王者
早朝の澄んだ空気の中、冬の朝日が南東街区に降り注いでいる。日の出と共に南東街区は眠りにつき、穏やかな日差しを喜ぶ者は誰も見当たらない。清々しい朝は南東街区に似合う風景ではない、ということだろうか。セシリアの吐いた息が白く煙った。
トラック達はある男を捜して南東街区を回り、そしてほどなくこの場所――放置されて久しい廃教会の前にいた。神の慈悲を待っていては野垂れ死ぬこの場所で、祈りを捧げる者は一人も現れなかったのだろう。風雨にさらされ、どこか寂しげに佇んでいる。しかし忘れ去られたこの廃教会は今、新しい主を迎えていた。良くも悪くも目立つ男だ。居場所はすぐに分かった。
「失礼します」
中にそう声を掛けて、セシリアは扉を開ける。キィ、と耳障りな音を立てて扉がおっくうそうに開いた。この建物が造られた当時はきっと、教会関係者の熱意は本物だったのだろう。両開きの扉はトラックも通れるほど大きく、中の礼拝堂は何十人でも入れるほど広かった。セシリアに続いてトラックも中に入る。元々は椅子や説教壇や祭具があったのだろうが、今は新たな主によって全て取り払われ、ただ何もない広い空間になっていた。
――シッ
鋭い呼吸音を立てて、部屋の中央にいる男が虚空に拳を繰り出してる。いわゆるシャドウボクシング、という奴だろう。男から少し離れた場所にはもう一人別の男がいて、そちらは小さな砂時計をじっと見つめている。さしずめボクサーとトレーナーと言ったところか。二人が強い信頼関係で結ばれていることは一目見ただけですぐに分かった。なぜなら二人はどちらも、見事なアフロヘアーだったからだ。セシリアは扉から少し前に進み出ると、シャドウをしている男に向かって言った。
「突然押しかけて申し訳ありません」
セシリアの言葉に、シャドウをする男も砂時計を見ている男も、まったく反応しない。男が拳を振るたびに、男の汗が大気に散った。完全に無視されたかっこうだが、セシリアはひるまず再度声を掛けた。
「不躾ながら、今日はあなたにお願いがあって参りました。どうか――」
「残り一分!」
セシリアの言葉を遮り、砂時計を見ていた男が叫んだ。男は砂時計をひっくり返し、再び沈黙する。どうやらその砂時計は一分計のようだ。セシリアは軽く息を吸うと、声のボリュームを上げた。
「どうか、私たちの話を聞いてください。お願いします」
聞こえていない、ということはないはずだが、男たちはまるで聞こえていないかのように行動を継続している。無反応にたまりかねたか、セシリアがシャドウをする男の名を呼んだ。
「ノブロさん!」
「終了! 一分休憩!」
砂時計を見ていた男――アフロが声を上げ、ノブロは近くに置いてあった丸椅子にぐったりと座り込んだ。首に掛けていたタオルで汗をぬぐい、荒ぶる息をなだめる。以前に比べて体つきはシャープになり、その瞳は鋭さが増していた。
「ノブロさん。私たちは――」
「アフロを背負っちまったからにはよ」
ノブロの静かな声に、セシリアは言いかけた言葉を止めた。ノブロは前かがみになって両肘を膝に乗せ、床を見つめたまま言葉を続ける。
「進むべき道は三つしかねぇ。音楽家か、芸術家か、王者かだ」
ノブロは淡々と話しているが、その言葉には奇妙な迫真性がある。セシリアは黙って耳を傾けることにしたようだ。
「オレぁアタマ悪ぃからよ、楽譜なんて読めねぇし、ゲージツってのもサッパリだ。だからオレに残ってるのは王者の道しかねぇのよ」
ノブロは顔を上げ、セシリアを鋭く見据える。
「ハンパにアフロう気はねぇんだ。テッペン以外に興味はねぇ。帰ってくれ。何がしたいのか知らねぇが、オレにゃ関係ねぇ話だ」
今のノブロに『狂犬』と呼ばれていた頃の面影はない。彼は変わったのだ。ボクシングと出会って。かつて野生の獣のように手当たり次第に周囲に牙を剥いていたこの男は、今は鍛え上げられた日本刀のような、強さと芸術性を備えつつある。それはアスリートとして自らの道に真剣に向き合う者だけが持つ美しさだった。
セシリアは臆することなくノブロの目を見つめ返している。ノブロのボクシングに対する情熱は本物だろう。しかしこちらにだって譲れないものがある。セシリアはゆっくりと口を開いた。
「王者とは、何でしょう?」
「ああ?」
ノブロは怪訝そうに眉をひそめる。
「一番強ぇヤツに決まってんだろ」
「そうでしょうか?」
セシリアが挑発するように疑問を返す。ノブロは苛立ちを顔に浮かべた。
「弱ぇヤツをチャンピオンとは言わねぇ!」
「もちろんそうです。ですが、ただ強ければいいというわけではない」
言葉の意味を捉えかねたのか、ノブロの頭に疑問符が浮かぶ。セシリアは畳みかけるように語気を強めた。
「強いだけの人間はいくらでもいます。でもチャンピオンと呼ばれる人は少ない。どうしてか分かりますか? それは、チャンピオンは人々の希望だからです」
「……希望?」
興味をそそられたのか、ノブロの表情が少し変わった。セシリアは大きくうなずく。
「立ち向かう姿が勇気を与え、諦めぬ姿が感動を与え、勝利した姿が夢を与える。人々に未来を生きる力を与えることができる。そういう存在をチャンピオンと呼ぶのです。強さはそれらを生み出すための付属的な要素に過ぎない。チャンピオンの本質は、希望です」
セシリアの自信に満ちた物言いに、ノブロは戸惑ったように首を振った。
「オレぁアタマが悪ぃっつったろ。あんたの言ってることはさっぱり分かんねぇ」
「チャンピオンになる道は一つではないということです。私たちはあなたに――」
セシリアは一歩ノブロに近付き、その目をのぞきこんだ。吸い込まれるようにノブロがセシリアの瞳を見つめ返す。
「――南東街区のチャンピオンになっていただきたいと思っています」
「南東街区の、チャンピオン……?」
うわごとのようにノブロはセシリアの言葉を繰り返した。セシリアは視線を逸らさぬまま「はい」と答えた。
「南東街区の人々に希望を与えてください。人々を怯えて眠る夜から救ってください。明日を迎える瞬間を喜びに変えてください。あなたならできる。そしてあなたがそれを成し遂げた時、人々はあなたをこう呼ぶでしょう」
セシリアは一度言葉を切ると、一片の曇りもない表情で力強く言った。
「チャンピオン、と」
ノブロは畏怖すら感じている表情で、セシリアから目を逸らせぬまま、呆然とつぶやいた。
「……まったく、意味が分からねぇ」
うん。ノブロ。お前は間違っていない。なんかそれっぽいこと言ってるふうだけど、俺もセシリアが何言ってるか全然分からないからね。セシリアはふっと小さく笑みを浮かべると、ゆっくりと視線を逸らせた。
――プァン
今まで黙っていたトラックが助け舟のようにクラクションを鳴らす。ノブロは険しい表情をトラックに向けた。
「ああ? 何言ってやがる。できるわけねぇだろバカか」
「いいえ」
ややむっとしてセシリアがノブロに言い返す。セシリアさんは意外と立ち直りが早い。
「私たちは今日、ガトリン一家を解体します。これは決意ではなく、確定した未来です」
当然のこと、と真顔のセシリアに続いてトラックは再びクラクションで呼びかける。ノブロはトラックの言葉を吟味するように、うつむき、目を閉じた。
「オレに、この街を仕切れってか?」
トラックがプァンと肯定のクラクションを返し、セシリアはうなずいて意を示した。ノブロは目を開けると、何か言おうと口を開き、そして小さく首を振った。
「……思えば、ただの野良犬だったオレが変わったのは、テメェに負けたからだったな」
ノブロは立ち上がり、そしてグローブをトラックに放り投げた。ぽふっと気の抜けた音を立ててグローブがトラックのフロントガラスに当たり、地面に落ちる。
「難しいことは分からねぇ。できるできないにも興味はねぇ。だからよ」
ノブロはトラックをまっすぐに見据えた。挑むように、試すように。
「オレと戦え。勝ったヤツが負けたヤツの言うことを聞く、そういうんが分かりやすくていいだろ。オレらみてぇなのにはよ」
セシリアが難色を示し、何か言おうと口を開きかけたところで、トラックがプァンとクラクションを鳴らした。了承した、ということだろう。ノブロがニカッと笑った。セシリアはトラックを振り返ると、自らを納得させるようにうなずき、そして戦いの邪魔にならぬよう壁際まで退いた。ノブロとトラックはどちらからともなく部屋の中央に移動し、対峙した。
「リベンジマッチだ。前のオレと同じだと思うなよ」
不敵な笑みを浮かべ、ノブロが拳を突き出す。自分自身の研鑽を、費やした時間を、信じている笑みだ。それはただの喧嘩屋だったノブロが手に入れた『成長』の証だった。今までずっと所在無げに砂時計をひっくり返し続けていたアフロがふたりの間に立ち、戦いの始まりを告げる。
「六十分一本勝負! レディ、ファイト!」
……ああ、ボクシングルールじゃないのか。まあ相手トラックだしね。グローブ使えないもんね。
「いっくぜぇ!」
戦いの高揚を全身で表し、ノブロはトラックに襲い掛かった!
オーソドックススタイル、腕を小さく畳んで構えたショートレンジの殴り合い上等ファイタータイプ、といった風情で、ノブロはトラックとの距離を一気に詰める。離れて様子見、などという気はサラサラないらしい。トラックもまたアクセルを踏み込み、ノブロを迎撃せんと加速する。前はこのままトラックの体当たりが炸裂して吹き飛び、電流の走る柵に触れて、ノブくんという青年はアフロの運命を背負ってノブロへと変貌を遂げたわけだが――
「甘ぇ!」
ノブロはトラックと衝突する直前に方向を変え、トラックの突撃をかわして横に回り込んだ! ベタ足の不器用なファイターじゃない! トラックが慌ててブレーキを踏む。キキィーーーっ! という甲高い音が響き、廃教会の床にタイヤ痕を刻んだ。ノブロは側面からトラックに、抉り込むようなボディブローを放つ!
――グォンッ
鈍い金属音が周囲に広がる。トラックのアルミバンがこぶし大にへこみを作った。
「正面からじゃてめぇにゃ勝てねぇ。学んでんだよ、勝つためになぁ!」
確かな手ごたえを感じたようにノブロが吠える。勝っても負けても、なんて言葉は真に競技に向き合うアスリートからは出てこない。勝つための努力を積み重ねてきた、その自負が声に滲む。
トラックはバックでノブロの攻撃範囲から逃れると、ノブロを再び正面に捉えた。ノブロが挑発するようにニィっと笑う。
挑発に乗ったのか、それとも敢えてか、トラックがぶおんとエンジン音を鳴らす。ノブロが力を蓄えるように身体を縮ませる。トラックがアクセルを踏み込む! さっきより加速が強い! しかしノブロは再びトラックの突進を横にかわし、アルミバンに拳を刻んだ。勝負を見守るアフロがごくりとつばを飲み、セシリアが祈るように両手を胸の前で組んだ。
トラックはバックして正面から突撃、を愚直に繰り返し、その度に攻撃をかわされ、アルミバンにへこみを作った。動きは完全に見切られている。そもそもトラックが戦うには廃教会は狭く、加速するための距離が短すぎるのだ。痛々しいほどにベッコベコになっているトラックに対して、ノブロはまったくの無傷だった。……いや、素手でアルミバンを殴りまくって無傷ってのも充分おかしいんだけどね。普通なら間違いなく拳がイカれてるはずだけどね。
「そろそろ、終わりにしようや」
ノブロの瞳がギラリと物騒な光を放つ。トラックは答えの代わりにエンジン音を鳴らし、そして何度目かのアクセルを踏んだ。トラックとノブロの距離が縮まる。そしてまた、ノブロがトラックの突進を横に避けようと足に力を込めた、その瞬間――
――キキィィィーーーーッ!!!
トラックが右に急ハンドルを切ると同時に思いっきりブレーキを踏んだ! 勢いを止めきれずトラックの後輪が浮き上がり、ハンドルを切ったことで車体が右前輪を軸に大きく旋回する! 直線的な動きしか考えになかったのだろう、ノブロの動きが一瞬止まり、次への動作がわずかに遅れた。そしてその一瞬が勝負の明暗を分ける。旋回したトラックの車体はノブロを左から打ちすえ、その身体を吹き飛ばした!
「ごはっ!」
ゴロゴロと床を転がり、ちょうど仰向けになったところでノブロは止まった。ふう、と安堵の息を吐き、手加減が額の汗をぬぐう。もう少し転がっていたらノブロは廃教会の壁にぶつかっていただろう。手加減は今日もいい仕事をしている。
ぴろりんっ
おっと、こんな時にもスキルウィンドウ。ああ、今のなんかのスキルだったの?
『スキルゲット!
アクティヴスキル(ノーマル) 【回し蹴り】
効果:足を横から回して敵に蹴りをくらわせる』
……トラックが回し蹴りするとあんなふうになんのか。右前輪が軸足で、ってこと? スキルを覚えさえすればトラックでも『できちゃう』あたりが、スキルというものの節操のなさを表している気がする。本来ありえないからね? トラックとしておかしい動きだからね?
「……単調なストレートを繰り返し、こっちの意識を前に引き付けておいての横方向の攻撃、かよ。全部テメェの掌の上か? ムカつくぜクソ野郎」
仰向けに倒れたまま、ノブロがつぶやく。言葉とは裏腹に、その口調はどこか楽し気な響きがあった。トラックはプァンとノブロに呼びかける。ノブロはクラクションに答えず、目を閉じて口を結んだ。
勝負の終わりを見極めたのか、セシリアがトラックに駆け寄り、ボコボコのアルミバンを魔法で癒した。トラックはじっとノブロの返事を待っているのか、動こうとしない。先ほどの戦いの喧騒とうってかわって、静かな沈黙が廃教会を包んだ。やがてノブロは目を開け、天井の一点を見つめながら言った。
「……あんたはこの街を変えるのか?」
トラックは静かに、しかし力強いクラクションを返す。ノブロはうれしそうに苦笑いを浮かべた。
「迷いがねぇな、あんたは」
ふっと強く息を吐き、ノブロは半身を起こすと、トラックに真剣な眼差しを向けた。
「いいぜ、やってやる。約束だかんな。南東街区のチャンピオンに、なってやろうじゃねぇか」
トラックはプァンと短いクラクションで応える。「こそばいいこと言ってんじゃねぇよ」とつぶやき、ノブロは意地悪な表情を浮かべて言った。
「テメェがしくじったらこの話は無しだぜ。そんときゃ指さして笑ってやるから、せいぜい気張れや」
ふんっと鼻を鳴らすようなクラクションを返し、トラックはノブロに背を向けた。穏やかに微笑むセシリアがトラックの代わりに答える。
「ありえませんわ。トラックさんが望んでいる限り」
セシリアはノブロに頭を下げると、トラックを追って廃教会を後にした。ぽかんとした表情でセシリアの言葉を聞いたノブロは、やがて呆れたように笑うと、身体を後ろに倒して大の字に寝転がり、天井を見つめた。
「この街の未来、ねぇ。……そんなこと気にするヤツぁ、あんたが初めてだ、トラック」
ノブロの階級はスーパーミドル級です。




