ウォルラス邸
ウォルラス邸は、ケテルの高級住宅街である北部街区の中の周縁部にある。北部街区の中心部は大金持ちの邸宅が密集する場所で、住んでいる場所が北部街区の中心に近ければ近いほど、ケテルの有力者であることを示している、らしい。あ、ウォルラス邸っていうのはセイウチ夫人の家のことね。つまり、セイウチ夫人の家は北部街区に家を持てるほどには金持ちだけど、それほど有力者というわけでもない、ということだ。ウォルラス邸は、周囲に家々に比べると広い敷地を持っているが、建物は古く、よく見るとあちこちにガタが来ているのが分かる。昔は羽振りが良かったんだけどねぇ、と近所の噂好きに言われていそうなたたずまいだ。
トラック達は今、ウォルラス邸の玄関の前にいた。
セイウチ夫人が帰った後、トラック達はしばらくの間ぐったりと動けなくなっていたが、昼を少し回ったところでようやく気力が回復したらしい。軽く食事を済ませ、セイウチ夫人の住む北部街区へと向けて出発した。さすがに毛色と名前と首輪の情報だけでは辛い。もう少し情報が欲しいが、セイウチ夫人にもう一度話を聞くのは絶対に嫌だ。そんなわけで、三人はセイウチ夫人の家の使用人に話を聞くことにしたのだ。セイウチ夫人が自ら猫の世話をしていたとは思えないから、たぶん猫の世話をしていた使用人がいるはずだ。その人に会えば、もう少しマシな情報が手に入るだろう。
北部街区への道すがら、
「イーリィさんの受け売りですが」
そう前置きして、セシリアはケテルの町に関する情報をトラックに語った。ケテルはこの国、クリフォトと呼ばれる王国の北部に位置する自治都市なのだそうだ。クリフォトがほんの五年前にできた新しい国なのに対し、ケテルは百年の歴史を誇る古い町なのだとか。十人の有力者からなる、『評議会』と呼ばれる会議によってケテルのあらゆることが決められる仕組みで、評議会を構成する有力者、というのは、この町で最も成功した商人のこと。つまりケテルは商人の町、ということだ。
ケテルが自治を守ることができているのも、商人の町であるということも、ケテルの地理的な事情が関係している、らしい。そもそもクリフォト北部は森と山ばかりの、人が生きるには困難な土地だ。農耕に適さない、という意味でもそうだが、深い森や険峻な山々は古来、妖精、妖魔の領域なのだ。しかしケテルの先人たちは、巧みな話術で妖精とも妖魔とも信頼関係を築き、彼らと交易を行うことで自らの町を発展させていった。妖精が作る魔力を帯びた品や、妖魔が鍛えた妖気を放つ武具は高額で取引され、ケテルに莫大な富をもたらし続けている。ケテルはその財力によって、自治を『買っている』のだ。
「今から向かう北部街区はこの町の『夢』の象徴。評議員を中心としたこの町の成功者たちが集まる、高級住宅街です」
トラックが面倒そうにプォンとクラクションを鳴らす。セシリアは苦笑し、少したしなめるように言った。
「ダメですよ。少しは町のことや周辺の事情も知っておかないと。イーリィさんが最初にこの仕事を紹介したのも、この町のことをあなたに理解してもらうためでしょうから」
仕事でなければ、北部街区に足を踏み入れる機会はない。早いうちにこの町の仕組みを肌で感じてもらおう、というのがイーリィの考えらしい。へぇ。適当に仕事を割り振ってるわけじゃないんだなぁ。
トラックが再度クラクションを鳴らす。やはりやる気は感じられない。セシリアは軽くため息を吐いて、フロントガラスから見える街並みに目を遣った。木造の建物が徐々に姿を消し、レンガ造りや石造りの屋敷が視界に入る。道がむき出しの地面から石を敷き詰めたものに変わり、そして、目の前に大きな門が現れた。昼間は基本的に解放されているそうで、門の両脇にはいかにもゴツい門番がにらみを利かせている。
「あの門をくぐった先が北部街区です」
話が通っているのか、門番がトラックを止めることはなかった。トラックはスピードを緩めることなく北部街区に入る。そして、光射さぬアルミバンの中で、剣士は独り、体育座りをしていた。
ウォルラス家を訪ねた三人に対応したのは、二十代半ばくらいの男の使用人だった。がっしりとした体格をした、使用人というよりは用心棒と言ったほうが似合いそうなゴツイ容貌をしている。雰囲気も何となくガラが悪い気がするな。もっとも、それは俺が顔から勝手に受けた印象なんだけども。
ごめんください、というセシリアの声に応えて姿を見せた使用人は、扉に手を掛けたまま、ものすごく面倒そうな顔をして言った。
「あー、新聞? ウチ、川柳が載ってるやつしか取らないから。もう決まっちゃってるから」
「あ、いえ、新聞ではなくて」
そのまま扉を閉めようとする使用人を、セシリアが慌てて呼び止める。使用人は閉じかけた扉を再び開き、一瞬だけ思案気な顔をして、何かに思い当たったように口を開いた。
「牛乳も要らんよ。もう別の業者に届けてもらってるから。一日にそんな何本も飲めないから」
「いえ、牛乳でもなくて」
「えーっと、じゃあ何? 壺? おフダ? 水晶玉? ったく、一度買ったら次から次へと。旦那様はもうそういった類のものはお買いになりません! どうぞお帰りください!」
壺やらおフダやらに苦い過去でもあるのか、使用人は怒りを込めて叫んだ。きっと何度も来たんだな、そういうのが。
「そうじゃなくて!」
話を聞け、と言いたげにセシリアも叫ぶ。埒が明かないと思ったのか、剣士がセシリアを押しのけて口をはさんだ。
「ギルドから来ました。奥様に猫探しのご依頼を頂きまして」
「猫?」
今にも扉を閉めようとしていた使用人の動きが止まる。扉から手を離し、居住まいを正して剣士を見る。
「……奥様が、冒険者ギルドに猫探しを依頼されたのですか?」
「ええ。ですので、できれば猫の世話をしていた方にお話を伺いたいと思いまして」
機嫌を損ねたくないのだろう、剣士が妙にへつらった態度で言った。使用人はさっきまでの態度とはまるで異なり、背筋を伸ばし、急に表情を消して、事務的な口調で剣士に答えた。
「誠に申し訳ございませんが、私には分りかねます」
予想していた答えと違ったのか、剣士が当惑の表情を浮かべた。奥様からの依頼に対して、使用人がこれほど露骨に非協力的な態度を示すとは思っていなかったのだろう。剣士は少し身を乗り出して、再度、使用人に尋ねた。
「猫の世話をしていた方はいらっしゃいませんか?」
「奥様が猫を飼っていたかどうかも、我々使用人には分りません。奥様のお世話をしておる者は、当家のセバスチャンのみでございますので。ちなみにセバスチャンは不在ですので、また日を改めてお越しください。では」
素っ気なく使用人はそう言うと、剣士が口を開く前に屋敷に引っ込んだ。ばたん、と結構な勢いで扉が閉まり、ご丁寧に鍵まで掛けたのか、ガチャリという音まで聞こえた。
「お、おい! ちょっと!」
剣士が何度ノッカーを叩いても、使用人が玄関を開けることは二度となかった。
「使用人が猫を飼ってたことを知らないって、そんなことあるのか?」
唖然とした様子で剣士が呟く。猫の世話をしていた使用人だから知っている特徴や居場所の見当なんかを期待していたのだろう。完全に当てが外れ、途方に暮れた顔をしている。
「……地道に探して歩くしかないようですね」
想像するだけで気が滅入る徒労感を吐き出すように、セシリアはそう呟いた。
その後、彼らは当てもなく猫を探し続け、そして十年の月日が流れました。