翼剣紋
評議会の裁定はその日のうちに関係各所に伝達された。さすが商人、仕事が早い。時間の価値をよく分かっている。
知らせを受けた衛士隊はガトリン一家の構成員の拘束を解いた。そもそもが明確な根拠も罪状もなく拘束したのだ。もしかしたらイャートは全員処刑するつもりだったのかもしれないが、それが不可能になった以上、末端の構成員まで拘束し続ける意味はすでになくなっている。だが野放し、となると再び南東街区で徒党を組む可能性も高いので、しばらくは冒険者ギルドの監視下で軟禁されることになったらしい。人手と経費が足らんとマスターが悲鳴を上げていた。衛士隊は協力してはくれないらしく、これはイャートのちょっとした意趣返しなのかもしれない。
ヘルワーズたちガトリン一家の幹部連中は末端の構成員とは異なり、関係する事件の聴取のため、しばらく拘束が続いた。もっとも獣人売買を始めとする幾つかの重大事件に関わっていたのはヘルワーズだけで、他の幹部たちはほとんど何も知らなかったようだ。ヘルワーズはまるで別人のように大人しく聴取に応じ、とんでもない爆弾発言をした。
「獣人売買以後、ガトリン一家が起こした南東街区外の事件はすべて、評議会議員を総辞職に追い込むためにやったことだと聞いている。商人ギルドの幹部を名乗る男からの依頼で」
ヘルワーズの衝撃的な証言によって、商人ギルドの上層部は今、大混乱中だそうだ。衛士隊も商人ギルドも評議会も、依頼主の情報をヘルワーズに求めたが、彼は力なく首を横に振った。彼は事件の実務を取り仕切ってはいても、依頼主については何も聞かされていなかったのだ。依頼主とのやりとりだけは、すべてボスが一人で行っていたらしい。
「俺が知らないことを自分が知っている、というのが、嬉しかったんだろう」
ヘルワーズはポツリと、そう言ったそうだ。
じゃあボスに聞いたらいいじゃんってことになるのだが、事態はそう簡単にはいかなかった。トラック達がガトリン一家のアジトに乗り込んだ日、動揺と混乱の末に頭を打って気絶したボスは、そのとき以来ずっと意識を取り戻すことなく眠り続けているのだ。医者に見せても原因は不明で、ボスへの事情聴取は断念せざるを得なかった。結果、ガトリン一家を使って評議会にケンカを売った『商人ギルドの幹部』とやらは見つからずじまいで、商人ギルドは犯人探しに躍起になっている。商人ギルド内には猜疑と不安が渦を巻き、ギルドメンバーは余計なことをしゃべって裏切り者と誤認されぬよう、息を潜めて推移を見守っていた。
ヘルワーズたちは衛士隊の聴取の後、他の構成員と同じように身柄を冒険者ギルドに預けられ、今度は冒険者ギルドの調査部の聴取を受けることになったようだ。ヘルワーズについては様々な事件に関与した証拠はある程度あるはずなので、本当なら衛士隊は起訴すべきなのだろうが、もし起訴して裁判で有罪になれば、間違いなく死刑となる案件である。殺すな、という評議会の決定との整合性を取ろうとすれば、審議を何らかの形で歪めなければならない。悪しき先例となることを嫌ったイャートは、起訴を断念することでせめて司法の正当性を守ったのだ。おそらくは、歯を食いしばって。
そんなわけで、ガトリン一家は一味全員を丸ごと冒険者ギルドが抱えることになった。一味は全員集めると百人を越える大所帯のため、軟禁場所に困ったギルドは結局、もともとガトリン一家のアジトだった場所を接収して改装し、冒険者ギルド南東街区支店にすることにしたようだ。南東街区の情勢はまだ不安定で予断を許さず、活動拠点を南東街区に持ちたいとマスターは考えていたようなので、一石二鳥というところなのだろう。改装はセシリアが魔法であっさりと終わらせ、その計算し尽くされた見事な採光と通風から、『風と光の魔術師』という二つ名がセシリアに増えた。
マスターは本店と南東街区支店の責任者を兼任し、行ったり来たりの慌ただしい日々を送り、トラック達もまた、それぞれに南東街区での活動に励んだ。それは巡回であったり、犯罪の取り締まりであったり、傷病の治療であったりしたのだが、南東街区の住人たちは野生動物のように警戒心が強く、頑なで、臆病だった。利用はするが信用はしない。住人たちのそんな態度は、南東街区のこれからについての困難な道のりを想像させるものだった。
そんなこんなであっという間に時間が過ぎていったある日、トラック達に一つの報せが届く。その報せには事務的な文字でこう書かれてあった。
ルーグの処分が確定した。
トラック達は大急ぎで冒険者ギルドの、マスターの執務室へと向かった。
ルーグは執務机の前で姿勢を正し、神妙な顔でマスターと向き合っている。マスターは椅子に座り、じっとルーグを見つめていた。ルーグは怯えることも、取り乱すこともなく落ち着いてる。でもその落ち着きは、自分自身への諦念からくるもののようだった。
執務室の中にはイヌカ、セシリア、剣士、そしてトラックがいる。マスターはルーグの関係のある人間を呼んだ上で、ルーグ本人に処分の内容を伝えようとしているのだ。イヌカはそわそわと落ち着かない様子で、ルーグとマスターに交互に視線を送っている。剣士は壁に背を預けて腕を組み、セシリアは不安を閉じ込めるように目を閉じている。トラックは停車したまま動かず、たぶんルーグを見ている。
「自分がしたことの意味を、分かっているな?」
「はい」
マスターが静かに、しかし感情の感じられない冷たい声でルーグに言った。ルーグは素直に、はっきりと返事をした。どのような結果も受け入れるという態度は、罰せられることを望んでいるように見える。
ヘルワーズが冒険者ギルドに身柄を預けられた、ということは、冒険者ギルドにとってルーグは事情を聞かねばならない相手ではなくなった、ということを意味する。ルーグはヘルワーズに使われていたに過ぎず、ヘルワーズが持っている情報量をルーグが越えることはないのだ。ルーグの処分が保留されていた理由は調査部の審問の途中だったからなので、審問が必要なくなれば処分も速やかに行われることになる。そして、『裏切りには死を』がギルドの鉄の掟なのであれば、今からルーグに伝えられる処分の内容は、一つしかない。
マスターはルーグにうなずきを返すと、執務机の引き出しから短剣を取り出し、ちょうど真ん中あたりの鞘の部分を握って、ルーグの方に突き出した。ルーグの瞳が戸惑いに揺れる。
「俺が現役のころに使っていた短剣だ。手入れはちゃんとしてある」
こ、これは、どういう意味でしょうか? これを使って自分で始末をつけろ的な? い、いやいや、それはない。みんないろいろ頑張ってきて最後にそれはない。それはダメ。
イヌカが緊張した面持ちで短剣を見つめ、そして何かに気付いたかのように少し目を見開いた。剣士とセシリアもおそらくイヌカと同じものに気付き、そして表情を緩める。彼らの視線の先には、短剣の柄に巻きつけられてぶら下がる、翼剣紋のペンダントがあった。
「ケテルの冒険者ギルドは、ルーグ、お前を正式なギルドメンバーとして迎える用意がある」
マスターの言葉の意味するところが理解できなかったのか、ルーグはポカンと口を開け、しばらく固まったままマスターを丸い目で見つめた。そしてようやく搾りだしたように、
「ど、どうして?」
と言った。マスターは表情を崩さず、ルーグに疑問に答える。
「ガトリン一家は解体され、一味は今、ギルドの監視下にある。本来なら全員処刑でもおかしくはないんだが、なぜかケテルの評議会は、捕まえた一味について誰も処刑しない旨の通知を各所に伝達した。ルーグ、お前もガトリン一家の一味だ。冒険者ギルドは評議会との関係性を鑑み、特例として、今回のお前の行為を不問に付すことを決定した」
「待って! ガトリン一家が解体? 評議会って? 不問、だなんて……?」
ルーグは混乱したように両手で頭を抱えた。イヌカはマスターに問う。
「それは、マスターの判断ですか?」
マスターはイヌカに顔を向け、軽く首を横に振った。
「ギルドの総意だ。……幹部連中は、お前さんに絆されたのさ」
マスターの言葉に、ようやく確信が持てたのだろう、イヌカが大きく安どのため息を吐いた。剣士とセシリアもホッとした表情を浮かべる。トラックがプァンとクラクションを鳴らした。
「しらじらしいこと言いやがる。全部お前のお膳立てだろう?」
マスターはトラックに苦笑いを向けた。トラックがそらっとぼけたようなクラクションを返す。ええっと、つまりどういうことかと言うと。
まず前提として、イヌカが冒険者ギルドの幹部たちにひたすら頭を下げ続け、ルーグを擁護したことによって、幹部たちの心情はルーグに同情的になっていた。だが同情でギルドの掟を歪めることはできない。幹部たちは内心でルーグを助けたい、あるいは命を取らなくてもいい、と思いつつ、掟を守るためにその想いを押し殺していた。
そこにケテルの評議会から、『ガトリン一家の一味は処刑しない』という通達が来た。冒険者ギルドはケテルの評議会と直接上下関係のない別組織なので、本来はギルドの掟を破った者をギルドのルールで裁くことに何の問題も無いのだが、そこで浮上するのが政治的な問題だ。評議会が助命すると言った相手を冒険者ギルドが、別の理由であれ処刑したとなれば、評議会の決定をギルドが蔑ろにした、ということにならないか。あるいはそう評議会に受け取られないか。冒険者ギルドは現在、評議会とは良好な関係を維持している。ルーグの処刑はその関係に一石を投じることにならないか、そういう疑念が生じた。あるいは疑念が生じる余地ができた、と言ってもいい。
もちろん、評議会がマフィアひとりひとりの状態を監視しているはずはなく、ルーグをギルドが処刑したとしても評議会との関係に問題は発生しないかもしれない、というか発生しない可能性の方が高い。ボスやヘルワーズならともかく、ルーグはただの構成員に過ぎない。その生き死にに評議会が関心を寄せることはほぼあり得ないと言っていい。だがその疑義は、冒険者ギルドの幹部たちに一つの言い訳を与えるには充分だった。「評議会との関係を損なう危険を冒してまで、ルーグの処刑にこだわるべきではない。これはもはや身内だけの話ではないのだ」
つまりトラックは、ガトリン一家全員の助命を評議会に宣言させ、冒険者ギルドへの外圧とすることで、殺したくないと思っている人たちに殺さなくていい理由を提示し、その判断を誘導したのだ。……ほんとか? 自分で言っててなんだけど、トラックほんとにそんな複雑なこと考えてたの? 偶然じゃない?
「見習いとして、お前は充分な能力を示したとギルドは認定する。この翼剣紋のペンダントを受け取れば、お前は晴れて正式なギルドメンバーだ」
「待って、ください。おれは……」
ルーグは痛みに耐えるように顔を歪ませた。ルーグにとって、ギルドの掟や評議会の決定など関係がないのだ。ルーグは自分自身を許せずにいる。マスターは少し表情を緩めると、諭すように呼び掛けた。
「なぁ、ルーグ。どうして今、ここにお前さんがいるのか、ちっと考えてみてくれや」
言葉の意味がよく分からない、とルーグは顔に疑問符を浮かべた。マスターは穏やかに話を続ける。
「ギルドの掟は裏切りを許さない。本来ならそれが分かった時点で、お前さんはあの世行きなんだぜ? なのにどうしてお前さんは、今ここに立っている?」
「それは、だから……」
何か言おうとしたルーグの声をかき消すように、マスターは声を重ねた。
「イヌカはずっと、お前さんを助けるようギルドの幹部連中に掛け合っていた。掟からすりゃ明らかに無理な要求だ。それでもこいつは頭を下げ続けた。それはなぜだ?」
ルーグがイヌカを振り返る。イヌカはバツが悪そうに目を逸らせた。
「トラック達はガトリン一家のアジトに乗り込んで、壊滅させちまったぞ。まともな奴ならそんなこと考え付きもしねぇし、そもそもできねぇ。でもこいつらはそれをやった。どうしてだと思う?」
ルーグはトラック達を振り向く。剣士がポリポリと頭を掻き、セシリアは安心させるように微笑みを返した。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。
「お前は、望まれているんだ、ルーグ」
とても信じられない、という顔をして、ルーグは呆然とマスターの顔を見つめた。生きることを、幸せになることを望まれる。望んでくれる人がいる。それはルーグの今まで生きてきた時間の中に存在していなかったものだ。少なくともルーグはそう思っていた。マスターは少し厳しい瞳でルーグを射抜いた。
「死者に世界は変えられん。お前が傷付けた以上のものを守れ。お前が壊した以上のものを救え。冒険者はそれができる仕事だ」
ルーグはどこかおぼつかない足取りで、ためらいながら、一歩、マスターの方に踏み出した。そして何か神聖なものに触れるように、おそるおそる、マスターの掲げる短剣に手を伸ばす。マスターは厳かに、部屋全体に響くよく通る声で告げた。
「受け取れ、ルーグ。新たな勇者の誕生を、俺たちは歓迎する」
マスターが手を離し、ルーグは両手で捧げ持つように短剣を受け取った。思ったより重かったのだろう、両手が少し下がり、ルーグは慌てて腕に力を込めた。柄にぶら下がった翼剣紋のペンダントが揺れる。呆然と見開かれたルーグの瞳から、涙がひとつぶ、こぼれ落ちた。
「……ありがと…ござい……ます……あり…とう、ございます……!!」
ルーグは短剣の、そして翼剣紋の重みを、ぎゅっと胸に抱きしめて、深々と頭を下げた。両目からこぼれる涙が床にぽたぽたと落ちていく。何度も、何度も「ありがとうございます」と繰り返すルーグを、大人たちは優しく見守っていた。
翌日、トラック達はマスターの執務室に呼ばれ、こう相談を受けました。
「ルーグにあげたあの短剣、結構高価なものだったんだが、あげたって言ったら妻が激怒してな。なんとか返してもらえねぇかな?」




