幕間~一歩目~
――はぁ、はぁ
激しく乱れる自分の呼吸の音が聞こえる。地面に転がるゴミを飛び越え、すばやく周囲に目を走らせる。背後からは一つの足音が迫りつつあった。ごちゃごちゃとした街並みは迷路のように入り組んでいる。さっきから悲鳴を上げている肺を意識から除外して、少女は速度を落とさぬまま右手の細い路地に飛び込んだ。
数日前、南東街区の大半を支配していたガトリン一家の本拠地が突然の襲撃を受け、驚くべきことに壊滅したらしい。襲ったのはなぜか外の連中、冒険者とかいう者たちだったようだ。理由など全く分からないが、大きな顔をして好き勝手なことをしていたマフィアが壊滅したなら喜ばしいことだ。しかし今度はマフィアの代わりに冒険者だの衛士隊だのといった連中がこの街に乗り込んできた。そいつらもそいつらで、マフィアと同様、勝手にルールを押し付けてくる嫌な連中のようだ。結局、この街は変わらない。誰が支配者になるか、その首はすげ変わっても、支配される者が抑圧され、踏みつけられ、打ち棄てられることに変わりはない。今日食べるものがないことには変わりがない。
「待てこのクソガキャぁ!!」
背後から迫る男の怒声が少女の背を打つ。思ったより近い。少女は腕の中に抱えた、少し水分の抜けた三つのリンゴをちらりと見やった。もうずいぶんと食べていない。これを持って帰らなければ、自分はともかく弟たちがもたない。
男が入って来られないような狭い場所はないか。少女は駆けながら逃げ道を探した。体力はとっくに限界を超えている。気力まで尽きる前に、なんとか男を撒いて逃げ切らねばならなかった。しかし望むような場所は見つからない。少女は目の前の三叉路を左に曲がった。足を止めて方向を吟味する余裕はない。
「!?」
道を曲がって最初に目に飛び込んできたものに驚き、少女は思わず足を止めそうになった。決して広くないその道の端に木箱が置かれ、一人の男がボーっとその上に座っている。それだけならば気にすることもないが、少女の目を引いたのは、男の髪型――今までに見たこともないほどの見事なアフロヘアーだった。
(な、なんだ、コイツ!? こんなところで何してんだ!?)
追いかけてくる男の仲間、というには、こちらに目もくれずに空を見ているだけで、かといって無視するには存在の主張が強すぎる。少女は一瞬の逡巡の後、走る速度をさらに上げた。これが何者であれ、何かされる前に通り過ぎてしまえばいい。アフロ男は空を見たまま微動だにしない。少女はアフロ男の前を通り過ぎ――ようとした瞬間、アフロ男に左手首を掴まれた! 身体が左後方に引っ張られ、抱えていたリンゴが宙を舞う。しかしリンゴは、アフロ男の横に影のように控えていた細身のアフロによって、地面に落ちる前に素早く回収された。細身アフロは何事もなかったように元の体勢に戻る。
「てめぇなにしやがるっ! 手ぇ放せ!!」
やっぱり仲間だったのか、少女は自分の考えの甘さに舌打ちすると、犬のように鼻にシワを寄せ、手を掴むアフロ男に吠え掛かる。手を解こうとじたばたしたり右手で殴ったりしたが、アフロ男は痛くもかゆくもない様子でがっちりと少女の手を捕えている。
「なぁ、ちょっと聞いてくれよ」
アフロ男が少女に目を向け、世間話のように声を掛ける。少女の言うことに耳を傾ける気はなさそうだ。それに、足を止めてしまったことで、少女の身体は自らの疲労を思い出し始めたようだ。足は急速に重くなり、空腹も相まって頭がふらふらとする。追いかけてくる足音はもう逃げきれないほどに近付いていた。少女は「ちくしょう」と悪態をついた。
「オレぁある男との約束で、この街のチャンピオンにならなきゃなんねぇんだけどよ。いったい何をどうすりゃいいんか、さっぱりわかんねぇのよ」
こちらの焦りも憎悪の視線も、この男には届かないらしい。もはや疲労で動かなくなりつつある身体をかろうじて支えながら少女は叫んだ。
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇぞ! アタマ沸いてんのか!?」
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。追いかけてきていた足音が止んでいた。背後からぜぇぜぇと息を整える音が聞こえる。追いつかれたのだ。少女は予想される痛みに顔をしかめた。
「やっと、追いついたぞ」
野太い声でそう言い、男は少女に手を伸ばす。少女はうつむき、目をつむった。ところが――
「て、てめぇ、いきなり何しやがる!」
追いかけてきた男が驚いたように声を上げた。アフロ男が、今度は追いかけてきた男の手首を掴んだのだ。アフロ男は左手で少女の手首を掴み、右手で追いかけてきた男の手首を掴んでいる。
「あんちゃんも聞いてくれよ。困っちゃってんのよ、マジで」
アフロ男はすっとぼけた顔で追いかけてきた男を見上げる。どれほど振り払おうと力を込めても、アフロ男は微動だにしなかった。それなりに力には自信があったのだろう、追いかけてきた男は驚愕の表情を浮かべると、少し大人しくなった。逆らうとヤバい、そういう勘のようなものが働いたのかもしれない。
「な、何が聞きたいんだ」
若干の怯えが含まれた顔で追いかけてきた男がアフロ男に問う。アフロ男はうんうんと頷くと、本当に困っている声音で言った。
「チャンピオンになる方法」
追いかけてきた男は「こいつはなにを言ってるんだ?」という顔を少女に向けた。少女は「知るか」とばかりに首をぶんぶんと横に振る。アフロ男は二人の様子に気付いていないのか、話を続けた。
「オレぁアタマが悪ぃからよ。難しいことはわっかんねぇ。だからよ、代わりに考えてくれよ。この街は――」
アフロ男の瞳に鋭い光が宿る。
「――どう変わればいいのか」
真剣なアフロ男の視線に呑まれ、二人は言葉を失い、アフロ男をただ見つめ返した。しかし少女はすぐにキッとアフロ男をにらみつける。
「そ、そんなのてめぇで考えやがれ! こっちは今日食うもんもありゃしねぇんだ! この街がどうとか知った事か!!」
追いかけてきた男もまた、不快そうに顔を歪ませる。
「こんなゴミ溜めみてぇな街が、変わる訳ねぇだろう。変わったところでゴミ溜めはゴミ溜めだ。腐った奴らが生きるのは腐った場所しかねぇだろうが」
アフロ男は二人の言葉を吟味するようにじっと二人を見つめ返した。あまりの真剣な眼差しに二人はたじろぐ。やがてアフロ男は小さくうなずくと、急に人懐こい笑みを浮かべた。
「お前ら、頭いいなぁ」
「は?」
少女と追いかけてきた男はほぼ同時に素っ頓狂な声を上げた。「うーし」と言ってアフロ男は立ち上がると、二人の手を離さないまま、どこかへ向かって歩き始めた。
「とりあえずメシにすんべ。一緒にメシ食ったら仲間って感じすんだろ」
「いや、仲間じゃねぇよ! おい、いったい何なんだコイツは!」
「俺に聞くなっ!」
アフロ男は二人を引きずり、いずこかへと去って行った。
翌日、ノブロが仲間たちと南東街区で始めたのは、炊き出しとゴミ拾いでした。彼らは誰にも何も強制することなく、黙々とそれらを続けました。それは時に「偽善者」となじられ、嫌がらせも受けましたが、彼らは反論も反撃もせず、かといって止めることもありませんでした。そんな彼らの姿に、いつしかひとり、またひとりと協力してくれる人が現れるようになりました。その数は日を追うごとに増えていき、やがて南東街区の道からゴミがなくなったとき、人々はノブロのことを、誰ともなくこう呼ぶようになりました。
――チャンピオン、と。




