宣言
魔光蟲が消えたことにより、ドワーフたちが崩岩病を再発させる怖れはなくなり、薬による治療の効果は目に見えて現れ始めた。ベッドに横たわっていたドワーフたちは、徐々に手を動かし、足を動かすことができるようになり、体を起こし、やがてベッドから立ち上がることができるようになっていく。幸い薬は充分な量が確保されていて、油断して良いわけではないものの、誰かの命に関わるような危機はひとまず回避できたと言っていいだろう。
当面のめどが立ち、院長は患者の処置をセシリアや他のスタッフに任せ、今は離れでジンに付き添っている。ドワーフたちが崩岩病で次々と倒れた今朝の段階でジンの様子を気に掛けなかったことを、院長は恥じているようだった。地質漏滲症候群を患うジンにとって崩岩病はもっとも警戒すべき病だ。原因不明だったとはいえ、他のドワーフが崩岩病を発症したとき、ジンは真っ先に状態を確認すべき患者だった。そのことに思い至らなかったのは主治医として痛恨のミスだったと、院長は自身を責めているようだった。苦しそうに眠るジンの傍らで院長はずっとその手を握っていた。
ひとり、またひとりと、自力で歩けるようになったドワーフたちがベッドを離れ、家に帰っていく。さっきまで寝返りも打てなかったのに、それをまったく感じさせない頑健さはドワーフという種族の特性なのだろう。深く頭を下げて礼を言うドワーフたちに、セシリアたちはホッとしたような笑顔を浮かべた。
「見回りが終わりました! もう見逃している患者はいません!」
やや興奮気味に、コメルが大きな声を上げて役場に駆け込んできた。時刻は午後十時を回ったところだろうか。コメルは連れてきたケテル商人たちと一緒に村を回り、役場に運び込まれていない患者がいないかを確認していたのだ。実際に、独り暮らしだったり家族が同時に発症していたりで今まで見逃されていた患者を見つけ、ここに運び込んだりもしていた。ファインプレーだコメル。よく気が付いた。みんなの治療が終わってめでたしと思っていたら、発見されずに亡くなっていたひとがいたとか報せがきたら嫌すぎる。
コメルの言葉に、役場のロビーにいた施療院のスタッフや役場の職員から自然と拍手が起こる。皆、嬉しそうに顔をほころばせていた。役場の廊下や奥の会議室は完全に空き、ロビーのベッドも三分の一が空になっている。村長も、イゾルデも、役場の職員たちもすでに動けるようになっていて、セシリアたちを手伝ってくれていた。治療をすれば治る、その事実が、悲壮感に満ちていたスタッフや、不安に沈んでいた患者の表情を明るいものにしていた。
ちなみにトラックは魔神に寿命を取られてヨボヨボになっており、今は壁際に連れていかれて大人しくしている。スタッフが近くを通りかかると、ときどきプォォンと震えるクラクションを鳴らしているが、
「こっちはだいじょうぶよ。ありがとう、おじいちゃん」
などとあしらわれていた。寿命を奪われたっていうか、老化した感じなのだろうか? トラックは微妙にぷるぷると車体を揺らしながら、プォンと残念そうにクラクションを鳴らしていた。
――チュンチュン
日が昇り、窓から朝日が射し込む。セシリアが眩しげに目を細めた。時刻は午前七時。永遠のような昨日が終わり、ドワーフ村はようやく新しい今日を迎えていた。
「ありがとうございました」
最後の患者の家族が、セシリアたちに向かって深々と頭を下げる。まだ若い母親と幼い男の子。セシリアが魔法で精霊力を分け与えた、あの少年だった。
「ばいばい」
母親と左手をつなぎ、右手を小さく振って、少年は帰っていった。役場の職員たちと施療院のスタッフたち、そしてコメルたちバーラハ商会の商人たちは、皆一様に穏やかな笑顔で少年の後ろ姿を見送る。少年の姿が完全に見えなくなった時、皆は一斉に安どの大きなため息を吐いた。その顔には、為すべきことを成し遂げた誇りと高揚が滲んでいる。苦しみや先の見通せない不安の中、きっと心折れそうになることは何度もあっただろう。しかし今、病に倒れ伏していたドワーフたちは全員、自分の足で帰路に就いた。もう誰も命を落とすことはない。全員助ける、その誓いは、果たされたのだ。
「みなさん」
共に戦った仲間たちを、セシリアは振り返る。皆がセシリアを見つめた。セシリアはひとりひとりの顔をしっかりと見て、微笑みと共に言った。
「お疲れさまでした。みなさんの尽力により、この未曽有の危機を乗り越えることができた。村長、そして役場の皆さん」
セシリアは村長やイゾルデ、役場の職員に顔を向ける。
「私たちを信じてくださって、ありがとうございました」
村長が軽く首を横に振り、イゾルデが艶やかな微笑みを返した。職員たちもそれぞれにうなずいたり、恐縮したような表情を浮かべる。
セシリアは今度は、施療院のスタッフたちに目を向けた。
「施療院の皆さん。皆さんが来てくれて、本当に心強かった。私たちだけではきっと、成し遂げることはできなかったでしょう。ありがとうございました」
施療院のスタッフたちはセシリアのまっすぐな謝意に照れたような顔を返した。「大したことじゃない」「同じ職場の仲間でしょ」なんて、照れ隠しの言葉が口を突く。少し嬉しそうな色を浮かべてそれを聞いていたセシリアは、最後にコメルたちバーラハ商会の面々に向き直った。
「バーラハ商会の皆さん。皆さんが届けてくれた薬が、水が、消えそうだった命の灯火を繋いでくれました。皆さんのご協力なくしてこの朝を迎えることはできませんでした。ありがとうございました」
商人たちが互いの顔を見合わせて笑う。コメルが胸に手を当て、軽く頭を下げた。セシリアはもう一度全員の顔を見渡した。
「ここにいる誰かひとりでも欠けていたら、運命は変わっていたでしょう。けれど、皆がここに集った。奇跡のように。過酷な運命を、私たちは乗り越えました。この戦い――」
そしてセシリアは力強く宣言する。
「私たちの、勝ちです」
わっ、と皆から歓声が上がる。イゾルデがセシリアに駆け寄り、強くその身体を抱きしめた。皆、ようやく実感したのだ。悪夢が終わったのだということを。
「ありがとう、セシリア」
セシリアの耳元で、イゾルデがかすれた声で言った。その目元に涙の粒が浮かぶ。セシリアは微笑み、イゾルデの背に手を回した。他の皆もそれぞれに、涙を浮かべ、あるいは涙をこらえていた。
「皆、本当にごくろうじゃった。後始末はまだあるが、今はとりあえず休んでくれ。諸々は後回しでよい。ロクに寝てもおらんじゃろうからな」
散会を告げる代わりに、村長が皆にそう声を掛けた。張りつめていたものが緩んだのか、何人かが大きな欠伸をして、ロビーに笑いの輪が広がる。
「しっかり寝て、起きて働いたら宴会だ! 浴びるほど飲むぞ!」
役場の職員のひとりが気合を入れるように叫んだ。ドワーフたちが賛同の声を上げ、そのタフさに人間たちは苦笑し――
――バタンッ
重いものが床を叩く音が響く。柔らかかった空気が一気に張りつめ、誰かが息を飲む音が聞こえた。皆が一斉に音のほうを向く。役場の職員のひとりが、床に倒れていた。
「どうして……?」
皆の顔から血の気が引く。近くにいた職員が側にしゃがみ込み、倒れた職員を抱き起す。そして顔を覗き込み、呆然した様子でつぶやいた。
「……気持ちよさそうに、寝てます」
「……は?」
イゾルデが思わず素っ頓狂な声を上げた。言葉の意味は少しずつ皆に浸透し、やがて誰かが「ぷっ」と吹き出す。それを合図に、全員が大きな声を上げて笑った。
役場の職員たちはそれぞれ家路につき、コメルたち商人は村長の家に招かれて寝床を用意された。役場は今日は臨時休業となったようだ。まあ、昨日の今日で役場に来るドワーフもいまいし、そもそもロビーは簡易ベッドが並んだままだ。これでは業務も何もあるまい。イゾルデも、もう一度セシリアに礼を言って家に帰っていった。皆、ほぼ徹夜で頑張ってくれたのだ。しかもドワーフたちは病み上がりである。しっかり休んでほしい。お疲れさん。
役場のロビーには今、セシリアと剣士、そしてトラックがいる。セシリアたちも村長の家に呼ばれたのだが、やることが残っているからと言ってここに留まっていた。トラックは相変わらずボロボロの姿のまま、かすかに車体を震わせている。なんかもう、今にもお迎えが来そうな感じである。
「何をする気だ?」
剣士がやや厳しい表情でセシリアに言った。具体的に何をするのかは分からなくても、何か無茶なことをしようとしていることは分かる、そんな顔をしている。セシリアは事も無げに答えた。
「リュリオウルからトラックさんの寿命を取り戻します」
「そんなことが可能なのか!?」
剣士が少し身を乗り出した。セシリアは表情を動かさずにうなずく。
「もう一度召喚し、返すように交渉します。場合によっては、力づくで」
おおう、セシリアさん、過激。魔神相手に恫喝する気ですか? っていうか、それこそ可能なの? 魔神って人間に脅されて言うことを聞くような存在じゃないんじゃ……
俺と同じ疑問を持ったのだろう、剣士が心配そうな目でセシリアを見つめた。セシリアはその視線を意に介さず、簡易ベッドをどけてスペースを作ると、床になにやら杖で紋様を描き始めた。円と複雑な幾何学模様と何かの文字が組み合わさった図形――召喚陣、という奴だろう。描かれた図形は青白いほのかな光を放っている。
「危険はないのか?」
「ありますよ」
当然だろう、というセシリアの態度に剣士の表情が強張る。セシリアは召喚陣を描きながら淡々と言った。
「トラックさんはリスクを厭わず未来を拓いた。私だけが安全な場所に隠れているわけには参りません」
剣士が厳しい顔でセシリアに近付き、その手首を強く掴んだ。召喚陣を描く手が止まる。セシリアは自分を見据える剣士を見上げ、少しだけ表情を緩めた。
「勝算のない賭けはしません。ですが、百パーセントはない。だから――」
セシリアはまっすぐな瞳で剣士を見つめた。
「力を、貸して。トラックさんは私たちに、世界に、必要な方です」
セシリアの言葉に剣士が迷いの表情を浮かべる。剣士もトラックがこのままになってしまうことをよしと考えてはいないのだろう。しばらくの逡巡の後、剣士はセシリアの手首を離した。セシリアは小さく「ありがとう」とつぶやくと、再び召喚陣を描き始める。やがて最後の図形を描き終わり、召喚陣の放つ光が一段強くなった。
「供物を捧げ、地獄の門を開いてリュリオウルを召喚します。少し離れてください」
剣士にそう言って、セシリアは自分の道具袋から『供物』を取り出す。剣士が少し後ろに下がり、剣の柄に手を掛ける。セシリアは『供物』を陣の中心に置き、やはり陣から距離を取った。陣の中心には召喚される魔神、つまり強欲伯リュリオウルの紋章が描かれ、その紋章に重なるようにバナナが置かれている。
……
供物ってバナナ!? 魔神、バナナに釣られて召喚されんの!? 伯爵の地位にある地獄の貴族がバナナに!? マジで!?
トラックがプォン、と心配そうなクラクションを鳴らす。セシリアは微笑み、
「必ず寿命を取り返してみせます。見ていてください」
力強くうなずいた。トラックはなおもプォンと震えるクラクションを返す。セシリアの声に強がりの気配を感じ取ったのだろう。剣士が柄を握る手に力を込めた。
セシリアが呪文を唱え、呼応するように召喚陣の放つ光がその強さを増す。やがて陣の中心から、染み出すように闇が広がり始めた。
「……繋がった」
闇は勢いを増し、染み出すようだったものが溢れるほどになり、やがて吹き出すように召喚陣を満たし始めた。召喚陣の外円に阻まれ、外に出ることのできない闇がその濃さを増していく。そしてその闇が光を通さぬ真の黒となったとき、うねり、凝集したその闇はフクロウの顔を持つ魔神の姿に変わった。強欲伯リュリオウル。昨晩トラックの寿命を奪った魔神が、再び目の前に現れたのだ。
『人間ごときが、何用で我を呼びつける。返答次第ではその身体、引き裂いて心の臓を喰ろうてやろうぞ!』
文字通り地獄の底から響いてくるような、重く恐ろしげな声が周囲を威圧する。セシリアと剣士の額にじっとりと汗が滲んだ。
『心の臓を喰ろうてやろうぞ!』
そう言いながら、魔神リュリオウルはすばやくバナナを懐にしまい込んだのでした。




