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絵美はそれからも弥生の作品の一つひとつを丁寧に見ていて、ここまで熱心な姿を見てしまうと、子として嬉しいような、少し恥ずかしいような、何とも言えない気分になる。
葉月としても何度か見たことのある作品ばかりだったが、それでも、こうして改めて見るのはやはり味が違うものだと思う。
絵美が「歴史」という題名の作品の前で立ち止まっているのを見て、不意に今の今まで忘れていたことを突然に葉月は思い出す。
絵美に聞こうと思っていたまま、そのまま放置してしまったことだ。
「師走さん」
「なに?」
「ロベール二世って、なに?」
「……は?」
絵美からすれば、脈絡もなく何を言っているんだこいつは、ということなのだが、葉月は「歴史」という題名のついた彫刻を彫る人が描かれた作品を見て、つい先日、皐月がロベール二世を落としたことを思い出した。
こんなところで思い出すことになるとは思っていなかったが、まあせっかくの機会だし聞くだけ聞いておこう。
皐月があのよく分からないロベール二世を彫った意味が分かるかもしれない……なんてこと、あるだろうか?
(ま、雑談の一環だよね……。そんなこと言ったら怒られそうだけど)
「あ、いや、ほら、師走さんって世界史受験って話を神有先生から聞いてさ。もしかしたらなんか知ってるかなって思って」
「貴方は日本史受験でしょう?」
「おお、よく知ってるね。もしかして言ったことあった?」
「月人先生から聞いたわ」
(僕も勝手に神有先生から聞いてたから言えることじゃないんだけど……あの教師、個人情報の保護って言葉知らないのかな……)
葉月が絵美が世界史受験だと知ったのは絵美がバイトで早く学校を出た日に、丁度良いからと軽く二者面談もどきを行った。
その時に、葉月の受験科目が日本史だという話をした時に月人の方から「師走は世界史受験だよなあ」みたいな話をしていたのだ。
基本欠席なく部活に参加している葉月だが、急用が入ったりしてしまうと部活は流石に休んでいるので、恐らくではあるが、絵美も葉月と同じような形で葉月が日本史受験をするということを知ったのだろう。
「ロベール二世、は……ごめんなさい、知識が及んでないみたい。名前だけなら聞いたことがあるんだけれど」
「そっか。僕も名前だけならなんとなく聞いた気がするなあって思っただけなんだよねぇ。もしかしてそんな有名な人じゃないのかな?」
「……多分」
申し訳なさそうに眉を寄せた絵美の姿に、腕を組みながら葉月は納得の姿勢を見せる。
ますますあの時皐月がなぜかロベール二世を落としたのか分からなくなってしまったが、正確に言えばロベール二世を彫ったのか分からなくなってしまったが、絵美も言っていた通り、皐月は独特な感性を持っている。
まあつまり、ずれている。
そこを利用して名前を広げているのだから、確かに一般的に求められるようなものなんかは依頼でもされない限り作ることは無いだろう。
(いや、それにしたってロベール二世を頼む人なんか居るのかなぁ……。美術の先生とか……社会科の先生くらい?)
「……師走さんはさ、なんで絵を描こうと思ったの?」
熱心に弥生の絵を見ている最中でそんなことを聞くのも野暮かとも思ったのだが、むしろこんな機会でもなければ答えてくれないような気がして、不意に葉月はそんなことを尋ねてみる。
葉月は生まれながらにして絵を描く環境が完璧に整っていたから絵を描くことも必然的なような気もしたけれど、特別に環境が整っているわけでもないと絵なんて描こうと思って描くものではない気がする。
絵美は漫画やアニメだったりを好んで見るようには思えないし。
「小学生の、とき」
絵美はいきなり動き出したかと思えば、今まで熱心に見ていた絵を素通りして、とある一枚のはがきサイズの小さな絵のところで足を止める。
その絵を見た時、思わず葉月は目を見開く。
こんなにも小さな絵を弥生が描いていたことを、今日この日まで、葉月は知らなかった。
いや、正確には、題名だけを何かで聞いたことはあったが、それがどんな絵なのかを、葉月は知らなかった。
自分の父が、“こんなもの”を描くと、思っていなかった。
「夢と歩道橋」という題名のついたその作品は、錆びた歩道橋と同じ色のワンピースを着た少女が裸足で歩道橋からジャンプするという衝撃的な絵だった。
弥生はどんな絵だって描く画家だった。
それが依頼されたものだったのか、それとも弥生の意思で描いたものなのかは分からないが、だが、その絵というのは何とも言えない気持ちになる。
なんというか、漠然とした不安が襲うような絵だった。
「美術の教科書の端っこに、風刺画としてこの絵が載っていたの」
「風刺画!? って、あの、世界史の教科書とかにめっちゃ載ってるやつだよね?」
葉月の問いに絵美は呆れたようにため息を吐いたが、すぐに「そうよ」と頷いた。
絵美のこの様子を見るに、絵美の人生観というものを変えたのが弥生のこの絵だったりするのだろうか? 彼女は純粋に画集弥生という存在をリスペクトしているようにも思えるが。
「私にはこの風刺画の真意はまだ分かっていないけれど、私の勝手な解釈は……若者の自殺者と、それを無視する世間の様子だと思ってる。このどう見ても良い意味に捉えるのが難しい絵に「夢」なんて皮肉な言葉を使うことも、素敵」
歩道橋と同化したワンピースを着た少女の表情は、絵美のよく見せる自虐的なものに似ている。
それには気付かぬように歩道橋の下を走る車。
個人的な解釈を述べてくれた絵美の眼差しは熱く、こんなにも何かに熱を向ける絵美の姿に、葉月は思わず見とれてしまった。
何もかもを厭世的に見ている彼女が、こうして何かに熱中している姿というものは、なんとも言い難い儚さがあった。
「そ、っか。……これが、絵を描くきっかけ?」
「……それだけ? とでも、思ってる?」
「……バレた?」
葉月が苦笑をすると、絵美は「しょうがない人」と言いながら小さな絵から目を離して、しかし絵を見ていた時と同じ熱を持って葉月を見る。
普段はどこか遠くを見ているような瞳が、初めて自分を捉えていることに、こんな状況だというのに葉月の心臓は大きく高鳴った。
この高鳴りがどんな意味をあらわしているのかは、本人にすら分かっていないのだけれど。
「人生を変えるような出来事ってね、案外しょうもないことなの。居るでしょう? あの音楽を聴いてから人生観が変わったとか、この本は私の教科書だとか、あの人との出会いは自分の人生を狂わせた、とか言ってる人」
「ああ……確かに」
「私にとってそれが、画集弥生のこの絵だったってだけよ」
「なるほどね。……少しだけ、分かる気がする」
「どうだか」
「本当なんだけどなあ」
(本当だよ)
そういうことにしておきましょう、と苦笑を浮かべる絵美の姿を見て、葉月は思う。
(君と出会ってから、僕の人生は変わった)
満足するまで絵美に付き合っていると、美術館から出た時にはお昼を回っていて、どちらかというとおやつの時間になっていた。
一緒に弥生の個展を見る約束はしていたが、その後のことについては特に何も決めていることも無かったので、ここで解散するべきなのか、それともどこか寄るべきなのか分からない。
葉月としては絵美ともう少し居たい気持ちもあるのだが、絵美の方はあまり人込み等も得意ではなさそうだし、何よりも、あそこまで熱心に絵を見ていたことを考えると一人で余韻に浸りたいという気持ちにもなるかもしれない。
葉月から誘えずにどうしたものかと腕を組んでいると、絵美の方から口を開く。
「ところで、さっきまで貴方に付き合わせていた私が言って良いセリフではないのでしょうけれど、思っていたよりも長居をしてしまったからお腹がすいたわ。少し早いけれど、私は何か夕飯を兼ねて食べて帰ろうと思っているのだけれど、貴方はどうするの?」
「え……あ、ぼ、僕も、僕も何か食べて帰ろうかなって思ってた!」
「そう。それじゃあ、どこかに寄ってから帰りましょう。わざわざ別で行動する必要もないし。あ、もちろん、貴方が凡人の天才褒めは聞き飽きたから一人で落ち着いてディナーを楽しみたいというのであれば別行動でも構わないし、そもそも凡人と歩くことで精神的に傷を負ったというのであれば私も無理に誘ったりはしないわ」
「出た。いつもの」
相変わらず達者な口だ、と思いながら思わず葉月が顔を顰めると、絵美は「で。どうするの」と葉月の答えを急かす。
やれやれと葉月は肩を竦める。
「ぜひ行かせてください! 僕が師走さんとご飯に行きたいから!」
そう、と答えた絵美の姿は嬉しそうで、葉月も思わず笑みがこぼれてしまう。
最初は面白半分でしかなかった彼女の嫌味や皮肉も、今となっては大事なコミュニケーションの一つになっている。
素直な絵美が悪いとは言わないが、素直ではない遠回しな彼女の物の言い方に、葉月も毒されつつある。
まだ絵美のことは分からないことだらけだが、少なくとも、葉月はこの時間を楽しいと思っている。
そして絵美もまた、この時間を楽しいと感じてくれているだろう。
「師走さん、何食べたい?」
「じゃあ、逆に聞くけど、貴方は何を食べたくない?」
「質問に質問で返さないでよ……しかも何そのひねくれ方……」




