奉納舞
――シャン
澄んだ鈴の音が舞台に広がる。屋外に設えられた四角い木製の舞台の中央では、巫女装束を着たイゾルデが静かに舞っていた。手足には小さな鈴が、イゾルデの動きに合わせて舞いを彩る。音楽はなく、静謐の中で聞こえるのは、かすかな衣擦れの音、木の床を踏むトンという音、鈴の音、そして舞い手の呼吸の音。ピンと張りつめた早朝の冷たい空気の中で、イゾルデは無言で踊っている。
舞台の周囲にはドワーフたちが座り、イゾルデの舞いを見つめている。彼らもやはり無言で、息をする音さえはばかられるとでも言うように、身じろぎひとつしていない。恐ろしいほどの緊張感が満ちていた。
それは、ドワーフに伝わる新年の神事。奢侈王に捧げる『奉納舞』の儀式だった。
年始の宴会が行われている裏で、院長とトラックは村長の家の離れにいた。本来なら主賓のひとりとして宴に招かれているはずの院長は、村長に参加の辞退を伝え、ずっとジンに寄り添っていたらしい。
今回の崩岩病騒ぎの原因が、旅人を装った魔法使いが掛けた呪いであったことも、ジンが呪素として使われたことも、ドワーフには伝えていない。院長もセシリアも、村長にさえそのことを伝えなかった。それを伝えればもはやジンがこの村に居られなくなることを知っているからだ。病の身を抱えて村から追放されてしまえば、ジンに待っている運命は過酷なもの以外にあり得ない。しかしその選択は、ジンの辛さも、悔しさも、何もドワーフたちに伝わらないということでもあった。ドワーフたちは病気の快癒を喜び、宴を楽しんでいる。そして、ジンの許を訪ねるドワーフは誰もいなかった。
――シャン
澄んだ鈴の音が空気に溶ける。かすかにヒノキの香りがした。すでに十分以上、イゾルデは踊り続けている。吐く息が白く煙り、額がわずかに汗ばんでいた。
無尽の浪費を好むという奢侈王だが、それは単純な成金趣味という意味とは違う。芸術の庇護者の顔を持つこの地獄の王は、侘び、幽玄という趣向を解するのだ。そして素晴らしい物には惜しみなく援助を与える。素晴らしくないものはあっさりと切り捨てる無慈悲な面も併せ持つが、それは研鑽によってより高みを目指すよう導いているのだと解されている。
舞台を正面に捉える位置で、村長を始めとした村の有力者たちが座り、時を待つように目を閉じている。セシリアたちは賓客として村長たちの後ろに席を与えられていた。彼らの前には祭壇があり、ドワーフたちが作った様々な武具や装飾品が並べられている。奢侈王への捧げ物だ。ドワーフたちは奢侈王に自らの最高傑作を捧げる。奢侈王は捧げられたものの中から、気に入ったものだけを持っていくという。
イゾルデが床をトンと踏み鳴らす。鈴が揺れてシャンと鳴る。シンとした空気の中で、静かに、冷たく、イゾルデは踊る。余計な音のない世界は、イゾルデの舞いにある種の凄味を与えていた。
大晦日から元旦にかけて、ジンはずっと罪の意識に苛まれていたようだ。目を覚ましてもしゃべることなく、小さく震えていて、トラックが用意した食事にもほとんど口を付けなかった。眠っていてもひどくうなされ、およそ心休まる時間はないようだった。院長も、そしてトラックも、ジンのせいではないと何度も繰り返したが、それはジンに救いを与える言葉にはならなかった。赦しを与えるべきは院長やトラックではないのだ。ジンが呪ってしまった相手、ドワーフたちの赦しだけが、ジンを救うことができるのだろう。しかしそれが叶うことはない。ドワーフたちはジンに呪われたこと自体を知らないのだから。
誰からも責められないことで、ジンは己を責めるしかない。責められれば謝ることもできるだろうけれど。責められることさえない孤独が、ジンを蝕んでいるようだった。急速に憔悴していくジンの姿に、院長は意を決したように声を掛けた。
「ワシと一緒に、ケテルに行こう」
――シャン
澄んだ鈴の音が、より力強く響き渡る。舞いはいよいよクライマックスを迎えていた。イゾルデは動きで、視線で、指先で、様々な感情を表現する。世の苦しみ、理不尽、ささやかな幸せ、未来への希望。イゾルデはセシリアに会った最初の時に『美しいものはただ美しい』のだと言ったが、その意味が、この舞いを見ていると分かる気がする。舞台を舞うイゾルデは、美しかった。
やがて空から、舞台に向かって黄金色の粒が降り注ぎ始めた。太陽とは明らかに違う、垂直に降る光の欠片。ドワーフたちが一斉に額づいた。セシリアたちもそれに倣う。
金の光は舞台に降り積もり、その輝きを増していく。やがて光は舞台から溢れ、手を伸ばすように祭壇へと向かった。捧げられた品々が、光に溶けるように消えていく。光が祭壇を撫で、再び舞台に戻った時、祭壇には何一つ残っていなかった。どうやら捧げたすべての品が奢侈王のお眼鏡にかなったようだ。満足だ、とでも言いたげに、光がよりその強さを増した。
――シャン!
ひときわ力強く、両手両足の鈴が一斉に鳴った。舞台の中央で両腕を真横に伸ばし、両脚を揃えてまっすぐに立って、イゾルデは天を見上げていた。舞いが終わったのだ。全力を尽くしたことを証明するように、迷いも後悔もない瞳が天を見据えていた。舞台に満ちていた光がイゾルデに集まり、そして空へと還っていく。
――パチパチパチパチ
演者を讃える一人分の拍手が、舞台に降り注いだ。
「僕が、ケテルに……?」
院長の突然の提案に、ジンは驚きを顔に浮かべた。病を抱えた身で村から出るなど、きっと思いもよらないことだったのだろう。院長は大きくうなずいた。
「そうだ。ワシの施療院に来てほしい。そしてワシを手伝ってほしいんだ」
「手伝う、って、そんなの……」
ジンは目を伏せる。院長は少し身を乗り出して言った。
「ドワーフは頑健な種族だ。病にかかることはほとんどない。だからドワーフの病については、全くと言っていいほど研究がない。しかし君のように病に苦しむドワーフは、本当に他にはいないのだろうか? そんなことはないと、ワシは思っている。皆が病を恥じ、隠し、耐えて、声を上げることができずにいるだけではないか? 君と同じ孤独を、もっとたくさんのドワーフが抱えているのではないか?」
ジンが顔を上げ、院長を見た。院長の言葉が本当なのか、疑いと迷いが瞳に揺れている。院長はジンの手を取った。
「世界で初めてのドワーフの医者に、君がなれ。沈黙を強いられる者たちを君が救うんだ。苦しみを知る君にしかできぬことだ。誰かを呪うほどに苦しんだ、君にしかできぬことだ」
ジンは院長から視線を外し、再び視線を戻し、を繰り返す。疑い、迷い、そして信じたい気持ち。強い葛藤がその目に滲む。
「僕に、できる……?」
「もちろん」
院長は大きくうなずき、ジンの手を強く握った。
「君は必ず、誰かを救える」
ハッとしたようにジンの目が大きく見開かれた。その両目から涙がこぼれる。一度こぼれはじめた涙は堰を切ったようにあふれ出し、ジンは大きな声で泣いた。今まで堪えてきたものを、吐き出すように。
院長がジンを抱きしめる。泣き続けるジンを、トラックは静かに見守っていた。
「もう行ってしまうのね」
イゾルデが名残惜しそうに言った。日付が変わって、一月三日。村の入り口でドワーフたちが、命の恩人の出立を見送っている。役場の職員だけでなく普通のドワーフたちも詰めかけていて、村の入り口周辺はすごく混雑していた。イゾルデはセシリアと、院長は村長と向かい合っている。そして院長の隣にはジンの姿があった。
昨日、一月二日の午後、院長は村長に今回の騒ぎの真相を明かした。村長はひどく狼狽し、頭を抱えた。よりによって長の家系の者が村を呪ったのだ。それが露見すればもはや村長は村長でいられなくなるだろう。それどころか一族郎党まとめて追放されてもおかしくはない。村長は院長に、このことはどうか内密に、と懇願した。その姿にジンの心を慮る様子はなかった。
院長は口外しないことを約束し、そしてジンをケテルに招きたいと村長に告げた。それはジンの意志でもあると。村長は驚き、迷うように視線をさまよわせた後、ひとことポツリと「そうか」とだけ言った。村長がジンのケテル行きを反対することはなかった。しかし、それを決して喜んでいるわけでもないようだった。
「また来てちょうだい。今回は慌ただしかったけれど、今度はゆっくり村を案内するわ」
イゾルデがセシリアに手を差し出した。手を握り、セシリアが柔らかく微笑む。
「ええ、是非」
「次回のコンテストにも参加して欲しいわ。今からヒゲを伸ばしなさい。そうすればつけヒゲではなく本当の姿で勝負できる」
考えておきます、と答え、セシリアは苦笑いを浮かべた。約束よ、といたずらっぽく笑って、イゾルデはセシリアを軽く抱きしめた。
村長は院長に改めて礼を言っていた。院長は「当然のこと」と首を横に振る。それはどこか儀式めいて空々しいものに見えた。村長は不自然なほどにジンに目を向けない。後ろめたさがそれを許さないのだろう。ジンはそっと視線を地面に落とした。
表向き、ジンは医学を学ぶためにケテルに留学する、と皆にアナウンスされている。病気に対する備えはやはり必要なのだとして、まず長の家系の者がその知識を身に着けるのだ、という理屈は皆にすんなりと受け入れられたようだ。自らの病を押して長の家に生まれた義務を果たす姿は、むしろ感心されているようだった。
「あの……」
うつむくジンに、まだ幼さの残る声が掛けられた。ジンが顔を上げると、そこにいたのはジンと同じくらいの年齢の、三人のドワーフだった。三人はどこかすまなさそうに、ためらいがちに言った。
「……病気が、あんなに苦しいなんて、知らなかった。ごめん」
ジンは驚き、そして首をぶんぶんと横に振った。子供たちは口々に「お勉強頑張ってね」と言い、ジンは泣きそうな顔で「ありがとう」と答えた。
周囲の大人たちはジンと子供たちの様子を複雑な顔で見ていて、あるいは見ないようにしている。長年培ったドワーフの価値観は簡単に揺らぐものではないのだ。皆が病の苦しみを知った。でも病はもう治った。治ってしまった。彼らにとって病はもう過去の出来事になったのだ。今まさに病に苦しむ者に寄り添う心を、想像力を持ち続けることは、おそらくとても難しいことなのだろう。
柔らかい鉄は役に立たない、村長はそう言った。それが今の、ドワーフの現実なのだろう。だが、柔らかい鉄はすべてを諦めなければならないのだろうか? 柔らかい鉄の願いは、望みは、ドワーフたちに届くことはないのだろうか? 硬く強い鋼だけが生きる世界は、本当に良い世界だろうか?
イゾルデがジンを見つめ、小さくつぶやいた。
「私たちは無関心に過ぎたのかもしれない。病にも、病を負う者の心にも」
それでは、と言って、セシリアたちはトラックに乗り込む。運転席には院長が、助手席にはジンが座り、残りの面々は荷台で体育座りである。この世界の人たちってなぜかトラックの荷台に乗ると体育座りするんだよね。なんだろう、何かの作法?
トラックがプァンとクラクションを鳴らし、村に背を向けてゆっくりと走り出した。ドワーフたちは頭を下げ、あるいは手を振り、「ありがとう」と叫ぶ。ジンは助手席で、一度だけバックミラー越しに村を見つめた。そして視線を前に向けると、二度と故郷を振り返ることはなかった。
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