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セフィロトの娘

 魔神の放つ重苦しいプレッシャーに負けじと、セシリアは鋭くリュリオウルをにらみつけた。


「見え透いた脅しは無意味です。契約の成立なくしてお前が現世に存在できるのは、その小さな円の内側のみ。その爪がこちらに届くことはない」


――ガツッ


 リュリオウルが陣の外円にその爪を叩きつけ、鈍い音が周囲に広がる。明らかな威嚇だ。セシリアは、少なくとも表面上は動揺していないように見える。リュリオウルは陣の外円に触れたまま、冷酷な瞳で告げた。


『試してみるか? この程度の陣で、この我を本当に閉じ込めることができるかどうか』

「お好きに」


 リュリオウルとセシリアの視線が交錯する。揺るがぬセシリアの表情に、リュリオウルは殊更に声を張り上げた。


『なんという不遜! なんという傲慢! 礼節の何たるかも弁えぬ下賤の輩に、我が力能を貸し与える道理はない! 帰らせてもらうぞ!』


 リュリオウルは陣の中で、やや窮屈そうに羽を広げる。その輪郭が滲み、暗い闇が体を覆い始めた。セシリアは冷静に言葉を投げかける。


「よいのですか? 話も聞かずに帰るのであれば――」


 セシリアはスッと右手の人差し指で、陣の中心にある黄色い物体を示した。


「バナナを返してもらうことになりますが」

『話だけは聞いてやろう。言ってみるがいい』


 リュリオウルは慌てたように足元のバナナを拾い、大事そうに胸に抱えた。バナナ返せてあんさん無茶いわはりまんなぁ、とでも言いたそうな、驚愕の表情を浮かべている。そしてすばやく房から一本をむしり取り、器用に皮をむいて食べ始めた。もう食べちゃったから返せないもんね、ということだろうか。どんだけ必死だ地獄の伯爵。そこまでバナナが好きか。

 セシリアは軽く息を吐いて気持ちを整え、リュリオウルをまっすぐに見据えて言った。


「トラックさんの寿命を返していただきたい」

『無理だな』


 口をモグモグさせながら、リュリオウルはにべもない。バナナをほおばっていても声がはっきりとしているのは、そもそもが口から言葉を発していないのだろう。意志を直接脳に伝えている的な?


「無論、無条件にとは申しません。より価値のあるものと交換していただきたいのです。そちらにとっても損な話ではないはず」

『価値の多寡など貴様が判断することではない。我と対等に交渉できると思い上がらぬことだ』


 リュリオウルは見下した目でセシリアを見つめ返している。世の理も知らぬ小娘、と思ってそうな感じ。その視線を受けて、セシリアはわずかに口の端を上げた。


「奢侈王の第一の臣と名高き強欲伯は、どうやら大した吝嗇家のようですね」

『なんだと?』


 リュリオウルの声にわずかな怒りと苛立ちが混じる。口は相変わらずバナナをモグモグしており、すでに二本目を平らげていた。皮はその辺にポイ捨てである。お行儀悪いよ伯爵閣下。今度はセシリアのほうが、どこか憐れむようなバカにしたような目でリュリオウルを見る。


「寿命と引き換えに与えた知識とやらが『何も間違っておらぬ』のひとことだけとは、奪った対価に比してあまりにつり合いが取れぬではありませんか? そのような答え、私にでも言える」

『我を愚弄するつもりか』


 リュリオウルの声が一段低くなった。危険な気配がロビーに広がる。剣士が剣の柄に手を掛け、わずかに身を低くした。セシリアは涼しい顔で答える。


「事実を言ったまで。しかしこのことを暗愚王や惰眠王に告げれば、さぞ面白がってくださることでしょう。無尽の浪費をこそ喜ぶ奢侈王の腹心が、実は吝嗇だった、と」


 その言葉にリュリオウルは思いのほか強く反応した。もはや殺意を隠そうともせず、セシリアを強くにらみつける。


『……人間如きが、大層な口を利くではないか。身の程を弁えよ!』


 リュリオウルが強く翼を羽ばたかせ、巻き起こった闇色の風は召喚陣の外にまで吹き渡った。バナナはすでにひと房を全て食べ終え、床には皮が散乱している。ロビーにあった簡易ベッドが吹き飛び、藁が宙を舞う。セシリアは少しだけ目を細めた。


『召喚陣に守られると奢るでないぞ! 貴様らを殺す方法はいくらでもある!』


 残酷な悦びに満ちた笑みを浮かべるリュリオウルにため息を吐いて、セシリアは愚者を憐れむ表情を浮かべると、手の杖で床をトンと叩いた。リュリオウルを窮屈に閉じ込めていた召喚陣の外円が滑らかに広がり、剣士とセシリアをその領域に取り込む。トラックはその円内に含まれず、おろおろしたようなクラクションを鳴らした。


『……何のつもりだ?』

「召喚陣に守られていたのはどちらか、教えて差し上げましょう」


 セシリアの身体が淡い光に包まれ、栗色の髪が美しい金に変わる。翠の瞳が輝きを帯びた。リュリオウルはこれ以上ない屈辱に身を震わせ、身に宿る闇を解放するように叫んだ。


『己が傲慢の報いを受けるがいい!』


 リュリオウルの足元から闇が溢れだし、這うように床に広がる。そしてその闇から、青白い無数の手が飛び出し、セシリアに狙いを定めるようにうごめく。状況を説明するようにスキルウィンドウが姿を現した。


『アクティブスキル(ユニーク) 【強欲伯の右手】

 その手に掴んだあらゆるものを強奪し

 自身の城の宝物庫に転送する

 強欲伯リュリオウルの右手』


 白い手が一斉にセシリアに襲い掛かる。剣士がセシリアの前に割って入り、長剣を抜いて迫る白い手を斬り払った。剣士の瞳が紅く妖しい光を放つ。長剣の刃が薄く黒い靄のようなものに覆われ、その輪郭を朧に霞ませていた。リュリオウルの目が驚きを表す。


『我が手を斬るか。貴様、何者だ?』

「ただの剣士さ。名を問われるほど大したことはしちゃいないぜ?」


 剣士のあからさまな挑発に、リュリオウルは顔を引きつらせて吠えた。


『ならば、我が宝物庫の名も無き収集品となれ!』


 いつの間にかセシリアたちの足元まで広がっていた闇が、二人を呑み込むほどに大きな口の形を取った。再びスキルウィンドウが中空に現れる。


『アクティブスキル(ユニーク) 【強欲伯の(あぎと)

 呑み込んだあらゆるものを

 自身の城の宝物庫に収集する

 強欲伯リュリオウルの口』


 口の形をした闇はセシリアたちの足元から一瞬のうちに盛り上がり、あっという間に二人を呑み込んだ。口がもごもごとのたうつ。リュリオウルがにぃ、っと醜悪な笑みを浮かべた。トラックが慌てたようなか細いクラクションを鳴らす。嘲りの目をトラックに向けたリュリオウルは、しかし違和感を覚えたのか、すぐに闇の口に視線を戻した。


――ボゴッ


 闇の口の、頬に当たる部分の一部が不自然に膨らむ。


――ボゴッボゴゴッ


 まるで内側から強く突かれているように、闇の口のあちこちが膨らみ、変形していく。やがて内圧に耐えられなくなったか、膨らませ過ぎた風船みたいに闇の口が弾け、闇が千々に舞い、空気に溶けて消えた。セシリアも剣士も、何事もなかったように平然と立っている。信じられぬものを見るように、リュリオウルが目を見開いた。


「奢侈王の腹心も、存外大したことはない」


 セシリアが冷笑と共につぶやく。剣士が小ばかにしたように笑う。リュリオウルは屈辱に肩を震わせ、かすれた声で言った。


『……後悔するがいい。己の舌の軽薄さを』


 リュリオウルがバサリと翼を羽ばたかせると、足元に広がっていた闇が、吸い込まれるようにその右手に集まる。凝集した闇はやがて赤黒く禍々しい刃を持つ大剣へと姿を変えた。セシリアの冷静を装う顔がわずかに揺らぐ。


「『魂喰(たまば)み』……」


 思わず口を突いたセシリアの言葉に、リュリオウルが意を強くしたように嗤う。


『この大剣の名を知るならば、その恐怖もまた知っていよう! わずかでもこの刃に触れれば、その魂は引き裂かれ、剣に喰われる! そして引き裂かれたまま、剣の中で永遠に囚われ続けるのだ! 死ぬことも叶わず、引き裂かれた痛みにのたうちながら、永遠にな! 終わらぬ苦痛の中で、己が言を後悔し続けるがいい!』


 床に降り立ち、大剣を半身に構えて、リュリオウルはギラリと目を光らせた。剣士が長剣を握る手に力を込め、セシリアが杖を掲げる。リュリオウルが咆哮と共に足を踏み出し、剣士たちとの距離を一気に詰め――ようとして、バナナの皮に足を滑らせ、受け身も取れずに後ろにすっころんだ。ゴンッ、という重い音がして、リュリオウルは思いっきり後頭部を床に打ち付けたようだ。「ぬおぉぉぉーーーっ」と呻きながらゴロゴロと床をのたうち回っている。何が起こったのか理解できないように、剣士とセシリアはポカンとその様子を見つめた。

 しばらく床をゴロゴロしていたリュリオウルはやがてその動きを止め、床の上で横になったまま身を屈めて両手で顔を覆った。ああ、恥ずかしいんだな。あれだけ威勢のいいことを言って、奥の手っぽい武器まで出して、バナナの皮で滑って転びましたじゃあそりゃ身の置き場がないよね。『魂喰み』という名の大剣がリュリオウルの隣でどこか申し訳なさそうに横たわっている。セシリアはゆっくりとリュリオウルの側に近付くと、冷徹な声音で告げた。


「……このことを暗愚王や惰眠王に告げれば、さぞ面白がってくださることでしょうね」

『すみません。言わないでください。お願いします』


 手で顔を覆ったまま、リュリオウルは蚊の鳴くような声で答える。すさまじい自己嫌悪の中にいるのだろう。心はすでに折れている。


「トラックさんの寿命を返しなさい」


 セシリアは弱った心に付け込むように威圧的に命じた。リュリオウルは顔を覆ったまま小さく首を横に振る。


『契約によって得たものを簡単に手放せば、我は地獄の笑い者となろう。それはひいては奢侈王様の名誉に関わる大事。どうか、ご勘弁を――』


 なんだか哀れっぽい声を出しちゃって、ちょっとこっちが悪いみたいな感じになってきちゃったなぁ。別にフクロウをいじめてるわけじゃないからね? セシリアはあくまで高圧的に、リュリオウルを見下ろして言った。


「ならば新たに契約なさい。トラックさんの寿命と私の持ち物を交換すると」


 両手を顔から外し、リュリオウルは気弱げにセシリアを見上げる。


『あの男の寿命は、他に類を見ない非常に珍しいものだ。この世界であのような魂を持つ者は他におらぬ。それと交換するに値するものはそうそうないぞ。価値の釣り合う物でなければ――』


 リュリオウルの言葉の終わりを待たず、セシリアは杖を剣士に渡すと、代わりに短剣を受け取った。右手に抜き身の短剣を持ち、左手は肩の辺りの長さで髪をまとめると、握った左手の上でバッサリと切り落とす。切った髪を差し出し、セシリアは言った。


「この価値を理解できぬはずはないでしょう?」


 リュリオウルは困惑の表情で差し出された髪を見る。セシリアの手の中で、髪は徐々に形を変え、やがて液化して無重力下の水のように丸まり、ふわふわと宙に浮いた。リュリオウルは半身を起こし、宙に浮かぶ水の玉に手を伸ばす。その指先が水の玉に触れた。


『これは……』


 リュリオウルが驚きに目を見開く。


『そうか、お前は……』


 何かに気付いたのか、リュリオウルはセシリアに視線を向けると、おかしそうに笑い始めた。笑い声は徐々に大きくなっていく。


『我を退けるも道理よ! よもや地上に現れていようとはな! つまりこれから、地上は混乱と死に覆われるということか! 太古の昔より幾度も繰り返されてきたように! お前を巡り夥しい血が流れ、命が失われるのだ!』


 興奮ぎみにリュリオウルは水の玉を両手で包んだ。土に沁み込むように水はリュリオウルの中に吸い込まれて消える。代わりにリュリオウルの手から、ほのかに赤く脈動する光の玉が現れた。


『確かに、この魂に引き換える価値は充分にある! 受け取るがいい! 契約は、成立した!』


 光の玉は宙を漂い、セシリアの手の中に納まった。セシリアは光を、大切なものを扱うようにそっと胸にかき抱く。


『契約は果たされた。この出会いに感謝しよう。これから地上は面白くなる。奢侈王様もお喜びになられよう。簡単に死んでくれるなよ。世を乱し、世を破壊して新たな芽吹きを導くことがお前の――』


 リュリオウルの翼が強く大気を打ち、巻き起こった風が闇と交じり合う。徐々に濃くなる闇色の風をまとい、リュリオウルが楽しげに叫んだ。


『――セフィロトの娘の運命ゆえに!』


 その言葉を最後に、リュリオウルはまとう闇に吸い込まれるように姿を消した。召喚陣がその役割を果たし、パキンと音を立てて砕ける。魔神の気配は完全に消え去り、淀みわだかまる闇も姿を消した。剣士が深く長いため息を吐き、長剣を鞘に納める。

 セシリアはトラックに近付くと、そっと光を差し出す。光はスゥッとトラックの車体に吸い込まれた。どくん、と一度だけ、トラックの車体が揺れた。……あれ? でも、トラックの様子に変化がないんですけど。トラックボロボロのままなんですけど。も、もしかして騙された?

 俺の動揺をよそに、セシリアは小さく呪文を唱える。柔らかな白い光がトラックを包んだ。光が晴れた時、トラックは新車みたいにピカピカの姿に戻っていた。トラックがプァンと力強いクラクションを鳴らす。セシリアは安堵したような微笑みを浮かべた。剣士も安心したように小さく笑う。おお、直った。なるほど、寿命が戻っても最大HPが元に戻るだけで、HPはそれとは別に回復させないといけなかったということか。めんどくさいな。そこは一度に回復までするでいいだろうに。何その無駄なこだわり。


「何とか、なったな」


 やれやれ、といった感じで剣士が独り言ちた。


「ええ、ほんとう、に……」


 剣士のつぶやきにそう答え、それが限界だったように、セシリアの身体がふらりと傾いだ。肩までしかなくなった金の髪が揺れる。トラックの念動力がセシリアの身体を支えた。


「お、おい!」


 剣士が慌ててセシリアに駆け寄る。セシリアをゆっくりと横たえ、トラックは小さくクラクションを鳴らした。

この日を境に、魔神リュリオウルはバナナの皮をポイ捨てするのを止めたということです。

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[一言] お、おおっとおおおおお!?!?!? こ、これはあああああああ!!!!!
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