狼憑き
長い長い廊下を、トラックは走っている。壁には等間隔に燭台が灯り、床は豪奢な赤じゅうたんが敷かれている。後方からはかすかに戦いの音が聞こえた。剣士たちが戦っているのだ。
剣士たちの様子も気にはなるが、一度勝ってる相手だし、たぶん大丈夫と信じて俺はトラックを追った。セシリアの言ったように、今、最も貴重なのは時間だろう。ガトリン一家のボスを捕まえることがこの戦いのカギなのだ。ボスを逃がせば南東街区は変わらない。
やがてトラックの前に、やはり木製の両開きの扉が現れた。ガトリン一家を示す刻印が大きく彫られた分厚い扉だ。トラックは扉の前で停車すると、念動力を使って扉を開けた。蝶番が擦れ、嫌な金属音を立てる。
……トラックが、扉を開けた。突っ込んで破壊するんじゃなくて扉を開けた!
ちょっとこれ革命的な出来事ですよ!? 今までそんなこと一度もしたことなかったからね? 基本突撃して壁ごとぶち抜いてたからね? セシリアがいたからすぐに修復してもらえてたけど、扉を開けるって概念を知らなかったレベルで破壊してたからね? やっと、やっとお前もそういうことができるようになったんだな。俺、うれしいよ。ちょっと涙出てきた。
トラックは慎重に部屋の中に進む。部屋の壁にも幾つもの燭台が並び、中は昼のように明るかった。トラックは部屋の主に短くクラクションを鳴らす。
「……やはり、思った通りだ。お前が、要だ、トラック」
椅子に座り、一人の男がトラックを見据える。部屋の中は男が座っている椅子の他に何もなかった。戦いの邪魔になるものは予め運び出していたのだろう。男――ヘルワーズは確信に満ちた顔で告げる。
「お前が現れてからだ。この街がおかしくなり始めたのは。お前が現れる以前には、誰も南東街区のことなんざ気にもしなかった。誰が死んでも誰が殺されても、この街はそういう場所だってな」
ヘルワーズの表情に強い憎しみが滲む。彼は吐き捨てるように言葉を放った。
「ムカつくぜスーパーヒーロー。お前の目に留まった者だけが救われるのか? 俺たちゃお前がでしゃばるずっと前から、地べた這いずり回って生きてきたんだよ。殺して、壊して生きてきたんだ! それを今さら、何様だてめぇ! お前が変える未来が正しいなら、俺たちが今まで生きてきた世界は、いったい何だったんだ!」
抑えきれぬ激情をヘルワーズは叫ぶ。トラックがやろうとしているのはヘルワーズの、そして南東街区の過去の否定だ。生きるために他の道を選べなかったヘルワーズたち南東街区の住人の過去を否定する傲慢を、ヘルワーズはなじっている。じゃあどうすればよかったのか、黙って死ねばよかったのかと、そう言っているのだ。
「お前はここで潰す。俺の命に代えてもだ。お前さえいなくなれば、この街は変わらずにいられる。俺たちみたいなドブネズミはな、ゴミ溜め同然のこの場所でしか生きられねぇんだ」
暗く澱んだ瞳でヘルワーズは虚ろにトラックを射抜いた。トラックはその視線を静かに受け止めている。きっとトラックが何を言ってもヘルワーズには届かなくて、届かないことをトラックは知っている。
剣士たちと戦っているはずのマフィアの男たちの気持ちが、少しわかる気がする。彼らはヘルワーズを独りにしないために戦うのだと言ったが、それはヘルワーズという男が見た目よりもずっと繊細で、危ういと分かっていたからだろう。ヘルワーズはルーグによく似ている。そしてこの男はきっと、『トラック達に出会うことができなかったルーグ』だ。彼もまた自らが他者を犠牲にして生きることに傷付き、傷付き果てて、もう悲しみも苦しみも感じることができぬほどに擦り切れてしまっている。だからこそ怖れるのだ。南東街区が正されることを。他者を踏みつけて生きる、その南東街区の正義が失われれば、自らの過去が彼を苛む。その犠牲を「仕方がなかった」と言い張る根拠が消える。償いきれぬ罪を自覚することを、ヘルワーズは怖れている。
「狼憑きを知ってるか?」
ヘルワーズは立ち上がり、懐から褐色の小瓶を取り出した。瓶の中で何かの液体がゆらゆらと灯りを反射する。ヘルワーズはふたを開けて中身を一気に飲み干すと、小瓶を投げ捨てて口元を拭った。ガチャンと音を立てて小瓶が割れ、床に散らばる。
「痛みも疲れも感じず、狂ったように戦い続ける奴をそう呼ぶ。昔は魔法か呪いか、なんて言われてたが、何のことはない、そういう薬があるってだけだ」
ヘルワーズの目が充血し、瞳孔が収縮する。髪の毛は逆立ち、呼吸は徐々に荒くなった。
「……人間やめても、譲れねぇモンがある。てめぇはここで終わりだ、トラック!」
めきめきと音を立てて、ヘルワーズの筋肉が大きく盛り上がる。元々高い身長が一回り、いや二回りは大きくなった。爪が鋭く伸び、尖った犬歯が口元に覗く。そして、もはや人の言葉と思えぬ咆哮を上げ――
戦いが、始まった。
床を蹴り、ヘルワーズはすさまじい速さでトラックに襲い掛かった。蹴った床が深く抉れる。トラックはアクセルを踏み込み、ヘルワーズを迎撃した。両者が交錯し――
――ギャリギャリギャリッッッ!!!
トラックの体当たりをヘルワーズは受け止めていた。ヘルワーズの両足が一メートルほど床を削り、そして止まる。トラックのバンパーをがっちりと掴み、ヘルワーズはフロントガラスに強烈な頭突きをかました! フロントガラスは粉々に砕けて散らばる。ヘルワーズの額から血が滴る。しかしヘルワーズは痛みなど感じていないように笑った。
距離を取ろうとトラックはギアをバックに入れる。しかし後退するよりも早くバンパーを掴むヘルワーズの腕がさらに大きく盛り上がり、そしてヘルワーズは両手を思いっきり上に振り上げてトラックを投げ飛ばした! 車体が縦方向に回転し、トラックは天井部分から床に叩きつけられる。トラックのキャビンがゆがみ、助手席の窓が砕け散った。
ヘルワーズは興奮のままに胸を反らし、天井に向かって吠えた。もう理性は完全に消し飛んでいるようだ。トラックのパッシブスキル【七転び八起き】が発動し、ひっくり返った車体が立て直される。
……ま、まさかトラックが異世界に来て最初に覚えたスキルがこんなところで役に立つとは。今ここでこのスキルがなければ、トラックは倒れたままヘルワーズに一方的にやられていただろう。運命とは本当に分からないものだ。
体勢を整えたトラックは、今度は自分からヘルワーズに向けてアクセルを踏んだ。エンジン音が響き、トラックが加速する。ヘルワーズは再びトラックを受け止めるべく身体に力を込めた。両者がまたも激突する、と、思いきや、トラックはヘルワーズにぶつかる直前に急ハンドルを切ってブレーキをかける! トラックの車体が右前輪を軸に弧を描き、ヘルワーズを横殴りに吹き飛ばした!
――バンっ!!
トラックの回し蹴りを全く予想していなかったのだろう、ヘルワーズはまったく防御姿勢を取ることもなくアルミバンに直撃され、壁に激突した。板張りの壁に派手な音を立てて大穴が空き、ヘルワーズの身体は壁に突き刺さった。天井からパラパラと埃が舞い、手加減が険しい顔でトラックを見つめる。手加減は無言で問うているのだ。手加減をして勝てるのか、と。
ヘルワーズはのそりと穴から身を起こし、何の痛みもないかのように、歯をむき出しにして笑った。
どれほど動き回ろうと、どんなにトラックの攻撃を受けようと、ヘルワーズは疲れも痛みも感じていないようだった。パワーならトラックと互角かそれ以上、そして疲労で衰えることもないヘルワーズは、その爪でトラックを穿ち、その牙で車体を抉る。ヘルワーズはトラックに手加減などしてくれない。それでもトラックは手加減を止めようとはしなかった。
サイドミラーが吹き飛び、助手席のドアが外れ、バンパーが脱落しても、トラックは手加減を続ける。それはトラックの矜持であり、ルーグの心を救うために必要なことであり、そして南東街区を変える意思を示すことでもあったろう。気に入らなければ殺すと言うなら、それはこの街の今までのルールと何も変わらないのだ。
ヘルワーズは容赦なくトラックに攻撃を叩きこむ。必ず手加減をしてくれるトラックの攻撃を、ヘルワーズはもはや避けようともしない。見るも無残な姿を晒しながら、トラックは戦っていた。そして――
――終わりは、唐突に訪れた。
トラックの体当たりを受けて、ヘルワーズが後方に吹き飛ぶ。手加減が歯を食いしばってヘルワーズをダメージから守った。床を転がったヘルワーズは素早く起き上がり、再びトラックに飛び掛かろうと膝を曲げ――、そのままガクン、と膝をついた。何が起こったか分からない、というように、ヘルワーズは自分の膝を見つめる。するとうつむいたヘルワーズの口から、赤黒い血がこぼれた。狼憑きの力がもたらす負荷が、肉体の限界を超えたのだ。
逆立っていた髪が下がり、狂気に染まっていた瞳に理性が戻る。はちきれそうに膨れ上がっていた筋肉はしぼみ、体中に内出血の痕が浮かんだ。身体から力が抜け、ヘルワーズはその場に座り込む。もはや腕を持ち上げる力も無いのか、両腕がだらんと下がった。人の領分を超える力の代償が、牙を剥いたということだろう。
「……ちくしょう、ちくしょうっ!!」
言うことを聞かぬ自らの身体をなじるように、ヘルワーズは叫ぶ。トラックは静かにヘルワーズに近付き、クラクションを鳴らした。激しい憎しみを湛え、ヘルワーズがトラックをにらむ。だが次の瞬間には、ヘルワーズの顔には侮蔑の笑みが浮かんだ。
「……ボスは、もう、とっくに逃げてる。お前が、俺と、戦っている間に」
ボスさえ健在ならガトリン一家は終わらない、かすれた笑い声と共にそう言って、ヘルワーズは床に倒れ込むと、這うようにしてゆっくりと壁際に身体を寄せた。激痛に顔をゆがめながら半身を起こし、ヘルワーズは壁に背を預けると右の拳で壁を強く叩く。壁板がカタリと外れ、ニ十センチ四方の窪みが姿を現した。ヘルワーズは窪みに手を入れ、中から何かを取り出した。それは手のひらほどの大きさの、黒い玉だった。
「……こいつは、法玉と、いってな。呪銃の弾と、同じ、あらかじめ、魔法を込めた、玉だ。だが、呪銃とは比較にならん、強力な、魔法を、込めることが、できる」
息をするのも辛そうに、ヘルワーズは途切れ途切れに言った。ただ目だけが強く、ある種の信念をもってトラックを見据えている。
「こいつに、込められた、魔法は、『死爆呪』。この部屋丸ごと、吹っ飛ぶ、威力がある」
ヘルワーズの言葉に、トラックは慌てたようなクラクションを鳴らした。くっくっくと喉の奥で笑い、
「お前は、俺と、心中だ、トラック」
ヘルワーズは右手の法玉を掲げた。
ヘルワーズはトラックに叫びます。
「見るがいい! この、のりたまの威力を!」




