獣人
セシリアは男の子を腕に抱えたまま立ち上がった。その表情は硬いままだ。剣士はセシリアに近付き、声を落として言った。
「どうする? こいつはもう、Eランクの仕事じゃないぜ」
「ええ。でも……」
言いよどみ、セシリアは思案気に俯いた。すると不意に、セシリアの見つめる石畳に黒い影が射した。はっと顔を上げたセシリアの目に小柄なシルエットが映る。逆光でよく見えないが、その人物は石壁の上に立ってセシリアたちを見下ろしていた。
「見つけた……!」
そう呟くや否や、その人物は壁を蹴り、セシリアに飛び掛かった! セシリアは腕の中の男の子をかばい、攻撃者の向かってきた方向に背を向けて膝をつく。セシリアの右の背から肩に掛けてが浅く切り裂かれ、鮮血が滲んだ。
「ちっ!」
忌々しそうに舌打ちをして、攻撃者がセシリアを睨む。辛うじて初撃をかわしたが、セシリアは攻撃者の手の届く範囲にいる。攻撃者の鋭い爪がギラリと鈍く陽光を反射し、そして
――プァン!
「!?」
トラックの発した鋭いクラクションの音に、攻撃者は大きく後ろに飛びずさった。剣士が腰の剣を抜き放ち、攻撃者とセシリアの間に割って入る。攻撃者はしかし、剣士ではなくトラックを見据え、動揺したように言った。
「お前、何者?」
汗を手でぬぐう攻撃者の姿を太陽が照らす。そこにいたのは、年の頃なら十五、六くらいの、赤い髪に金の瞳をした少女。だが、ただの少女と異なるのは、その頭にまるで猫のような耳があり、そして、尻にはシッポまで生えていることだった。この少女も男の子と同じ、獣人族なのだ。
「なんだ、今日は猫祭りか?」
軽口を叩く剣士の態度は、言葉に反して余裕がない。猫の少女はキッと剣士を睨みつけると、挑むように言葉を返した。
「甘く見るなら後悔するぞ。猫人の爪は鋼を切り裂く」
少女の指先から鋭い爪が伸び、金の瞳が殺意を帯びて光る。
「待って! 私たちは――きゃっ!?」
セシリアは身を乗り出し、猫の少女を制止しようと声を上げ、そして妙な悲鳴を上げた。黒猫の男の子がもぞもぞと動いてセシリアの腕を抜け、猫の少女の許へと走ったのだ。どうやらいつの間にか目を覚ましていたようだ。
「ルルっ!」
「セタ! 無事でよかった!」
ルルと呼ばれた少女が男の子、セタを抱きしめる。トラック達を見ていた時とはまるで違う、優しい目だ。ルルはセタの首に付けられた首輪に気付くと、怒りに奥歯を噛み締め、鋭い爪で首輪を引き裂いて地面に叩きつけた。そしてセシリアを睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「自分たちの幸運に感謝しろ。あたしが今お前たちを八つ裂きにしないのは、この子に残酷な光景を見せたくない、それだけの理由だ」
ルルはセタを抱えると、信じられない身軽さで塀の上に飛び上がった。セシリアは辛そうな表情を浮かべ、ルルを見上げた。ルルは冷たくセシリアを一瞥すると、トラックに顔を向けた。
「人間に味方するならよく覚えておくことだ。人間は裏切る。遠い過去はどうあれ、あたしたちはほんの一週間前まで、人間を善き隣人だと思っていた」
ルルはそう言うと、壁をトラック達とは逆の方向に飛び降り、姿を消した。剣士が大きく息を吐き、剣を鞘に納める。剣士の顔には暑さとは別の理由の汗がにじんでいた。ルルと呼ばれたあの少女は、見た目に反してかなりの手練れということなのだろう。
「ただの猫探しのはずが、とんだ大事だ」
剣士のぼやきに頷いて、セシリアは立ち上がると、小さく呪文を唱えて自らの背中の傷を癒した。傷はきれいに塞がったが、セシリアの表情は硬いままだ。厳しい瞳でルルが姿を消した方向をじっと見ている。
で、でね? 非常に聞きづらいんだけども、深刻な雰囲気は分かるんだけども、その深刻さがよくわからんのですよ。えっとね、つまり、異世界の皆さんの普通が分からないっていうかね? だから、今どういう状況で何が問題になってるのか、誰かもうちょっと詳しく解説してくんない?
俺が説明を渇望していると、今まで後ろで大人しくしていたトラックが、小さくクラクションを鳴らした。お、もしかして聞いてくれるの? さすが。セシリアは振り返り、トラックに言った。
「さっきの黒猫の男の子は獣人族、猫人の仔です。そして、あの男の子は夫人に『ペットとして飼われていた』。と、いうことは……」
セシリアは痛まし気に俯いた。
「あの子は、誘拐され、売られた、かもしれないということです」
えーっと、それは、その様子からして、やっちゃダメなことなんだよね? 獣人の子供をさらって売るのは犯罪なんだよね? だよね?
「クソみたいな話だがな」
剣士が顔を歪めて吐き捨てる。ナイスだ剣士。そういうのを待ってた。つまりこれは、怒っていいってことなんだな。あーよかった! 子供に首輪付けて喜んでるのが「普通ですが何か?」って世界観だったらどうしようかと思ったよー。じゃ、怒るぞ? いいな? せーのっ! ふざっけんなよバカヤロウ! 子供はモノじゃねぇんだぞバカヤロウ! あのくらいの子供っつったらかわいい盛りだろうが! それに首輪付けて喜ぶってどんだけ変態だバカヤロウ!
「人間と他種族の間には、過去の因縁って奴があるんだ」
剣士は苦いものを含んだ表情で言った。かつて、人間と他の種族との間には交流がなく、互いにいがみ合い、争っていたそうだ。エルフには森を開いて耕地を広げるのを邪魔され、ドワーフとは鉱山の採掘をめぐって対立した。獣人たちとも水場をめぐって衝突を繰り返していた。そういった争いの歴史の中で、人間は他種族に対する憎しみと差別意識を育てたのだという。
「他種族は人間より劣る『亜人』。だから人間は『亜人』に何をしても構わない。当時の人々の多くがそう考えていたようです」
実際には、個々の能力を比較すれば人間は他種族には敵わないらしい。その劣等感が『亜人』に対する過剰な差別意識を生んだのだろうとセシリアは言った。相手を過剰に貶めることで、自らの劣等感を埋め合わせたのだろうと。そして、その差別意識は他種族に対して人間をいくらでも残酷にした。口にすることさえおぞましいようなことが行われたのだと、セシリアは目を瞑った。
「獣人族を捕えて首輪をつける、ってのは、その時代の貴族の間でずいぶんと流行ったらしいぜ」
剣士が皮肉気に冷笑する。何を思い上がっていたのかと、かつての人間たちを嗤っているのだ。セシリアは同意するように頷くと、目を開いてトラックを見つめた。
「もう百年以上も前の話です。今は他種族の方々との交流も進み、そういう意識も薄らいでいます。ですが、他種族を『亜人』とみなす思想を引きずる者たちが一部に存在することもまた、事実です」
金持ちがステータスとして獣人をペットに望む。需要があれば誰かが供給しようと動き出す。つまり、そこに『商売』が成立する。なるほど、胸糞の悪い話だ。ああ、また腹立ってきた。
「ケテルは種族間の融和の象徴のような場所です。先人たちは他種族と争うのではなく、商取引を通じて相互の利益を追求する仕組みを作った。共存という道を選んだのです」
はるか過去に思いを馳せるように、セシリアが遠い目をした。剣士は少しの間セシリアの顔を見つめていたが、表情を引き締めてトラックに言った。
「そのケテルで獣人族の売買が行われているとすれば、事は一個人の犯罪じゃ済まない。ケテルが築き上げた他種族からの信頼が崩壊しかねない事態だ。下手を打てばこの町そのものが吹き飛ぶぜ。Eランクどころか、Aランクでもおかしくない仕事だ」
たとえ悪事に手を染めているのがごく一部の商人だったとしても、獣人族から見れば「人間が獣人族を売買している」と思うだろう。ルルが言った、「人間を善き隣人だと思っていた」という言葉は、つまりはそういうことだ。獣人族はもはや、人間をパートナーとみなせなくなったと、彼女はそう言ったのだ。そして獣人族のその態度は、間違いなく他の種族にも影響するだろう。獣人族に起きたことが、自分たちの身にだけは降りかからないと楽観する種族はいないだろうから。他種族との交易によって栄えるこの町にとって、この問題を放置することは自らの首を絞めるのと同じだ。
「ギルドに報告すべきだ。俺たちの手に余る」
はっきりとそう言う剣士に向かって、しかしセシリアは首を横に振った。
「私たちはまだケテルに来たばかりです。ケテルのギルドがどういう思想を持っているのか知りません。もしギルドが『知っていて』この仕事を受けたとしたら、ギルドへの報告は事態の悪化を招きかねない」
「あり得ないだろう? ギルドもケテルの衰退を望んじゃいないはずだ」
何をバカな、と言いたげに剣士が顔をしかめる。セシリアは、彼女に似つかわしくないほど冷徹な視線を剣士に向けた。
「ケテルは他種族との関係を棄て、クリフォトへの臣従を望んでいる」
「!?」
剣士がはっと息を飲み、軽く目を見張る。
「……その可能性もある、ということです」
「冗談キツいぜ」
苦笑いして息を吐くと、剣士は表情を改めてもう一度セシリアに言った。
「だがもしそうだとしたら、この件からは手を引くべきだ。ケテルもギルドも敵に回して、生き残れると思っているのか?」
剣士は厳しい瞳でセシリアを見下ろす。頭一つ分高い剣士の瞳を、セシリアは真剣な表情で見つめ返した。
「今、他種族の信頼を失うわけにはいきません。少なくとも、すべての人間が敵なのではないと理解してもらわなければ、取り返しがつかなくなる。何より、先人たちの営為を無に帰するような事態を、座視するわけにはいきません」
セシリアの言葉に、剣士の瞳が厳しさを増した。そこには怒りのような、哀れみのような、複雑な感情が混ざっている。セシリアは静かにその視線を受け止めていた。
「お前のために何人死んだか、分かっていて言っているのか?」
「ここで手を引けば、私のために命を落とした人々は皆、天国でため息を吐くでしょう。自分はあんな卑怯者のために命を懸けたのか、と」
触れれば切れてしまうような、鋭い視線が火花を散らす。剣士には剣士の、セシリアにはセシリアの、譲れない何かがあって、だから引き下がるわけにいかないのだろう。二人はしばらく無言でにらみ合っていたが、やがて剣士が諦めたように視線を逸らし、おどけた仕草で肩をすくめた。
「まったく、ウチの姫はわがままに過ぎる。苦労するのは周りだといい加減分かってほしいね」
「その呼び方はやめて」
やれやれ、と大げさにため息を吐く剣士に、セシリアが不快そうに抗議した。へいへい、とまるで真剣味のない返事をした後、剣士は気分を入れ替えるようにセシリアに言った。
「で、これからどうする?」
「もう一度夫人に話を聞きましょう。本当に獣人族の売買が行われているのか、行われているとしたらどんな規模か、他に被害者はいないのか。私たちの敵は、誰か。夫人はその疑問の答えを持っているはずです」
すべて杞憂ならいいのに。セシリアの小さな呟きは、袋小路の影に吸い込まれて消えた。
えーとね、言っていいかな? そんな場面じゃないって分かってるけど、言っちゃっていいかな?
とぉーっても思わせぶりなんですけどぉー!
何か背負っちゃってる雰囲気満載なんですけどぉー!
なのに具体的なことは何も分からないんですけどぉー!
ですけどぉー!
けどおー
ぉー……
……
あ、ちょっとすっきりした。
しかしその時、その場にいた誰もが予感にも似た想いを抱いていたのです。「この伏線、回収されないだろうな」と。