憧れ
ニヨベラピキャモケケトスはさっきまでの緩慢な動きが嘘みたいに素早い動きでトラックに正面から襲い掛かる。トラックもまたアクセルを踏み込み、ニヨベラピキャモケケトスに体当たりをくらわした! ニヨベラピキャモケケトスはたまらず吹き飛ぶ――ことなく、トラックの体当たりを受け止めた!
「なにっ!?」
イヌカが驚愕に身を乗り出した。ニヨベラピキャモケケトスの腕、肩、背中、そして足の筋肉がメキメキと盛り上がり、がっちりとトラックの車体を捉える。ギャリギャリと音を立ててトラックのタイヤが空転し、砂埃を舞い上げた。
――シャーーーーッ!!
ニヨベラピキャモケケトスの口から何か粘性を帯びた紫色の液体が吐き出される。ほぼゼロ距離にいては避けようもなく、トラックはまともにその液体を浴びてしまった。液が触れた個所がジュッと煙を上げてボロボロと崩れる。どうやら強い酸か何かのようだ。ルーグは目を見開き、グッと奥歯を噛んで戦いを見守る。
酸の攻撃を嫌ったのか、トラックはギアをバックに入れてアクセルを踏む。ニヨベラピキャモケケトスはトラックから手を離すと、そのまま真っすぐに追うことはせずに右側面に回り込んだ。まさかトラックが前後への対応に比べて左右が苦手だと悟ったのか!? トラックが方向転換するより早く地面を蹴って、ニヨベラピキャモケケトスは矢のような鋭い蹴りを放つ!
「トラック!」
イヌカが思わずといった様子で叫んだ。ルーグが少し身を乗り出す。トラックはウイングを跳ね上げてニヨベラピキャモケケトスの蹴りを打ち払った。
「……ふぅ」
ルーグが自らを落ち着かせるように左手を胸に当てた。
ニヨベラピキャモケケトスはさらに、トラックを中心に円を描くようにトラックの背後に移動する。ミシミシと音を立てて腕の筋肉が膨らみ、指の爪がにゅっと伸びた。ニヨベラピキャモケケトスはトラックとの距離を詰め、背を大きく反らせると、荷台を突き破らんとその両腕を突き出した!
「あっ!」
ルーグが小さく声を上げる。トラックはアクセルを踏み込んで前進し、間一髪のところでニヨベラピキャモケケトスの爪をかわした。イヌカが安どのため息を吐く。
さっきからずっと、ルーグはイヌカと同じタイミングで、同じようなリアクションをしている。それが意味するのは、ルーグとイヌカが同じ側に立って戦いを見ているということだ。ルーグが『裏切り』のときからずっと装ってきた、トラック達を見下し侮るような態度は、もはや破綻している。
ニヨベラピキャモケケトスは驚くべきことにそのパワーにおいて、どうやらトラックを上回っているようだ。そもそも円形の闘技場のようなこの広場はトラックが加速するに充分な距離がなく、体当たりの威力が充分に出せていないのだが、それを差し引いてもその身体能力は怖ろしいものだった。さすが『悪魔』と異名を持つ魔獣だ。だが、どんなに強い魔獣であっても、決してトラックに敵わない点が一つある。それは、疲労、だ。
生物である以上、運動をすれば疲労する。ましてそれが激しい戦いであればなおさらだ。だがトラックが疲労することはなく、ゆえに疲労により能力が低下することもない。当初はトラックの防戦一方だったこの戦いは、時間の経過と共に様相を変えていく。
――ギャオーーーースッ!!!
ニヨベラピキャモケケトスは苛立たしげに、徐々に藍色に染まりつつある空に吠えた。肩で息をしてダラリと両腕を下げ、目だけがギラギラと血走っている。もはや戦いの最初の時のスピードもパワーも、ニヨベラピキャモケケトスには残っていなかった。
トラックはニヨベラピキャモケケトスをその正面に捉える。トラックの車体にもあちこちに酸の腐食や爪痕、打撃によるへこみがあり、とても余裕があるとは言い難い。だがトラックはまだ動ける。そして今重要なのは、『動ける』というまさにそのことだった。
トラックがぶぉんとエンジンを鳴らす。それは終幕を告げる合図だった。ニヨベラピキャモケケトスはトラックをにらみつけている。イヌカが、そしてルーグが緊張に唾を飲んだ。トラックがアクセルを踏み込み、そして、
――ガツッ!
トラックが正面からニヨベラピキャモケケトスにぶつかった! ニヨベラピキャモケケトスは車体を受け止めるべく下肢に力を込める。しかしトラックの突進を押しとどめるだけの力はなく、ニヨベラピキャモケケトスの身体は吹き飛び、派手な音を立ててガレキに突っ込んで動かなくなった。ガレキの中から手加減がゆっくりと身を起こし、健闘を称えるようにそっとニヨベラピキャモケケトスの肩に触れた。
イヌカが「はあぁぁぁーーーーっ」と大きく息を吐く。戦いは、トラックの勝ちだ。トラックは車体をルーグの方に向けた。ルーグは一瞬だけ安堵したような顔を見せると、目を閉じ、そして目を開いたときにはもう、心を覆い隠す仮面の表情に戻っていた。
「ニヨベラピキャモケケトスがやられるなんてね。やっぱりあんたは大した化け物だ」
口元を歪ませ、ルーグは肩をすくませた。
「こっちはもうネタ切れだ。煮るなり焼くなり好きにしなよ」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ルーグはキッとトラックをにらんだ。
「まだそんなこと言ってんのかよ! 呆れるぜ、バカじゃないのか!?」
トラックがゆっくりと前に踏み出しながら、再びクラクションを鳴らし――
「トラック、上だ!!」
イヌカの鋭い声がトラックのクラクションを遮る。あの短時間で回復したのか、それともやられたふりをしていたのか、ニヨベラピキャモケケトスはガレキを振り払って身を起こすと大きく跳躍し、頭上から鋭い爪でトラックを襲う! ルーグが弾かれたように視線をニヨベラピキャモケケトスに向けた。上からの攻撃に対抗する手段はトラックには無い。ルーグに意識を向けていたことで生まれた一瞬の隙を突き、ニヨベラピキャモケケトスはその腕を大きく振り下ろし――
――ガゥンッ!
思いもかけぬ方向から轟音が唸り、ニヨベラピキャモケケトスの身体が弾き飛ばされた! ニヨベラピキャモケケトスは再度ガレキに突っ込み、今度こそ動かなくなった。その身体からはぶすぶすと煙が上がり、焦げた嫌なにおいが周囲に広がる。イヌカが轟音の元――ルーグの持つ呪銃に目を向ける。銃口は放たれた雷撃の名残がバチバチと音を立て、ルーグは自分が何をしたのか分からないというように呆然と、呪銃を持つ自らの手を見つめていた。
「ルーグ、おまえ……」
イヌカのつぶやきにハッと顔を上げ、ルーグはトラック達の顔を見渡す。そして泣きそうに顔をゆがめると、トラック達に背を向けて廃墟の奥へと駆け出した。
「待て、ルーグ!」
イヌカとトラックは、戸惑いながらルーグの背を追った。
「来るなっ!」
ひどく動揺した様子でそう叫ぶと、ルーグは振り返り、追いかけてきたトラックの足元に向けて呪銃の引き金を引いた。落雷のような轟音が鳴り響き、トラックの目の前の地面を穿つ。魔弾は地面を大きく抉り、トラックの前進を遮った。停車したトラックを横目に穴を飛び越えようとしたイヌカにルーグは銃口を向ける。イヌカが動きを止めた。
「来ないで、くれよ……」
弱々しい声でルーグは言った。トラックが歯噛みをするように小さくクラクションを鳴らす。もう少し近付くことができればルーグを念動力で捕まえられるのだ。ルーグとトラック達との間はおおよそ五メートル。この距離では念動力は届かない。ずっとトラックと一緒にいただけのことはあり、ルーグは念動力の射程距離も熟知しているようだ。
「……どうして、来たんだ。来なきゃよかったんだ!」
揺れる瞳でルーグは叫ぶ。今にも泣きだしそうな顔。イヌカに突き付けた銃口が震えている。
「……お前が、見習いだからだ」
ルーグを刺激しないようにだろう、イヌカが抑えた声で問いに答える。だがルーグは激しく首を横に振った。
「違う! おれは裏切ったんだ! おれはもう見習いじゃない!」
トラックが静かにクラクションを返す。イヌカがうなずき、言葉を繋いだ。
「トラックの言うとおりだ。あんなもの裏切りになるかよ。お前のやったことで誰が死んだ? 誰が傷付き、何を失った? 何にもなくしちゃいない。取り返しのつかないことなんざ、何も起こっちゃいない!」
「そうじゃないだろっ!」
ルーグがイヌカをキッとにらみつける。都合のいいことを言うなと、本質をごまかすなと、憤っている。
「これはさ、信頼の問題だろ? 信じてくれたひとたちの心を踏みにじった。そんなことが許されていいはずないじゃないか!」
少しかすれたルーグの声に、トラックはやはり冷静なクラクションを返した。しかしルーグはどうしてわからないんだと、無理解をなじるように言葉を叩きつけた。
「ダメなんだよ! あんたは、それじゃダメなんだ!」
イヌカに銃口を向けたまま、ルーグは視線をトラックに向けた。心細げに、悲しそうに、寂しそうに、まぶしそうに、そして、隔たっているように。
「南東街区はさ、自分のことしか考えない奴らばっかりなんだ。どうしてだか分かる? 他人のことなんか気にしてちゃ生きていけないからだよ。他人を蹴落とし、踏みつけ、奪って、笑ってるような奴じゃないと生きていけないからだよ。だから……」
ルーグの目から涙があふれる。イヌカがわずかに身を低くした。タイミングを計っている。イヌカがスキルを使えばおそらく、一秒以内にルーグに届く。すぐにそれをしないのは呪銃の暴発を怖れているからだろう。張りつめた緊張がイヌカを包んでいた。
「だから、優しい奴から死んでいくんだ! 他人を踏みつけにできない、他人の痛みが分かる奴から死んでいくんだ! 本当は、そいつらが生きなきゃなんないんだなのに! 生き残るのはクズばかりなんだ! おれみたいなクズばっかりなんだ! おれは! 優しい奴らを食い物にして生きてきたんだ!」
涙はとめどなく流れ、ルーグのほおを濡らしていく。それはたぶん、ルーグが初めてトラックに、他人に見せた『本当』だった。トラックが辛そうにクラクションを返す。
「違うっ!」
ルーグは駄々をこねるように、年相応の幼い顔で否定する。
「おれは選んだんだ! 死ぬのが怖くて他人を殺した! 自分のために他人を足蹴にした! 仕方がないことなんて何もなかった! 自分で、決めたんだ!」
ルーグの意識は完全にトラックに向いていて、呪銃を支える手は下がり、もはやイヌカは呪銃の射線上には無い。今、イヌカがルーグに飛び掛かれば、ルーグを取り押さえることは可能だろう。だがイヌカは動かなかった。正確に言うと動けなかったのだと思う。イヌカの顔からは血の気が引き、目は見ひらかれ、身体がわずかに震えている。もし、また失敗したら――かつての喪失の記憶が、イヌカを縛り付けている。
「なあ、トラック。あんた、『みんな幸せ』が好きなんだろ? だったら、おれみたいなのに構ってちゃダメだよ。他人を傷付けないように、他人から奪わないように、一生懸命正しく生きようとしてる奴らはいっぱいいるよ。そういう奴らはさ、あんたが助けないと死んじゃうんだよ。おれみたいなのに殺されるんだ。だからあんたは、そういう奴らを助けなきゃダメなんだよ」
動揺し、震えていたルーグの声が、諭すような穏やかなものに変わった。自分に救われる資格はないと、自分を見捨てよと、ルーグは言っている。でもそれはきっと、ルーグが誰かを犠牲にしてしまった時からずっと胸に抱えてきた悲鳴だ。誰かを犠牲にするたびにしんしんと心に降り積もってきた声にならない『助けて』は、こんな形でしか、自分自身を否定することでしか、伝えられないのだ。
トラックもイヌカも、もどかしい沈黙の中にいる。何か言わねばならない。しかし安易な言葉はルーグを遠ざけるだけだ。ルーグに届く言葉を、ルーグを引き戻す言葉を、ふたりは見つけられないでいるようだった。痛いほどの静けさに時間だけが過ぎていく。やがて何かを決意したように大きく息を吸ったルーグは、表情を緩め、わざとらしい明るい声を上げた。
「アニキっ!」
ついでにイヌカ、そう付け加えて、ルーグはほおを濡らしたまま、いたずらっぽく笑った。ただならぬ雰囲気を感じ取り、イヌカが息を飲む。イヌカの身体は動かない。ルーグは銃口を自らのこめかみに当てた。
「おれ、あんたたちに憧れてた。みんなの仲間に、なりたかったよ」
ようやく訪れた偽りの終わりを喜ぶように、ルーグは屈託のない笑顔を浮かべた。その目から新たな涙がこぼれ落ちる。イヌカが言葉ともつかぬ叫びをあげ、そして――
――ルーグは、呪銃の引き金を、引いた。
そして銃口から放たれた白いハトは、藍色の空に高く羽ばたいていきました。




