有名だし、彼らもまた、官僚でありながら芸術家だったでしょう。それに、今の時代だって、他の仕事をしながら絵を描いたり物を書いたり残したりする人って、そう少なくないんじゃない? もちろん、本業にしてる人もいるけれど、趣味の一環でやってる人も珍しくないと思うし、それでお金を稼いでる人も居るんだから」
「ああ、そっか……いわれてみると、盲点だったかも」
「貴方のおじいさまもこの教科書で言ってたじゃない」
この教科書、と言いながらとんとん、と絵美が道徳の教科書を指でつつくと、葉月は苦笑を浮かべながら「なんか書いてあったっけ?」と首を傾げる。
葉月のそんな様子に思わず絵美は肩を竦める。
「芸術家には誰にでもなれるが、評価を求めるなら、芸術家になるべきではない」
「あはは……言いそうかも……」
「……その通りね、と思ってしまったわ」
職員室の資料室に道徳の教科書をしまう手を止めて、絵美はそんなことを言った。
葉月もそれにつられて手を止めると、「どうして?」と絵美の言葉に質問を投げかける。
「誰にでもなれる分、誰の目にもつかない可能性もあるってこと。図書室だの本屋だの行っても、知ってる作者だとか、テレビで取り上げてたりでもしないと、読書が相当好きな人でもない限り読まないでしょう? ……ううん、読書が相当好きな人だって奥に隠れた作品は読まないかもしれない。絵画だってそう、貴方は画集の名前があって取り上げてもらうことが出来ているし、画集の名前があるから周りも貴方を認知しているけれど、ほんのちょっと絵が上手いだけじゃ、それこそ運が良くなくちゃ、見てもらえない」
(だから、評価を求めるなら芸術家になるな、ってことか……)
絵美の説明を聞いて、葉月は納得したように頷く。
再度教科書を片付け始めた絵美のその姿は、どこか小さく見える。
「師走さんは……芸術家になりたいの?」
「……ええ、きっと」
(こんなに悔しい気持ちになるから、きっと)
葉月の方を見ることなく絵美がそう言うと、「そっか」と葉月も頷く。
「じゃあ、師走さんは評価される芸術家になれるんじゃないかな。……ううん、なるよ」
葉月から出てきた言葉に、絵美は驚いたように目を見開くと、振り返ってフッと鼻で笑う。
「どうして?」
「僕が、師走さんの絵を評価するから」
にこやかに笑いながら言う葉月の目は真剣そのもので、絵美も目を伏せてから少し考えるような素振りを見せてくすくすと笑う。
「天才なんかじゃないって泣き喚いてたのは、どこの誰だったかしら?」
「さぁ? 知らなーい。僕は画集葉月だから、僕が評価したら師走さんは絶対に世間からも評価されるから。使えるものは使わなくっちゃ」
「……それは、嬉しいけど……そこまでするメリットが、貴方にあるの? ていうか、貴方、私の絵も見たことないじゃない」
すっとぼけたようなことを言う葉月に不思議そうに絵美が首を傾げる。
(私は、彼に評価されるような人間じゃないのに)
「確かに、僕は師走さんの絵を見たことないけど……でもさ、師走さんは……」
葉月は少し恥ずかしそうに、照れて笑った。
「師走さんは、僕に絵を描く楽しさを、思い出させてくれたから」




