子供
ヘルワーズは法玉を握る手にグッと力を込めた。黒い法玉が徐々に赤みを帯び、かすかに光を放ち始める。トラックは急いでヘルワーズに近付くと、念動力で法玉を取り上げた。ヘルワーズの手が、力尽きたようにだらりと下がる。トラックは念動力で法玉を浮かせたままどうしたらいいか迷っている様子で、意味なく部屋を行ったり来たりしていた。
「どこへ、持って行こうと、逃げられはしない」
ヘルワーズは勝ち誇った笑みを浮かべていた。ボスを逃がし、トラックを葬る。ヘルワーズの目的はすべて達成されようとしているのだ。ヘルワーズにとって自分の命はどうでもいいのだろう。南東街区が変わらないことが彼の望みで、そのためにどうしてもトラックが邪魔なのだ。ヘルワーズはトラックこそが南東街区を変質させる原因だと、強く信じている。
法玉の放つ光はいよいよ強さを増し、まぶしいほどになった。トラックはまだオロオロと右往左往している。部屋全体が吹っ飛ぶ威力だとすると、少なくとも部屋の外に法玉を放らないと発動した魔法に巻き込まれることになるが、外に投げれば全く無関係な近隣住民に被害が及びかねないし、だいいちこの部屋に窓はない。トラックが来たほうの廊下に出せばマフィアの誰かや、最悪トラックを追って来たセシリアたちがちょうど巻き込まれる、という可能性もないではない。それに建物の中で法玉が発動すれば建物自体の崩壊を招くかもしれず、そうなれば建物にいる誰もが危険に晒されかねない。法玉の威力が実際にどの程度なのか分からないが、そもそも誰も犠牲者を出さないように頑張ってきたのだ。ここで結局誰かが死ぬなんて、そんなのは御免だ。
法玉が灼熱の赤に染まり、光は部屋全体を白く染めるほどに強くなった。ヘルワーズが目を閉じる。トラックは意を決したようにエンジン音を鳴らすと、右のウイングを跳ね上げ、法玉を荷台に放り込み、すばやくウィングを閉じた。もしかしてアルミバンで爆発の威力を封じ込めるつもりか!? いやいやいや、無理だって! そういう用途に使うもんじゃないって!
――ボンッ!
くぐもった音と共に、アルミバンが爆発の圧力を内側に受けて、風船のように外側に膨らむ。だが――それだけだった。歪んでできた隙間から煙が噴き出す。アルミバンは法玉の爆発を、その内に抑え込んだのだ。
お、おおおおーーーーーぅ。抑え込んじゃったよ、爆発を。どう考えても無理があるけど、できちゃったものは仕方がない。おそらくこう、トラックも経験を積んで強くなっていたりするのだ。防御力的な何かが。
ヘルワーズが唖然とした表情を浮かべてトラックを見つめる。役割を果たしたことに満足するように、アルミバンの左右のウィングが外れ、大きな音を立てて床に落ちた。フロントガラスは割れ、バンパーも脱落し、左右のウィングも取れた。満身創痍と言うにふさわしい姿で、トラックはヘルワーズを見つめ返すように佇んでいた。
「化け、もの、め……!」
ヘルワーズの瞳に、再び激しい憎しみが灯る。その憎しみは、もう動かないはずの彼の身体を突き動かしたようだった。ヘルワーズはぎこちない動きで、壁に寄り掛かりながらゆっくりと立ち上がる。そして足を引きずりながら一歩ずつ近付き、前進を阻むようにトラックに身体を預けた。
「『アイツを頼む』と……」
トラックに寄り掛からなければ、立っていることもままならないのだろう。ヘルワーズはボロボロの身体で、ただ目だけをギラギラと滾らせて、
「オヤジが、俺に、言ったんだ――!!」
叩きつけるように叫んだ。トラックは無言でその言葉を聞いている。痛ましげな表情の手加減がヘルワーズの背後に回り、その首筋に手刀を入れた。ヘルワーズは気を失い、床に崩れ落ちる。手加減はふわりとその身体を受け止めた。
戦いが、ようやく終わった。
「トラック!」
開け放たれた扉から、剣士とセシリアが飛び込んできた。かなり急いだのだろう、息を乱してはいるが、ケガをしている様子はない。二人の汚れのない服は、剣士たちの戦いが誰の命も失われることなく終わったことを示唆していた。よかった。あのマフィアの男たちが死んだりしていたら、なんか嫌だった。
二人はトラックを見るなり、言葉を失って足を止めた。こんなズタボロのトラックの姿を見るのは初めてなのだろう。一瞬の躊躇の後、セシリアは名を呼びながらトラックに駆け寄った。トラックがプァンとクラクションを鳴らす。
「え? しかし……」
セシリアは戸惑いながらトラックを見上げる。トラックは再びクラクションを返した。セシリアはあまり納得のいかない顔でうつむき、絞り出すようにトラックに答えた。
「……あなたが、望むなら」
セシリアは床に横たわるヘルワーズの傍らに膝を突き、両手をかざした。その瞳が翠に輝き、手のひらから光があふれる。光はヘルワーズを包み込み、光が晴れた後、ヘルワーズの身体に浮き上がっていたあざはきれいに消えていた。苦しそうだった呼吸も穏やかになり、ヘルワーズは静かに眠っている。トラックの労わるようなクラクションに、セシリアは小さく首を振った。
「あなたは、ばかです」
セシリアは立ち上がり、トラックのキャビンにそっと手を当てる。セシリアの手から白い光がトラックに流れ込んでいった。
「……ご自分ばかり、傷付いて」
光はトラックを構成する部品へと形を変え、みるみるうちにその傷を補完していく。やがてトラックはどこが壊れていたのかもわからないほど完璧に、新車同然の姿になった。セシリアはトラックから手を離すと、自らの目尻をさりげなく拭った。
トラックは二人にプァンとクラクションを鳴らす。剣士が渋面でトラックに答えた。
「逃げられたなら追いかけるしかないだろう。ボスを捕まえなければ万事解決とはいかないだろうからな」
「痕跡を追うことはできるはずです。行きましょう。決着を、付けなければ」
二人の言葉を肯定するように、トラックはぶぉんとエンジン音を立てると、奥へと続く扉へと進んだ。念動力で扉を開けると、そこには先の見通せない暗闇が横たわっている。トラックがヘッドライトで奥を照らした。闇が払われ、長い長い廊下が現れる。この先にボスの部屋があるのだろう。そこに主の姿はなくても、まずはそこに辿り着かなければ始まらない。
トラックが廊下に車体を進める。剣士とセシリアが硬い表情で後に続いた。
――ギィーーー
軋んだ音を立てて扉が開く。その部屋の中は、やはり真っ暗だった。長い廊下を進んだ先にある小さな部屋。意外なほどに質素なその部屋が、ボスの私室のようだ。
「ヘ、ヘルワー、ズ……?」
おそるおそる、といった様子で部屋の中から呼びかけの声が上がる。その声は場違いに幼さを伴って部屋に広がった。トラックが部屋の中を照らす。照らされた部屋の真ん中に、一人の青年の姿が浮かび上がった。
くっ、とやりきれなさを呻いて、青年の両脇にいた二人の男――おそらく青年の護衛だろう男たちが、抜剣しつつトラック達に襲い掛かる。しかし二人は剣士とセシリアに、あっという間に制圧されてしまった。剣を弾かれ、床に転がされた二人は、「ヘルワーズ、すまん」とつぶやき、奥歯を噛んだ。
護衛の二人を眠らせたセシリアが蛍火のような小さな灯りを宙に浮かべる。部屋の中央には高級そうな机が置かれ、揃いの椅子の上に窮屈そうに身を丸めて乗っている青年が、怯えた目をしてトラック達を見ていた。年齢はセシリアよりも少し上、十八歳くらいだろうか。しかし親指の爪を噛んで神経質そうに身体を震わせるその姿は、実際の年齢よりもずいぶん幼い印象を与えていた。
「な、なんだ、お前ら! ヘ、ヘルワーズはどうした!」
裏返った声が青年の動揺を伝える。剣士とセシリアは戸惑ったように互いの顔を見合わせた。この青年がボス、ということだろうか? ボスだとしたらなぜ逃げずにこんなところにいるのかわからないが、ボスでないとしたらそもそもこの青年がここにいる理由がわからない。身代わり、あるいは影武者? でもそれならもっと『らしい』反応をする気がするけど。
「こ、答えろ! ヘルワーズは、ど、どうした!」
怯えて牙を剥く仔猫のように、青年はトラック達をにらみつける。剣士は静かに青年の問いに答えた。
「向こうで寝てるよ。当分は目を覚まさないだろう」
「う、ウソだっ!」
青年は剣士の言葉を遮るように殊更に大きな声で言った。騙されるものかと、目を見開いて身を乗り出す。青年の乗った椅子がギシっと悲鳴を上げた。
「ヘルワーズが、ま、負けるはず、ないんだ! ヘルワーズは、すごいんだぞ! ヘルワーズはいつも、僕を、た、助けてくれるんだぞ! お前らなんかに、負けるはず、ないんだ!」
駄々をこねるように首を振り、青年は懸命に主張している。それはまるで正義のヒーローを信じる幼子のようだった。この青年にとって、ヘルワーズは間違いなくヒーローなのだ。
ヘルワーズは『アイツを頼むと言われた』のだと言った。その『アイツ』というのがこの青年なのだろう。ヘルワーズの『人間やめても譲れないモノ』とはこの青年であり、そして彼に青年を『頼む』と言った『オヤジ』との約束なのだ。そしてヘルワーズがそうまでして守ろうとするこの青年こそが、ボスに違いなかった。青年は逃げなかったのだ。ヘルワーズを置いて逃げられなかった。ヘルワーズは勝つと信じて、ここに留まっていたのだ。灯りを消して、震えながら。
苦いものを噛むような顔をして、剣士が青年に近付く。青年は「ひっ」と息を飲んだ。
「く、来るなっ! 来るなぁっ!!」
青年は腕で顔を隠し、身を縮める。剣士は無言のまま青年の傍らに立ち、その腕を掴もうと手を伸ばした。青年は言葉にもならない叫び声を上げながら、無茶苦茶に手を振り回す。そして――
「たすけて、ヘルワーズ!!」
剣士から逃れるように身をのけぞらせた拍子に、青年の乗っていた椅子がぐらりと傾いた。剣士が支える間もなく椅子は床に倒れ、派手な音を立てる。青年の身体は投げ出された勢いで床を滑った。頭でも打ったのか、青年は倒れたまま起きようとしなかった。
慌ててセシリアが青年に駆け寄る。息があることを確認して、セシリアはほっと息を吐いた。横たわる青年の頬は、涙に濡れていた。
「……こんな、子供が……」
立ったまま青年を見下ろし、剣士がつぶやく。こんな子供が、ガトリン一家のボスとして獣人売買や詐欺、人身売買を主導していたのだろうか? それとも、ヘルワーズがすべてを仕切っていたのだろうか? 今は、その内実を知る術はない。今、俺たちにわかるのは、こんな子供が、多くの人々の人生を振り回すその中心にいたということだけだ。
砂を噛むような虚しさを抱えて、三人は半ば呆然と、気を失った青年の姿を見つめていた。
やがて目を覚ました青年は、少し慌てた様子で言いました。
「僕、ボスじゃないっすよ。牛乳届けに来ただけっすよ」
なぁんだ、そうだったのか、と、四人は和やかに笑い合ったのでした。




