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十時を三十分ほど回った後、葉月と絵美は個展の会場に入場していた。
流石に葉月の方は美術を好んでいる人たちには顔が通っているようで、葉月が会場に踏み入れただけでその場は微かにざわついていた。
が、そのすぐ隣に絵美が居たことも重なってか、すぐにプライベートだと察した模様の一般客は特別葉月に何かのアクションを残す、なんてことはしなかった。
家で作成途中の物を見てきたりしていたが、こうして完成された父の作品を改まった場所で見るというのは、なかなか新鮮な気持ちだった。
ちらりと絵美の方を見ると、絵美は弥生の一つひとつの作品に食い入るように見ていて、葉月は何故だか、自分のことのように嬉しい気持ちになっていた。
(やっぱり、師走さんは純粋に絵が好きなんだろうな)
だからこそ、葉月が許せない。
「ねえ」
「ん? え、僕に話しかけた?」
「貴方以外に私と話す物好きなんて居ないと思うのだけれど」
「あ、そ、そっか」
ここで「そっか」と返してしまうのもどうかと思うのだが、まあ、「この場所で」という言葉が隠されていると解釈すればおかしな返答でもない。
絵美の方から話しかけられるというものもなかなか珍しいことなので、全く話しかけられることが無いわけではないが、それでも微妙な反応を返してしまう。
「それとも、貴方には私には見えないお友達でも見えたのかしら? ええと、そういうのってなんて言うんだっけ? イマジナリーフレンド?」
「小さい頃はままあることだって言われてるけど、仮に僕がまだイマジナリーフレンドが見えてるとしたら相当僕やばくない? いや、別にいいんだけどさ……師走さんに話しかけたんだし……。それで? どうしたの?」
絵美に話しかけたというのに「見えないお友達」だの「イマジナリーフレンド」だの言われて葉月も言い返してしまう。
絵美の方は適当に返されると思っていたらしく、ご丁寧に回答をしてくれた葉月に驚いたようにした後に「冗談」といつものように肩を竦める。
「……貴方は、この絵の“粗”は何か分かる?」
そう言って絵美が指で示したのは、「宝」だった。
(ん? そういえば……僕の家に業者の人とか来たっけ? 原画の搬入とか必要だよね? まさか贋作とかコピーだったりするの? まあ、そういうものも展示したりすることもあるらしいけど……お父さん、許すかなぁ……?)
「私ね、貴方の家でこの絵を見た時に「何か違う」って思ったの。それってきっと、本物の天才を目の前で見ちゃったことによって少し感覚が麻痺しちゃってるのかなって思っていたのだけれど……これを見て、私はきっとあなたの家にある作品を“粗”だと捉えてしまったんだ、という確信を持ったわ」
「……ん?」
(まさか、違う絵って言いたいわけ? 同じ絵を二枚も三枚も描くこともなくはない……とは思うけど、その場合、この絵の価値というものは今ほど大きくはないよねぇ……。それに……仮にもお父さんのデビュー作だし……そんな簡単にコピーするかなぁ……)
「これは、貴方のお父様以外の人が描いたものね」
「……はっ!?」
絵美から出てきたあり得ない言葉に葉月は思わず目を見開く。
(お父さん以外だって? そんな話、聞いたことないぞ……)
「宝」と題名をつけられたこの作品は、画集弥生を代表する作品の一つで、美術の教科書にも現代美術の例として載っている作品だ。
定期的にテレビでも弥生の特集を組まれることがあるのだが、その時に代表作としてテレビに映されるのもこの絵だ。
(その作品が、お父さんの……「画集弥生」の描いたものではない?)
「ど、どうして?」
信じることができず、葉月は絵美に問いかける。
「貴方の家に飾られていたものは、この辺が白かったの」
この辺、と言いながら指をさしたのは丁度額縁に接する右下だった。
普段から目に入るものだったこともあり、家のがそうだったかはよく思い出せないが、この絵の右下には大木の幹のような模様が描かれている。
「それと、この空の表現も」
それは家のがどんなものだったか思い出せる。青い空に白い雲がぼかしのように上から透き通った色で描かれているのだ。
(んん……? 駄目だ、よく分かんなくなってきた……師走さんは何が言いたいんだ?)
「よく見て。この空、本当に青かしら?」
絵美にそう言われて葉月は目を細めて見ていると、確かにそれは遠目からは青いようにも見えるのだが、近くで見るとどうして今まで気が付けなかったのかと疑ってしまうレベルだった。
青ではなく、薄い桃色。
「きっと、これを描いたのは画集晩秋でしょう」
何かを納得したように絵美は頷きながらそんなことを言う。
「ま、待ってよ、でもさ、おじいちゃんは絵なんて……」
「全く描かないことはなかったでしょう。画集弥生は生まれた時から恵まれた環境にあったって言っていたじゃない。いくら芸術一家と言ったって、すぐにでも良い絵が描ける環境なんてそうないんじゃない? おばあ様は書道家だし……どちらかというと、染織家のおじい様が描いたと言われた方が納得もするんじゃないかしら?」
宝石商でもあったのだから、目は優れていたでしょうね。
(……そう言われると……確かに、僕はお父さんが画家だから絵を機会に恵まれてたけど……おじいちゃんの職業を考えると……うーん……)
いくら葉月の家が代々芸術に富んだ家だとしても、全員が画家だったりするわけではなく、最初にも言った通りに、多くのタイプのアーティストの家系である。
むしろ、葉月が弥生と同じ画家の道を歩んでいることの方が、ずっと珍しい。
「つまりね、あの絵は未完成なのよ。おじい様も指摘したと言っていた粗は、この部分のことね」
そう言いながら絵美は右下の部分を指さす。
家の絵では、何も描かれていないという場所。
「何も描いてないから、粗ってこと?」
「いいえ」
「違うんですね」
思わず敬語になってしまった。が、ここまで嫌味や皮肉もなく饒舌な絵美の姿は珍しいことでもあったので、ここは最後まで話を聞いてみることにしよう。
いまだに晩秋がこの絵を描いたと言われても「?」としかならないのだが、まあ、これはその内弥生にでも聞いてみれば良い。
「あの絵が“粗”だったんじゃなくて、この絵が“粗”だったのよ」
「だ、だめだ、なんかよく分かんなくなってきた……」
「この木を描いたのは、きっとお父様……画集弥生ね。だから、この作品は画集弥生のもので、あの家にある絵は、画集葉月のものになるんでしょう。題名は変わるのかしら?」
「え」
「良い? この作品の題名は「宝」なの。漠然とした題名をつけているのは、妻子だけを宝として扱っているわけじゃないってこと。芸術一家としての名誉や地位や才能、それから、子の宝……画集弥生の配偶者も」
子の宝。
晩秋の息子である、弥生の配偶者。
それは、そう。
彫刻家の堀田皐月。
つまり、だ。
ここに展示されている右下の木の幹こそが、弥生にとっての「宝」なのだ。
晩秋にとっては赤い薔薇の弥生と、その妻である赤い薔薇を包む白百合が宝であり、大きな額縁の端っこに描かれた木の幹が、「宝の宝」。
弥生の、宝。
この作品が発表されたのは、まだ弥生が大学生だった頃の話だ。
弥生はこの作品のことを、「未熟の証」と言っていたことを、葉月は思い出した。
そして絵美が葉月の家で絵を見た時に粗を感じたのは、教科書やテレビで見る絵とタッチが違うことに気が付いたから。
この絵の本題が違うことに気が付いたのはここに来たことで確信を得たからだが、絵を描いている人が違うからこそ、違和感を感じ、それを「粗だ」と絵美は言ったのだ。
普段見かける絵の大きな部分は、メインの絵は、画集晩秋の作品なのだから。
「師走さんって……もしかして……天才?」
「むしろ、それに気が付かないまま十七年生きてきた貴方も、ある種の天才のように思えるけれど。……例えばそうね、バカの天才とか」
「はいそれ純粋な悪口でーす、葉月くんが傷つくのでやめてあげてくださーい」
「あら、そう」
肩を竦めて絵美はそう言ったが、その顔はどこか楽しそうだった。
(ま、いっか)




