ごめん
「村長!」
イゾルデと役場の職員が村長に駆け寄る。村長はぐったりとして、顔は赤く明らかに発熱しているようだった。おそらく少し前からすでに症状は現れていて、それを周囲に悟られないように無理をしていたのだ。村長としての責任感によって支えていた身体が今、限界を迎えたのだろう。呼吸もやや荒く、無理をしたツケが一気に襲い掛かってきた感じだ。
「ベッドに運ぶわ。手伝って」
イゾルデの指示で村長が奥の会議室に運ばれる。急ごしらえの担架の上で村長は呻くように「イゾルデの指示に従え」と言うと、もう口を開く力も残っていないのだろう、目を閉じて沈黙した。
時刻は昼を回り、患者は未だ増え続けている。すでに会議室も一杯になり、廊下に患者を寝かせなければならない有様だった。患者は百人を越え、ベッドを造るための藁も布ももうない。新規の患者は近所から持ってきた絨毯の上に直接寝かされている。そして何より深刻なのは、すでに薬が底を突いているという事実だった。
「さあ、口を開けて。ゆっくり、慌てないで」
イゾルデが患者に水差しで水を含ませる。本来ならそれは薬を溶いたものであるべきだが、今、イゾルデが患者に与えているのはただの砂糖水だった。しかし不思議なもので、薬と言われた砂糖水を与えられると、患者の容体は少し安定する。偽薬効果、というやつだろうか。最初に本物の薬を与えた患者たちの症状が改善している事実が、砂糖水に偽りの希望を与えている。全員助けると言った院長への信頼だけが、今のこの状況を支えている。
院長は薬がなくなった後もまるで変わりなく患者を診察し、セシリアに砂糖水を作らせている。患者やその家族は砂糖水を飲まされているだけだとはまるで気付いていないだろう。それは院長の、患者たちを不安にさせないための言わば『善なる嘘』だ。助けを求めてここに来た患者や家族たちに、『薬がないからどうにもならない』などと言うことはできない。しかしドワーフたちが希望を失わぬようにつく『善なる嘘』はそう遠からず破綻を迎えることを、院長もセシリアも充分過ぎるほどに自覚しているようだった。
「……トラックさん……」
隠しきれぬ焦りを吐き出すように、セシリアは小さくそうつぶやいた。
「セシリア、少し休憩して。食事もまだでしょう?」
イゾルデがセシリアにそう声を掛ける。時間は午後二時を回ったくらいだろう。イゾルデは患者の様子を見回り、患者の家族に声を掛け、他の職員をフォローしつつその合間を縫って昼食を手配し、皆に配っていた。
「いえ、だいじょうぶです。私より他の皆さんを」
セシリアは気丈に答える。しかしその顔は青白く、消耗は明らかだった。身体的にも疲労はあるだろうが、精神的な疲労のほうがより深刻だろう。患者に嘘をつき、砂糖水を与えて平然としなければならない状況はジリジリと彼女の心を蝕んでいる。イゾルデは少し怒ったような顔を作って言った。
「ダメよ。休むことも立派な仕事。貴女が倒れたら、貴女が救うはずの命が失われるのよ?」
「しかし……」
なおも抵抗の意を示すセシリアの耳元に顔を寄せ、イゾルデは小さく囁いた。
「……砂糖水なら私でも作れる」
「!?」
セシリアがハッと息を飲んだ。イゾルデは気付いていたのだ。すでに薬が尽きていることに。気付いてなお、イゾルデは院長やセシリアを信じて協力してくれていたのだ。
「甘えておきなさい。トラック君たちが帰ってくれば、休む暇はなくなるんじゃ」
院長は診察の手を止めないままイゾルデに賛同した。院長だってずっと働きづめで疲れていないはずはないのだが、そんな様子はおくびにも出さない。イゾルデは意を強くしたように大きくうなずく。セシリアは深呼吸をすると、
「……わかりました」
と言ってイゾルデからパンと水を受け取った。ロールパンの真ん中に切り込みが入れられ、そこにハムと輪切りのゆで卵とピクルスが挟まっている。セシリアがパンの端にかじりつき、イゾルデは安心したように笑った。
「デュナ師! ちょっと来てくれ!」
少しなごみかけた空気を打ち被る、切迫した職員の声がロビーに響く。院長が険しい顔で声の方向を振り返った。
「どうした!」
「呼吸が!」
その一言で院長とセシリア、そしてイゾルデの顔が強張った。三人が慌てて声を上げた職員の側に駆け寄る。
「急に、息が荒くなって……!」
動揺する職員を下がらせ、院長が患者の様子を確認する。患者はまだ幼いドワーフの男の子だった。ぜえぜえと苦しげに息をして、固く目を閉じている。熱により顔は紅潮し、全身がぐっしょりと汗に濡れていた。
「せんせい! 助けてください! どうか!」
男の子の横にいた母親らしきドワーフ女性が院長にすがる。院長は「大丈夫」と声を掛け、より詳しい診察を始めた。しかしこれは、診察の『振り』だ。院長は診察の『振り』をしながら、必死に打開策を考えているようだった。なにせやることは決まっている。助けるには薬を飲ませるしかない。そして、できることはもうない。薬はもう尽きている。砂糖水でごまかせる段階は過ぎている。
院長の額に冷たい汗が浮かんだ。助けられなければ、この男の子が死んでしまえば、院長に対するドワーフたちの信頼が揺らぐ。信頼によってつなぎとめていた安心の糸が切れる。不安は患者の希望を奪い、症状の悪化を招きかねない。患者の家族がパニックを起こし、怒りを院長たちに向ける可能性もある。いつか迎えるとわかっていた破綻が、今、目の前にあった。
今までの他の患者に比べて妙に長い診察に、家族が不安そうな目を向ける。院長は何も答えなかった。答えられなかったのだ。院長がゴクリと唾を飲んだ。セシリアは院長の背を見つめ、大きく息を吸うと、決意の表情を浮かべた。手早く水に砂糖を溶かして水差しに入れると、
「院長。ここは私に」
そう言って院長の横に並んだ。院長は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、すぐにそれを抑え込んで平静な顔でうなずいた。イレギュラーな事態だと気付かれてはならないのだ。
院長は場所を譲り、セシリアが男の子の背に手を回して体を起こした。男の子の母親が手を伸ばし、男の子の身体を支える。セシリアは目で礼を言って、水差しを男の子の口に含ませた。翡翠色の瞳が光を帯び、セシリアの身体から細かい光の粒子が現れて、水差しに水と共に男の子に流れ込んでいく。すると、今まで苦しそうに息を乱していた男の子の呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していった。熱も少し下がったようで、消耗しているものの、容体は安定したようだ。きちんと薬を飲ませたときみたいに。
「あ、ありがとうございます!」
母親がセシリアの手を取り、頭を下げてお礼を言った。セシリアは微笑みを返す。張りつめていたロビーの空気が、ほっとした雰囲気に変わった。ギリギリのところで破綻は回避されたのだ。
何度も礼を言う母親に手で応え、院長とセシリアは元々診察をしていた患者のところに戻ろうと立ち上がった。セシリアの身体がふっと揺れる。とっさに院長が手を伸ばし、その身体を支えた。
「……何をした?」
「……私の土の精霊力をあの子に与えました」
院長の目が大きく見開かれる。セシリアは水差しで薬を飲ませているように装って、魔法で自分の中にある精霊力を分け与えていたのだ。分け与える、ということはつまり、自分自身は精霊力を失うということだ。
「何という無茶を……! 下手をすればお前自身が崩岩病になるんだぞ!」
「申し訳ありません。でも、助ける手段があった」
セシリアの言葉に、院長は唇を噛んだ。もしセシリアがそうしなければ、おそらく事態は取り返しのつかないところまで行ってしまっただろうことを、院長は分かっているのだ。あの男の子が助かったことでドワーフたちの信頼をつなぎとめることができた。今、この場を支えているのはただ、信頼という目に見えないか細い糸なのだ。
「自己犠牲と美徳と思うな。我々医療者は己を犠牲にしてはならん。それは己のためではない、患者のためじゃ」
院長は呻くようにそう言った。セシリアは「はい」とうなずく。セシリアは己を犠牲にしてはならないことを理解していなかったわけではないし、院長はセシリアがああするしかなかったことを理解していないわけでもないだろう。それでも院長があんなことを言ったのはきっと、自分の不甲斐なさへの苛立ちなのだろう。あまり表に出さなくても、院長だってこの状況にジリジリと精神を削られているのだ。
セシリアの不調を察したイゾルデがさりげなく側に近付き、そっと身体を支えた。院長は何事も無いようにセシリアから離れ、再び患者の診察に戻る。セシリアは休憩と称してイゾルデに壁際に連れていかれ、壁に背を預けて座り、目を閉じた。
セシリアのおかげで破綻は免れた。しかし同じ方法は二度と使えない。次に誰かの容体が急変したとき、そのときが、終わりの始まりになる。
「デュナ師!」
時刻は午後三時を回り、危うい均衡を保っていたロビーに、またも職員の大きな声が響いた。その声は上ずり、動揺しているようだ。イゾルデを助手に患者を診ていた院長が厳しい顔で声のほうを向いた。イゾルデは祈るように胸に手を当てる。セシリアは未だ壁際で休んでいた。
「どうした?」
院長は努めて冷静を装い、声を上げた職員に近付いた。職員は言葉もなく患者を指さし、涙を浮かべて震えている。職員の指の先には、ここに最初に運び込まれた患者――朝にトラック達を見送りに来ていた役場の職員の姿があった。院長の目が驚きの色を帯びる。その患者は今、ゆっくりと、自力でベッドから体を起こそうとしていた。
「だいじょうぶ!? 無理をしないで!」
イゾルデが患者に駆け寄り、身体を支えようと手を伸ばす。しかし患者は手を挙げてそれを制し、誰の力も借りずに起き上がった。そして院長に向かって大きくうなずくと、歯を食いしばって立ち上がり、ロビー全体に聞こえるように叫んだ。
「動けるように、なった! この人たちのおかげで、動けるようになったぞ! この病気は治ります! 私が証拠だ! だからみんな、もう少し、頑張ってください!」
この病気は治る――その言葉は確かな説得力を持ってドワーフたちに浸透したようだった。患者の家族たちの表情が希望に沸く。澱んだ空気を払い、清かな風が吹いたようだった。セシリアの顔が安堵にほころび、院長が深く頭を下げる。
「私もお手伝いします。治ったからには寝てはいられない」
気丈にそう言って、患者だったそのドワーフはイゾルデに指示を仰いだ。決して完全に体調が戻ったわけではあるまい。むしろ立っているのがやっと、というところではないか。それでも彼は役場の職員として、たぶんみんなを安心させるために、だいじょうぶなふりをしているのだろう。イゾルデは彼の手を取り、目を潤ませた。
「ありがとう」
イゾルデに手を握られ、少し照れたようにドワーフの彼が首を振った。院長が小走りに駆け寄る。今まで埋まる一方だったベッドが空いた。それは院長にとっても勇気づけられることだったのだろう。セシリアもまた、元気を取り戻したように立ち上がって近づく。
「病み上がりで無理は禁物じゃ。少し診させてくれ」
やや高揚した様子の院長に彼が顔を向ける。
「私は大丈夫です。他の方たちを診てあげて――」
彼の言葉が、そこで急に途切れた。ドン、と重く床を打つ音がした。院長たちの顔が硬直する。治った、そう言っていた彼が、床に倒れていた。
「ど、どうした!? しっかりしろ!」
院長は床に膝をつき、彼を抱き起した。両腕が脱力したようにだらりと下がる。その顔は発熱の症状を呈していた。
「再発!? バカな、この短時間で再発するほどの精霊力を失うなんて、ありえん!」
凍えるような沈黙に覆われたロビーに院長のつぶやきがやけに大きく響いた。治る、そう信じた矢先に起きた再発に、ドワーフたちは強いショックを受けたようだった。ショックを受けたのは院長やセシリアも同じで、もはやドワーフたちへの配慮も忘れ、呆然と動けずにいる。他の職員たちも動きを止め、院長のほうを見ていた。それは「あなたを本当に信じていいのか?」という疑念をはらんでいる。斬りつけるような鋭い静寂が生まれていた。
「……ごめん、セシリア」
ぽつり、とイゾルデが言った。
「えっ?」
セシリアがイゾルデを見る。イゾルデは今までに見せたこともないような、弱々しい笑顔をセシリアに向けた。
「……あとは、お願い」
絞り出すように声を出し、イゾルデは、まるでスローモーションのようにゆっくりと、ひざから崩れ落ちた。
「イゾルデさん!」
悲鳴のようなセシリアの声が、ロビーを渡った。
人生にはさ、ボケる隙が無い日ってのも、あるじゃない?




