確執
酒場の入り口に姿を現したのは、ヒゲを蓄えた壮年の男。刃のように鋭い細面は見る者を思わず退かせるような迫力があった。以前、『存在しない部屋』で見た評議会議長ルゼその人である。ルゼは冷徹な瞳で酒場を見渡すと、
「いーっ」
バレエダンサーの如くつま先立ちしてクルクルと回転し、
「りーぃっ」
弓を引き絞るようにグッと身を屈め、
「ちゅわわーーーーんっ!!」
イーリィに向かって満面の笑みで跳躍した。そのまま抱き着こうと手を広げるルゼの顔面に、イーリィの右ストレートが炸裂する。バキィっと派手な音が響き、撃墜されたルゼはその場にしゃがみ込んだ。
「……どういうこと? コメル」
イーリィは非難の目を酒場の入り口に向ける。そこには困り顔のコメルの姿があった。
「申し訳ありません、お嬢様。私は止めたのですが、どうしても自分が行くと聞かないものですから」
顔をしかめるイーリィの怒りに、コメルは申し訳なさそうに頭を掻いた。どうやら二人は知り合いらしいな。でもなんで零細商人のコメルが議長と一緒にいるの? そういえば『存在しない部屋』でも議長の後ろに控えていた気がするけど。
トラックがコメルの方に向きを変え、プァンとクラクションを鳴らした。コメルは軽く会釈を返す。
「お世話になっております、トラックさん。今度またゴブリンたちと会合を持つので、同席をお願いしますね。私もゴブリン語を覚えようと思ってはいるのですが、なにせほとんど『ごぶごぶ』でしょう? 違いが分からなくて」
トラックが了承のクラクションを返した。ああ、ちゃんとゴブリンとの交易は話が進んでいるんだな。最近、あんまり西部街区に行ってないけど、ガートンは元気だろうか? 今度様子を見に行ってみるか。
トラックはコメルに問いかけるようなクラクションを鳴らした。コメルはあいまいな表情で笑うと、少し歯切れの悪い様子で言った。
「いえ、私はただの零細商人ですよ。ただ、それだけで生計を立てるのは難しいので、バーラハ商会の番頭を副業でやっております」
「コメルは父の懐刀よ。恐ろしく切れ味のいい、ね」
イーリィがトラックに補足する。コメルはバツの悪そうに頬を掻いた。すると、イーリィの注意がトラックに向いたその隙を突いて、しゃがみ込んでいたルゼが勢い良く立ち上がり、イーリィの手を掴んだ。イーリィが心底おぞましげに「きゃっ」と悲鳴を上げた。
「イーリィちゃんったら全然会いに来てくれないんだもん。パパ超さみしかったヨー。だから、だから、今日は、来ちゃった」
若干瞳を潤ませ、ルゼが「てへっ」とイーリィに笑いかける。鼻血出てるけどね。頬が青く腫れあがってるけどね。イーリィは勢いよくルゼの手を振りほどくと、トラックの影に隠れるように運転席側に立ち、左手をドアに添えた。一瞬セシリアの顔が引きつり、すぐに無表情に戻った。
「お前は――確かトラック、だったな。『存在しない部屋』以来か。こんなところで何をしている、と言いたいところだが、ギルドの酒場にお前がいても不思議はないな」
さっきまでのデレデレ顔が嘘のように、背筋を伸ばして冷徹な表情を取り戻したルゼがトラックに言った。おお、結構な威圧感。なにこのものすごい落差。本当に同一人物なの? イーリィが怒りとも憎しみともつかぬ目でルゼをにらみ、そしてはっきりと言った。
「……見合いは、お断りいたします」
他人行儀な物言いがイーリィの拒絶感を物語る。しかしルゼは何も感じていないのか、あるいは感じていない振りをしているのか分からないが、にへっと相好を崩した。
「またまた~。そんなにパパの気を引きたいのかな? イーリィちゃんは本当に可愛いなぁ。でもイーリィちゃん、君とそうやって遊ぶのはパパとっても楽しいけど、今はちょっと時間が無いんだ。相手を待たせてしまうからね。あれ、でもよく考えたらイーリィちゃんと遊ぶこと以外に重要なことがこの世にあるだろうか? 見合いの相手なんて待たせておいていいから、パパはイーリィちゃんとのコミュニケーションを大切にすべきなんじゃない? そうだね。そうだよね。よし、コメル、先方に伝えろ。その場で三年待機しろとな」
暴走するルゼの思考にコメルの顔が引きつる。セシリアがおぞましいものを見るような表情を浮かべた。イーリィは苛立ちを抑えるようにフッと強く息を吐くと、わずかに語気を強めた。
「私、今トラックさんとお付き合いをしているの」
ピシッ、と音を立ててルゼの身体が硬直する。コメルがわずかに驚いたような顔でイーリィを見た。セシリアが苦いものを含んだように顔をしかめる。トラックはぼへっと突っ立っていた。
「……今、何て言ったのかな? パパ、よく聞こえなかった」
ギギギと音を立てそうなぎこちない動きで、ルゼはイーリィに向き直った。顔からは血の気が引き、頬がぴくぴくと痙攣している。イーリィは噛んで含めるようにゆっくりと、一語ずつ区切ってはっきりと言った。
「私は、トラックさんと、お付き合いしています」
ガビーンッ、という描き文字を背負ったような分かり易い驚愕の表情でルゼはイーリィを見つめる。イーリィは冷淡にルゼを見つめ返した。錆びた鉄扉を無理に開くような動きでルゼはトラックに顔を向ける。トラックは短く、ややためらいがちにクラクションを鳴らした。
「……コメル」
ルゼはしばらくの硬直の後、ゆっくりとコメルを振り向き、かすれた声で言った。
「火あぶりの用意だ」
「ちょっと! 何を言っているの!?」
突然の要求にイーリィが叫ぶ。おお、にっこり笑って謀殺どころの話じゃなかった。直球だった。コメルは冷静にルゼに問う。
「いかなる罪状で?」
「国家転覆罪だ」
当然だろう、と言わんばかりにルゼは胸を張り、重々しく頷いてみせる。コメルはなおも疑問をぶつけた。
「お嬢様とお付き合いすると国家転覆罪なのですか?」
「私の知らぬ間にイーリィちゃんに手を出すなぞ、天地をひっくり返すに等しい重罪に決まってるだろうがっ!!」
ルゼの怒声が大気を震わせ、酒場全体に響き渡る。他にいた客たちがそそくさと席を立った。ああ、もうすっかり営業妨害だよ。酒場の従業員が沈鬱なため息を吐いた。ちなみに今日はカウンターにマスターはおらず、ギルド職員だけで切り盛りしているので、ルゼを止められるひとは誰もいない。
「いい加減にして! そんな理由で処刑だなんてどうかしてる!」
「パパは心配なんだよ! こんな図体が大きいだけの青二才、イーリィちゃんにふさわしいとはパパ思えない!」
イーリィの抗議を跳ね返し、ルゼは厳しくトラックをにらんだ。
「南東街区の件でなかなか面白い男だと思っていたが、どうやら私の買い被りだったようだな。褒美に娘を要求しなかったことだけは褒めてやる。だが、冒険者などという不安定で将来性のない仕事に安住する貴様に、娘を託すなど想像するだにおぞましいわっ! 身の程を弁えよ下郎!」
ルゼの一喝にセシリアは目を閉じる。沸き上がる怒りを抑えるのに必死なのだろう。イーリィは無言でルゼの前に歩みを進めると、右手で思いっきりその頬を引っぱたいた。
――パシィ
乾いた音が広がり、コメルが痛そうに顔をしかめた。セシリアは軽く目を見張る。酒場の従業員たちは小さく悲鳴を上げ、そそくさとバックヤードに引っ込んでいく。この町の最高権力者が平手打ちを喰らうような場面を見ていること自体、どんなとばっちりを受けるか分からない危険をはらんでいるのだ。逃げたくなっても仕方ない。
「私のことならともかく、彼を侮辱することは許さないわ」
イーリィのもはや隠そうともしない怒りを受け、ルゼは目を丸くする。そして未熟者を諭すような声音で語り掛けた。
「いいかい、イーリィちゃん。どんなものにも、ふさわしい時、ふさわしい場所、ふさわしい相手というものがある。商品を売るには、その商品が必要とされるときに、必要とされる場所に、必要とされるひとに渡さなければならないんだ。そうでなければどんなに優れた商品でも売れない。それどころか、不当に安く買い叩かれる」
「ひとをモノみたいに言うのはやめて」
低く頑ななイーリィの声を、しかしルゼは聞こうとしないようだ。ルゼはなお言葉を続ける。
「君は今、夢中になって相手の価値を冷静に測れていないだけだ。自分を安く売り渡してはいけないよ。この男は君の価値に釣り合う相手ではない」
ルゼの真剣な表情は、その言葉を心から信じて言っていることを伝える。イーリィはわなわなと身体を震わせてルゼを強くにらんでいたが、やがて皮肉げに口の端を歪めた。
「……母様も、価値がなくなったから見捨てたのね」
「お嬢様!」
イーリィの凍えるような冷たい言葉を聞いて、コメルが鋭い制止の声を上げた。ルゼはイーリィの方を向いたまま手でコメルを制する。コメルは何かを言いかけ、そのまま言葉を飲み込んだ。ルゼは表情を変えることなく、イーリィを見つめて言った。
「……見合いには出てもらう。約束とは神聖なものだよイーリィ。それは商人のみならず、ひと同士が関わる上で最低限必要な土台だ。違うかな?」
イーリィは悔しそうに唇を噛んでうつむく。結局のところ、正論を正面からぶつけられてはイーリィに反論の余地はないのだ。ゴネているのは自分だという自覚がある以上、イーリィがルゼにノーを貫くのは難しいのだろう。
「相手は今、急成長しているリーガ商会の後継ぎだ。年齢も君と同じだし、決して君のこれからの人生に不利益にはならない相手だよ。少し冷静に、自分の将来を考えなさい。外で待つ。急いで支度を整えるように」
一方的にそうまくしたて、ルゼはコメルを伴って酒場を後にした。イーリィの「母様を見捨てた」という発言がルゼの態度を変えたようだ。これ以上その話題に触れたくないために話を切り上げた、という雰囲気がありありと伝わってくる。
以前、マスターが「あの親子にはいろいろあってなぁ」と言っていたが、その「いろいろ」にイーリィの母親、ルゼの妻が関わっているのは間違いないだろう。詳しいことは分からないが、仲直りとかそういう次元じゃないということは、部外者である俺にもはっきりわかった。
「あの……」
セシリアがうつむくイーリィにためらいがちに声を掛ける。しかしイーリィは、
「……着替えてくるわ」
と言って背を向け、うつむいたまま酒場を出てギルドの奥の部屋へと向かった。
そして十分が経ち、ニ十分が経ち、三十分が経って、ギルドの外で待っていたルゼはようやく気付きました。
「しまった、逃げられた!?」




