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ゴールデンウイークを明けてから一番最初の登校日。
絵美は、学校を休んだ。
こんな時に連絡先があれば「大丈夫?」だとか「調子はどう?」なんてことを聞くことができたかもしれないのだが、それをすることすら叶わない。
(もしかして、昨日から体調が悪かったりしたんじゃないか……?)
そんな不安が葉月の頭の中を駆け巡るが、当の本人が居ないため、そのことを聞くことができない。
月人がいうには、体調不良で学校を休むという連絡が来たというふうに言っていたが、本当に絵美が体調が悪いのかが分からない。
(……昨日、何かしちゃったかな……)
そんなことを考えていたせいか、葉月のキャンバスに向かう手は止まってしまっていた。
「……どうした? 画集」
「え? あ、い、いや」
月人の方から声をかけられることが珍しくて、思わず葉月は反応が遅れてしまった。
なんでも、と葉月が返そうとしたところで、月人はもう一度口を開く。
「珍しいな。少し前までは一人の方が生き生きしてたのに」
「……え?」
「少し前と言っても、君が三年生になる前の話なんだけどさ」
月人は授業の準備をしているのか、篆刻をしながらそんなことを言った。
葉月も立体もできないことはないけれど、あまり得意ではないため、器用に手のひらサイズの石を彫っていく月人の器用さには感心する。
普段が適当な人間であるように見えるだけに、その手先の器用さや丁寧さというものにはやはり見入ってしまう。
「画集は、師走と話すようになってから少し変わったよ」
月人はそう言うが、一度も葉月の方を見ることはない。
それがどういう意味での「変わった」なのかを聞きたいような、やっぱりできることならあまり聞きたくないような、複雑な気持ちだ。
(あんまり、悪い意味じゃないと良いんだけど……この人ならあり得るよなあ……)
「ああ、もちろん、いい意味で」
葉月の意図を気にしていることに気付いたのか、あるいはそれとも何となしに言ったのかは分からないが、月人は葉月の方にようやく目を向けて言った。
「……かも、しれませんね」
「ま、お前にあんだけズバズバ物言えるやつも珍しいし、多少の影響は受けるだろうね。よく言えば素直だが、師走は少し言いすぎるところがあるからなあ」
「全くですよ」
今までどうして気にすることが無かったんだろう。
いや、そんなことは分かっている。
葉月は、何もせずとも周りに人が寄ってきた。何もせずとも人が寄ってきて、そして勝手に人が離れていった。
葉月とて常に気分が良いわけではない。誰かの誉め言葉にうんざりすることだってある。本当に自分の描いたものを理解してくれているのかと不安になる。
そんなことを言ってみたら、今まで興味関心を持って近付いていた人間は潮が引くように離れていく。
最初から関わろうとしてこない人も多かったし、絵美も最初はそんなもんだったんだろう。
葉月があの時、歩道橋に立った時に初めて絵美を視野に入れることになった反面、絵美の視界には入れないようにしていただけで、ずっと葉月の存在はあったのかもしれない。
いいや、間違いなく、視界にはずっと居ただろう。
「先生も、師走さんといるときは楽しそうですよね。……なんかあったんですか?」
「……別に、なんもないよ。ただ……まあ……彼女は俺のことを好いてくれているように思うし、そのことに対して不快な気持ちはないってだけ」
「素直じゃないなあ」
「うるせえな! 黙ってコンクールの作品作ってろ!」
「はーい」
三年生になるまで、担任になるまで、正確には、絵美と話すようになるまで、葉月は月人が苦手だった。
常に何を考えているのかも分からないし、美術の授業でも部活でも「いいんじゃない?」とだけ言って終わり。
まあ、その「いいんじゃない?」って返しを実は全員にしていることを、今の今まで知らなかったのだけれど。
(あ、でも……)
ふと、一年生の頃の部活のことを思い出す。
まだ葉月と絵美以外にもそれなりの人数が部活に居た時、どんな部員に対しても月人は「いいんじゃない?」と返していたのだが、その時に「適当なこと言わないでください」と言っている人が居たこと。
葉月はその人物のことを、彼女のことを知りはしなかったけど、月人にはっきり発言をしていたことだけは印象に残っている。
(そっか……あれ、師走さんだったのかもしれないのか。……かもっていうか、答え?)
葉月はどこかで絵美の当たりが強いのは画集葉月という肩書きのせいかと思っていたのだが、そんなことはなく、絵美はひたすらに対等だっただけなのだろう。
対等で、真面目だった。
その日の部活は、下描きだけで終わってしまったが、月人は帰り際に葉月の下描きを見て「いいんじゃない?」といつものように言っていた。
相変わらずの人だなと思ったが、その時の月人の表情は柔らかで、あんな優しそうな顔で「いいんじゃない?」なんていう月人が珍しくて……というか、葉月にとっては初めてのことで、思わず目を疑ってしまった。
葉月は月人のことを好意的には見ていないが、それこそ、絵美のように言うのであれば、遠回しで、不器用で、皮肉な言い方をするのであれば、憎からず思っているし、月人もきっとそうなんだろうと思う。
家に帰ってから、葉月は絵画室のアトリエにこもってコンクールに向けた絵を何通りか描いていた。
「はーくん、ご飯食べる~?」
「ん、あ、いや、キリが良いところまでやったら適当に済ませておくよ。ありがとう、お母さん」
「無理しないでねえ」
(描きたい)
(「夢」を、「憧れ」を、描きたい)
物心がついたときには、絵を描くことが好きだった。でも、自分の知らないところで自分の絵に多額のお金がかけられていて、いつの間にか絵を描くことは、意識せずとも仕事になってしまっていた。
ただの落書きにバカみたいな額が付いたときは、頭のどこかがイカれてるんじゃないかと思った。
芸術一家に生まれてきたことを後悔したし、どうして父が画家なんだろうと涙を流した日もあった。
けれど、今はただ、描きたい。
もしかしたら、久しぶりに抱いた感情かもしれない。今まで絵を描くことを義務のようなものだと思っていたけれど、久しぶりに、一つの「好きなこと」をしている気持ちになれている。
とても、恵まれている。
絵を描くことが、やっぱり葉月は好きだった。
(僕は、恵まれてるんだ!)
「弥生さん、はーくん、最近楽しそうねえ。師走さんがお家に来てくれてからかなぁ? また来てほしいわねえ」
「ああ、そうだね、皐月。私も彼女とは少し話してみたいことがあるから。……ああでも、本当に久しぶりだな。葉月がアトリエにこもってる姿を見るのなんて」
「夏の絵画コンクールに出展するんですって。それだけ説明したらアトリエにこもっちゃった」
嬉しそうに皐月と弥生は二人で夕飯を囲んでいた。
この場所に皐月か弥生が居ないことはよくあることだったが、ここに葉月の姿が無いのは珍しい。
何か用事があって外に出ていて、なんてことはあるが、絵を描くために夕食の卓に現れないということは、もしかしたら初めてのことかもしれなかった。
「嬉しいね、皐月」
「そうですねぇ、弥生さん」
(私たちの存在が、きっと君を苦しめていたのだろう。……少しでも、葉月が私たちという呪縛から逃げることができたなら、親として、それ以上に嬉しいことは、無い)




