呪素
びりびりと肌を刺すような威圧感がロビーを包む。ひざ丈まである厚手の、アビと呼ばれる豪奢なコートに身を包んだ魔神が、重力に逆らって中空に浮かんでいた。そのフクロウの目がトラックを興味深そうに見つめている。セシリアが信じられないものを見るように呆然とつぶやいた。
「……奢侈王の腹心、強欲伯リュリオウル。『知らぬものなき』と仇名される知識の守護者にして、不信と猜疑を司る者」
リュリオウルと呼ばれたフクロウ顔の魔神は、小馬鹿にした目でセシリアを一瞥すると、トラックに向かって言った。
『久しく当たりを引く者などいなかったのだがな。己の命数が尽きる前に運命を手繰り寄せたか。なかなか強い星を持っている。もっとも――』
リュリオウルは楽しそうにのどをクククと鳴らした。
『――すでに瀕死のようだが』
トラックが強がるようなクラクションを返す。しかしその音は弱々しく震えていた。リュリオウルは満足げにトラックを見下ろしている。
『望みを言うがいい。我が知識に空隙はない。もうすぐ終わりを迎えるお前の、死出の旅路の手向けにふさわしい答えをくれてやろう』
トラックがプォオンと院長に呼びかける。院長はハッとした表情で我を取り戻し、前のめりにリュリオウルに問うた。
「お、教えてくれ! 崩岩病は人とドワーフで病態が異なるのか!? それとも、ドワーフたちが罹っているのは崩岩病ではないのか!? なぜ一度改善した病状が前触れもなく悪化する!? 診断が間違っているのか? 治療が間違っているのか?」
院長は切実な思いを叫んだ。
「ワシらは、何を間違っている!」
リュリオウルは院長の顔をじっと見つめる。答えに悩んでいる、というよりは、焦らして楽しんでいる、というのが正しいだろう。あるいは、どう答えれば面白いかを考えているのかもしれない。院長は体を震わせながらリュリオウルを見つめ返していた。魔神と見つめ合うなんてただの人間には相当な恐怖だろうに、院長はきっとその使命感だけでリュリオウルと対峙している。重苦しい、永遠のような時間が過ぎ、リュリオウルはやがてにやりと醜悪な笑みを浮かべて回答を口にした。
『何も間違えてはおらぬ』
ぽかんと口を開けて、院長が目を見開いた。セシリアたちも答えの意味を理解できないというように硬直している。リュリオウルは心底楽しげに笑うと、すべてを見下す目で周囲を見渡して高らかに宣言した。
『契約は果たされた! この答えをどう受け取るかは汝らの器量と知れ! 破滅の回避を望むなら――』
リュリオウルの背に大きな翼が現れる。翼がバサリと大気を打つと、光を通さぬ闇が空間から染み出し、徐々にリュリオウルの身体を包んだ。
『――足掻けよ、人間!』
哄笑だけを残し、リュリオウルは闇に溶けて消えた。院長ががっくりと床に膝をついた。
「何も、間違っていない……?」
剣士が魔神の残した言葉を繰り返す。何も間違っていない。その回答は院長たちに何の指針も与えてくれないものだ。剣士の顔に怒りが浮かぶ。
「魔神なんぞに頼るのが間違いだったってことかよ! トラックの寿命だけ奪いやがって、まともに答える気はなかったって!? ふざけやがって!!」
「待ってください!」
剣士の言葉をセシリアが遮る。院長たち他の面々が怒りや落胆を示す中で、セシリアだけは何か考えを巡らせているようだった。
「魔神は人を惑わし弄ぶことを好む存在ですが、契約に反することはしません。彼らには彼らの美学がある。『強欲伯の宝籤』で当たりを引き当てたなら、問いの回答が真実であることは間違いない」
セシリアは目を伏せ、自らの思考を整理するように小さな声でつぶやき始めた。
「……何も間違っていない、に対応する問いは何? 院長は何を問うたの? ……崩岩病は人とドワーフで病態が異なるか? 違う、『何も間違っていない』はこの問いの答えにふさわしい言い方ではない。……ドワーフたちが罹っているのは崩岩病ではないのか? なぜ一度改善した病状が前触れもなく悪化するのか? その二つも回答とは対応しない。……診断が間違っているのか? 治療が間違っているのか? 私たちは何を間違っている? 回答に対応するのはきっと、これらの問い」
セシリアは深く思考に沈む。院長たちは思考を邪魔しないよう静かに、固唾を飲んでセシリアの結論を待つ。
「何も間違っていない。診断は間違っていない。つまり、この病は私たちの知る崩岩病で間違いない。治療は間違っていない。つまり、ドワーフに対しても人と同じ治療法が有効だ。ドワーフたちは崩岩病で、崩岩病の治療方法に誤りがない。私たちは何も間違っていない。私たちがしているのは何? 私たちは病の治療をしている。私たちの病の治療は間違っていない。それなのにドワーフたちは崩岩病を再発させている。なぜ? 病の治療が間違っていないなら、再発の原因は、病ではない……?」
推論の方向性を見出したのか、セシリアの表情が少し変わる。つぶやく声から迷いが薄れていく。
「崩岩病は土の精霊力を失うことで起こる。土の精霊力を失うのはどんなとき? 不摂生? でもその場合は変化は徐々に表れる。急性の地質漏滲症? でも病の可能性は魔神に否定されている。魔法で奪われる? 魔法が発動すればすぐに分かるし、そもそもこれほどの人数に魔法をかけるなんて現実的じゃない。魔物が奪っている? 確かに精霊力を糧にする魔物はいるけれど、魔物の気配なんて……」
めまぐるしく思考を回転させているのか、セシリアの目がせわしなく動く。右手の人差し指がその唇に触れた。
「……精霊力を奪う、気配のない魔物……気配がない? 気配を、感じ取れない? 気配が別の何かで消されている……より強い力で? そうか、魔王の魔力! 村を覆う魔王の魔力の残滓が気配を消している! でもまったく異質な気配を完全に消すほどの強い力が村を覆っているわけではない。魔王の魔力にまぎれるなら、魔王に近い気配を持つ者。魔王の眷属……でも魔王の眷属が地上に、自然に存在することはない……」
そこまで言って、セシリアは何かに気付いたように顔を上げた。そしてキッと鋭く床に目を落とすと、小さく呪文を唱え始めた。
「見通すものよ。見えざるものを示すものよ。その瞳に宿る光を我に貸し与えよ」
セシリアが瞼を閉じ、すぐに開く。その翠の瞳に強い光が宿った。その瞳の光にあぶりだされるように、ロビーに青白く光る細い糸状の何かが浮かび上がる。その何かは、ベッドに横たわるドワーフひとりひとりから伸びており、おそらくは物理的な存在ではないのだろう、床も壁も通り抜けて、すべてが同じ方向に向かっていた。
「これは?」
戸惑いと共に院長がセシリアに問う。セシリアは厳しい表情で答えた。
「『魔光蟲の吸霊糸』。地獄の樹海に棲む魔光蟲という魔物が吐く、精霊力を吸う糸です」
「なんで地獄の蟲が吐く糸がここに?」
剣士の素朴な疑問に、しかしセシリアは答えず、糸が向かう先に視線を向けた。
「この糸を手繰れば、原因に辿り着く。行きましょう」
セシリアが糸を追って歩き始める。剣士は慌ててその背を追い、院長は他のスタッフたちに声を掛けて指示を出した後、やはりセシリアを追いかけた。
青白く光る糸は様々な方向から集まり、一つの場所に向かって集約しているようだった。セシリアたちは糸を辿る。ロビーを抜け、廊下を過ぎ、裏口から外に出て――向かう先は思いのほか近かった。役場の敷地内、村長の私邸のさらに裏手。糸が集まっているのは、昨日院長とセシリアが訪れた離れだった。そのことに気付いたセシリアが、
「ジン……!」
焦りの表情を浮かべて駆け出した。ジンはもともと土の精霊力が弱い。もし魔光蟲に精霊力を奪われていたら、他のドワーフよりも深刻な事態に陥っている可能性は充分にあった。玄関扉を開け、離れに駆け込み、奥のジンがいるはずの部屋に急ぐ。糸は間違いなく、その部屋に集まっているようだった。
「ジン!」
やや乱暴なほどの勢いで部屋の扉を開けて中を見たセシリアは、思わずといった風情で絶句し、部屋の入り口に立ち尽くした。部屋の中ではジンがベッドの上で、
「……ごめんなさい。ごめんなさい……!」
血の気の引いた顔で膝を抱え、右手で首飾りを固く握ってカタカタと震えていた。その身体を覆うようにクモに似た生き物――魔光蟲がジンの身体をがっちりと八本の足で捕えている。糸は全て魔光蟲につながり、時折血管のように脈動していた。剣士がセシリアを押しのけ、長剣を抜いて部屋に踏み込む。魔光蟲は剣士に反応することもなく、ただジンに取り憑いている。剣士はジンを傷付けぬように側面に回り込み、魔光蟲の頭部を狙って鋭い突きを放った。
――キシャァァァーーーーーッ!!
耳障りな断末魔を上げ、魔光蟲の身体が揺らめく。やがてその姿は空気に溶けるように消えた。魔光蟲から伸びていた糸もボロボロと朽ちて散る。ジンが握っていた首飾りが、鈍い音を立てて砕けた。
「……ごめん、なさい。ごめんなさい……!」
魔光蟲から解放されても、ジンは変わらずそうつぶやきながら震えている。剣士が訝しげな表情を浮かべた。セシリアがジンに近付き、安心させるようにその身体を抱きしめた。
「謝らなくていい。あなたは、悪くない」
ジンが怯え、謝る理由を、セシリアは分かっているようだった。ジンの両目から涙が一筋、流れ落ちた。セシリアは「あなたは悪くない」と繰り返しながら、ジンを抱きしめる腕に力を込めた。
どれほどの間そうしていただろうか、やがてジンは少し落ち着きを取り戻し、虚ろだった瞳に光が戻った。いったい何があったのかと問うセシリアに、ジンはぽつりぽつりと事情を話した。
「……旅人が、村に来たって聞いて、話がしたいって、思って……」
始まりは四日ほど前、村に旅人がふらりと現れたことだった。ずっと部屋にこもって過ごしているジンにとって、旅人、という存在は憧れだったのだという。自由にどこへでも行くことができる旅人に、ジンは旅の話を聞きたいと願った。村長は最初難色を示したが、ジンを憐れむ気持ちはあったのだろう、渋々だが許してもらうことができて、ジンは離れに旅人を招いた。旅人はジンに今までの旅の話を面白おかしく語り、ジンは見たことのない世界の姿に思いを馳せた。旅人の話は尽きることなく、ジンは翌日も、その翌日、つまりセシリアたちが来た昨日も、旅人を離れに招いた。
「……悔しくないのか、って、聞かれて……」
最初は旅の話をしていた旅人は、いつの間にか言葉巧みにジンの境遇を聞き出していたようだ。ジンの病気の話や他のドワーフたちの態度を聞いた旅人は、おもむろにジンに言った。悔しくないのか。君だけが蔑ろにされなければならないなど、おかしいとは思わないか。君を顧みることもない他のドワーフたちを見返したくはないか。君の辛さを思い知らせてやりたくはないのか。
「悔しかった。ずっと辛かった。どうして僕だけって、ずっと、思ってた。だから……」
見返したいと、思い知らせてやりたいと、ジンは旅人に告げた。旅人は満足そうにうなずき、ジンに一つの首飾りを差し出した。暗紫色に光る宝石があしらわれた、不思議な雰囲気の首飾り。
「これに願いを掛けて祈れって。そうすれば願いは叶うだろうって……」
院長たちが訪れ、薬を飲んで眠って、目が覚めた後、薄暗い部屋にひとりでいたとき、ジンは急に、どうしようもなく悲しくなったのだという。世界から取り残されたような、誰からも気に掛けられない自分がどうしようもなく悲しかった。ジンは旅人からもらった首飾りの宝石を握りしめて、祈った。少しでいい、みんな、僕の苦しさを、分かって――
「そうしたら、宝石が昏く光って、あの魔物が、現れて……」
ジンの目に再び涙が浮かぶ。首飾りから現れた魔光蟲はジンに取り憑き、吸霊糸を伸ばしてドワーフたちの精霊力を吸い始めた。取り憑かれていたジンには魔光蟲が何をしているか分かっていたのだという。だが、それを止めることはできなかった。ジンは村のドワーフたちが倒れていく気配を感じながら、何もできずにただ、ここで震えていた。
「……ごめんなさい」
ジンが掠れる声で謝る。セシリアはジンの手を取り、首を横に振った。
「謝らなくていいと言ったでしょう? あなたは悪くない。あなたは利用されたの。あの、旅人を名乗る魔法使いに」
ジンはうつむき、目を閉じる。セシリアの言葉を受け入れることができずにいるのだろう。ジンはすべて自分のせいなのだと、自分を責めている。セシリアはもう一度、ジンの背に手を回して強く抱きしめた。
罪の告白を終え、ジンはぐったりと疲れたように眠りについた。その寝顔は安らかとはほど遠く、息苦しそうに額にシワを寄せている。セシリアはジンの髪をそっと撫でた。
「どういうことだ?」
剣士がよく理解できないと言うように首を傾げる。院長も説明を求めるようにセシリアを見ていた。セシリアは激しい嫌悪の表情を浮かべ、剣士の疑問に答えた。
「ジンは利用されたのです。魔光蟲召喚の呪素として」
地獄に生息する蟲である魔光蟲は、本来この世には存在できない。魔光蟲がこの世に存在して力を揮うには、何らかの手段でこの世から魔光蟲を『呼ぶ』必要がある。呼ぶ、というのもいくつかの方法があるらしいのだが、そのうちのひとつが『呪い』、ひとの負の情念を利用する魔法だ。今回旅人を名乗る魔法使いは、目的は不明だが、ジンの心にある恨みや嫉妬、苦しみや悲しみを呪いの源、呪素として魔光蟲を地獄から召喚し、今回の事件を起こしたのだ。魔光蟲は本来、土の精霊力に限らずあらゆる精霊力を貪る魔物だが、今回ドワーフたちが土の精霊力だけを奪われたのは、呪素として使われたジンの心に影響された結果なのだろうとセシリアは言った。
「もっと、早く気付いていれば……」
セシリアが唇を噛む。魔王の眷属である魔光蟲の気配はこの村を覆う魔王の魔力の残滓に紛れてしまい、気付くことができなかったのだそうだ。そもそも地獄の魔物が原因だなんて予兆もなく気付くのは無理だし、魔王の魔力が村を覆うことはそれほど珍しい話ではないと村長から聞いていた。魔王は原因ではないと一度意識から除外してしまうと、それを修正するのは難しいだろう。
だが、もしドワーフたちが倒れ始めた最初の段階で、誰かがジンの様子を見に来たとしたら、事態はこんなに深刻にはならなかったかもしれない。魔光蟲がみんなの精霊力を奪っていること自体は分からなくても、ジンが魔物に取り憑かれていることは見れば誰でも分かる。魔物に憑かれていることが分かればそれを放置したりはしないだろう。魔光蟲は退治されたはずだ。それが為されなかったということはつまり、少なくとも今朝から今までずっと、ジンを心配して様子を見に来た者はひとりもいなかった、ということを意味している。
「魔法使いが何のためにこのようなことをしたのか、それは分かりません。ですが……」
セシリアは眠るジンの顔を痛ましげに見つめる。
「……あの男の魔力の気配は憶えました。次に会えば必ず分かるでしょう」
静かに、滾る怒りを絶やさぬように、セシリアは深く息を吐いた。そしてどこか遠くへと意識を向けるように天井を仰ぎ、ひどく冷たい瞳で小さくつぶやく。
「心を、弄んで、報いを受けることはないと高を括っているのなら、心得違いも甚だしい」
ちなみに、トラックの現在の最大HPは1です。




