16
テスト週間に入る前の最終日、月人は職員会議があるからと面倒を見てやれないと言われてしまい、代わりにデッサンのための石膏像を置かれて、俺が戻ってくるまで適当に描いておいて、と言われてしまった。
まあ、デッサンを受験する学校もあるし、これくらいはできないとまずいのだが、今まで独自の路線を走りすぎたせいでデッサンはあまり上手くいかない。
そりゃ美術部として三年間周りがやめていく中真面目に参加をしていたし、普段から絵を描く分、少し絵が上手い人よりかは描けているかもしれないが、他の作品と比べてしまうと、やはり衰えている。
そして上手くいかないものというのは、やっていて苦痛だ。
スケッチブックも鉛筆も投げ出してもう帰ってしまおうかと葉月が考え始めたころ、丁度良く美術室の扉が開き、月人が戻ってきたのかと思い、ぐったりと体を預けていた机から起き上がる。
「情けない人ね」
が、そこに居たのは絵美の姿で、葉月からは「へっ⁉」と間抜けな声が漏れた。
「月人先生に言われたの。「なぁ師走、今日用事がないなら、俺が職員会議から戻るまでで良いから画集の面倒を見てやってほしいんだ」、とね」
きっと月人の真似なのだろうが、少し気だるそうに話す絵美はシュールで面白かった。
普段なかなかふざけたりしない人が時折見せるお茶目っぷりというものは、どうしてこんなにも面白いのだろう。
(しかも、若干似てるのがなぁ)
とはいえ、ここで絵美が来てくれたのは葉月にとっても嬉しかった。
どちらにせよ、このまま月人が戻ってくるまで放置しているつもりだったところにやってきてくれたし、絵美は葉月と違って学んで美術と向き合っている。
恐らく、デッサン力で言えば絵美の方が上だったりするかもしれない。
「僕デッサンがあんまり得意じゃなくてさ。美大の受験ではあるかもしれないから、ちゃんとやっておけってことで神有先生が居ない間はデッサンしてるって感じ」
苦笑いをしながら葉月は描きかけのスケッチブックを絵美に見せると、絵美はじっと途中まで描かれた石膏像をじっと見つめてから肩を竦める。
「デッサンだったら私の方が上手いんじゃない?」
「まさにその通りだよ」
絵美の方から想像もしていなかった発言が出てきたことに、葉月は一瞬信じられない気持ちになったが、それでも事実であることは間違いないので、面目なさそうに笑った。
「あれ? 貴方、私のデッサンの絵を見たことがあったかしら?」
「ううん。ない。でも、僕もデッサンに関してはてんでダメだなって自覚はあってさ。多分、僕よりもうまい人はたくさんいると思ってる。……それも、美大受験をするような人とかはきっと」
「自覚があるだけまだマシね。……ところで、前々から思っていたのだけれど、貴方、わざわざ一般受験するつもり?」
「うん、そうだよ」
「そんなことしなくても、貴方は名前でも書けば引く手あまただと思うのだけれど」
絵美の口から出てきたその言葉は、嫌味でも皮肉でもなんでもなく、純粋な疑問だということは言われずともわかった。
きっと絵美には怒られてしまうかもしれないが、葉月からすれば絵美とは親しい関係になれたと思っているし、それぐらいの言葉のニュアンスであれば理解もできるというものだ。
口が裂けてもそんなことは言えないが。
「うーん、なんていうか……僕は、ちゃんと僕を見てほしいなって、思ったんだ」
「……へぇ?」
「もしかしたら師走さんにはあんまり良い意味に聞こえないかもしれないんだけど、生まれた場所は変えられないじゃない。確かに僕は生まれた時からすごく恵まれてたんだけど、こんなことを言うと世間様に……ううん、お父さんやお母さんにも失礼だってことも分かってるんだけど、どうしても、僕は……思っちゃうんだ」
鉛筆をぐ、と握りしめる葉月の顔はいつにもなく真剣で、そこで余計な嫌味や皮肉を入れたりすることなく、絵美は黙って葉月の話に耳を傾けていた。
ちらりと絵美の方を見ると、絵美は葉月のことをしっかり見ていて、葉月はなんだか少し、泣きそうになってしまった。
「お前ら、僕のこと何も分かってないだろって」
声が、震えた。
絵美から目を逸らしながら葉月がそう言うと、一度話し始めたら止まらなくなってしまったのか、葉月は言葉を繰り出す。
やめておけば良いのに、真剣に話を聞いてくれる絵美に甘えてしまっている自分が、ひどく情けなくて、申し訳なくて。
「僕の絵ってそんなに良いもんなの? そんなに価値のあるものなの? 僕には到底そう思えない。僕は絵を描くのが好きで、何かを表現するのが好きで、色が好きだったってだけ。たまたま、本当に運が良くてあの環境に居るだけなのに、それをさも当たり前のことみたいにみんな言うんだ。僕はただ、絵を描くのが好きだって感情だけで今まで絵を描き続けてたのに、何も分かってない周りが勝手な考察をして、勝手な評価をつけて、それで僕を「天才」だって言うんだ。僕を評価してるんじゃなくて、評価してるのは僕の名前だってことに気が付くのにそんなに時間はかかんなかったよ。師走さんが僕の家に来る前に言ってたよね。招待されるのは凄く疲れるって。いつからかは分かんないけど……僕も気付いちゃったんだ。呼ばれてるのが“僕”じゃなくて、“画集葉月”だってこと。画集葉月なのかどうかもあやふやで、本当にみんなが招待してるのは、期待してるのは……“画集”の苗字だけってこと。……師走さんの前でこんなことを言うのは凄く失礼なことかもしれないけど、師走さんはきっと良い思いをしないかもしれないけど……でも、僕は、僕は……」
(やめろ、言うな。それ以上は)
分かっている、気持ちはこの先を言わない方が良いことを分かっている。
けれど、その瞳に涙を溜めてしまうくらい高ぶった感情は、今更落ち着こうとなんてしてくれない。
「天才になんか、なりたくなかった」
意識なんてしていなかったのに、ぽたぽたと葉月の両目からは涙が零れ落ちて、スケッチブックにシミを作る。
「僕は、天才なんかじゃ、ない」
葉月はそれを言うと、悔しいのか悲しいのか、自分でも分からぬまま、ぽたぽたと落ちてくる涙を抑えることも出来なかった。
それを黙って聞いていた絵美は困惑しているようで、その反面安心もしているようで、でもどこか苛立たしそうで。
「大丈夫よ。私は貴方のことを天才なんて思ったことないから」
絵美が彼に掛けてあげることのできる言葉は、それだけだった。
しばらくすると、泣き止んだ葉月は思わず弱音を吐いたことが恥ずかしくなってしまって、思わず顔を机に突っ伏してしまう。
「ご、ごめん、師走さん……」
折角来てくれたのに、と葉月が言うと絵美そんな葉月を無視した。
思わず葉月の口からは「えっ!?」と声が出たが、絵美はちらり、と葉月を見た後に呆れたように肩を竦める。
「貴方は一体何の話をしているの? 何か私に謝るようなことでもあったかしら? 貴方のような天才に謝っていただけるなんて光栄だわ」
いつもの様子でそんなことを言う絵美がおかしくて、泣き止んだばかりの葉月は鼻声になりながら「なんだよ」と笑ってしまう。
「私は何も知らないし、聞いてもいないわ。私は自分のことで精一杯なの。他人の話してたことなんて一々覚えてないわ。ああでも、貴方がどうしても私に謝りたいと言うのであれば素直にそれを受け取ってあげましょう。凡人は素直でいなくちゃ失礼よね。何がごめんなのか一切理解できないけれど、良いでしょう、許してあげましょう」
いつものように澄まし顔でそんなことを言う絵美の姿が面白くて、思わず葉月は笑ってしまった。
初めて自分の弱いところを誰かに見せてしまって恥ずかしい気持ちもあったのだが、それをまるでなかったかのように接してくれる絵美には、やはり流石だと思った。
(師走さんは、優しい人だよ)
言ってやろうとは思わないが、優しい人だとは思った。
もしこれを聞いていたのが他の人だったらどうだろう? いわゆる、肩書きだけで葉月を語る人間だったらどうだろう?
きっと変な気を遣って葉月とは関わらないようにしていたかもしれない。そんな気がする。
葉月にとって、絵美は間違いなく特別な存在だった。
「ところで、デッサンの練習をするのでしょう? さっさと見せなさいよ」
「えっ、待って、ちょっと今スケッチブック濡れちゃってて……。て、ていうかさっき見たじゃん!」
「あのねぇ、私は美術の専門家でなければ先生でもないんだから、一瞬ちょっと見た絵を見てあれやこれとアドバイスができるとでも思ってる? 今から描き直すんでもいいから、とにかく見せてくれないと」
「確かに……」
絵美の言葉があまりにもごもっともで、葉月は少し恥ずかしくなりながらスケッチブックのページを新しくめくる。
目の前の石膏像に向き合ってデッサンを始める横で、絵美はじっと葉月のスケッチブックを見ていた。
今まで誰かに絵を見られるということはよくあることだが、こうして改めてガン見されると気になってしまう。
気を散らせたら負けだ、とりあえず今は目の前にいる名前の分からない石膏像の絵でも描き切ってやろうじゃないか。
大丈夫、だって、今自分の絵を見てくれている人は、葉月の絵を見てくれている人は、葉月のことを天才とは、思っていないから。
(ここに居る人は、“僕”しか見てない)




