未来を
結局事態は何の解決も見ず、教室の空気は重苦しいまま。ガートンはますます所在なさそうで、他の子供たちはガートンから距離を取ってちらちらと様子をうかがうばかりだ。先生は子供たちを見ているけれど、動く気配はない。何か考えがあってのことだろうが、先生、そろそろフォローしないとダメなんじゃないの?
「ごめんなさい! 遅れました!」
息を弾ませて広場に二人の子供――アネットとレアンが駆け込んでくる。教室の全員が一斉に振り向き、二人を見た。奇妙な緊張感を察して二人は足を止める。先生は相変わらず表情の読めない顔をしていた。
レアンは教室を見渡し、前の席でポツンと座るガートンに目を留めると、何でもない顔をしてガートンの右隣りの席に座った。驚いた顔のガートンに、レアンは「にひひ」と笑顔を返す。ガートンも釣られて「いひひ」と笑った。教室の後方が戸惑いと共にざわめきを大きくした。
アネットは背筋を伸ばし、いつも座っている最前列左端の席まで歩いていくと、
「先生」
と普段とまるで同じように開始を促した。教室のざわめきはさらに大きさを増す。ガートンの近くに座りたくないと、子供たちは自分の席を決められないでいるのだ。アネットは前を向いたまま、手に持った教科書をゆっくりと持ち上げると、
――パシィーン!
自らの机に叩きつけた。教室から一瞬でざわめきが消える。
「文句があるヤツぁあたしを通しな。影でコソコソくだらねぇことを言う、腐ったヘドロみてぇな性根のヤツは……」
そしてアネットは振り返り、一点の曇りもない笑顔をみんなに向けた。
「この教室には、いないよね?」
教室の体感温度は一気に氷点下まで下がり、顔面を蒼白にした子供たちは一糸乱れぬ動きで鮮やかに席に着いた。ゴブリンがどうのと言っている場合ではない。この教室にはすでに猛き虎がいるということを、みんな思い出したのだ。
さすがアネゴ。統制力ハンパない。このくらいの歳の女の子の笑顔で背筋が凍り付くなんて、俺、初めて経験したよ。
「そんなところに立ってないで、あなたも座って。一緒にお勉強しましょう」
後ろで一人立っているルーグに気付き、アネットが声を掛ける。ルーグは慌てて首を横に振った。
「いいよおれは。バカだから聞いたってわかんねぇし」
「わからないから学ぶのよ。さ、こっちに来て」
アネットはルーグの前まで歩いて近付くと、強引に手を取って自分の席に座らせた。戸惑うルーグをよそに自分は予備の椅子を運んできて、ルーグの隣に座る。
「すみません。始めてください」
アネットを頼もしげに見つめていた先生は、促されてようやく教壇に立った。
「それじゃ、始めようか」
先生は「始めようか」と言ったにもかかわらず、教科書を開くでもなく、生徒たちをじっと見つめた。普段と違う雰囲気が教室を包む。先生は真剣な顔でもう一度みんなを見渡すと、静かに口を開いた。
「今日から、先生の前の席にいる彼、ガートン君がこの教室に加わります。皆さんも知っての通り、彼はゴブリンです。ご両親の許を離れ、彼はゴブリンの代表として、一人でケテルにやって来ました」
子供たちの視線がガートンに集まる。親元を離れて一人で、という言葉は子供たちの心を少し揺らしたようだ。先生は言葉を続ける。
「ゴブリンという種族に対して、皆さんはきっと良いイメージを持ってはいないでしょう。ケテルとゴブリンは長い間、敵対関係にありました。姿を見れば剣を抜き、襲い掛かる。もしかしたら皆さんの知っている人の中にも、ゴブリンと戦ったり、あるいはケガをさせられたり、命を落とした方がいらっしゃるかもしれない」
子供たちが互いに顔を見合わせ、ひそひそと話し始める。やっぱりゴブリンって怖いんだ、という声が聞こえた。淡々としていた先生の声に、わずかに感情がこもる。
「ケテルはゴブリンとの敵対の歴史を変えようとしています。戦うのではなく言葉と商いの力によって互いを結びつける道を探しています。ゴブリンとは言葉も通じず、何を考えているかもわからない、ずっとそう言われてきました。しかし今、皆さんの目の前にいるガートン君は、皆さんを見ても襲い掛かってきたりはしません。皆さんを理解し、皆さんに理解されようとここにいます。つまり――」
先生は人差し指で教壇をとん、と叩いた。教室のざわめきが止まり、皆が先生を見つめる。
「ここが、ケテルの先端です」
先生の言葉が波紋のように広がる。教室の空気が、変わった。戸惑いと怯えの色が消え、わずかな高揚が子供たちに浮かび上がる。
「ゴブリンと接することができる場所は今、ケテルでここしかありません。皆さんの行動がケテルの未来を作るのです。ゴブリンを拒むのか、受け入れるのか。皆さんが決めるのです」
そして先生はもう一度子供たちひとりひとりの顔を見渡し、そして言った。
「皆さんがケテルにとって最良の未来を選択することを望みます」
微笑みと共に放たれた先生の言葉は、子供たちの心にゆっくりと沁み込んでいったようだった。
先生はゴブリンを仲間外れにしてはいけない、と言わなかった。ゴブリンと仲良くしなさいとも言わなかった。それはきっと子供たちを信用しているからで、子供たちは自力で正解に辿り着けると信じているからなんだろう。そのやり方が正しいのか、俺にはよく分からない。大人が正解を示さなければならない場面もきっとあるだろうと思う。けれどもし、子供たちが自分の力で考えて、そして正解に辿り着いたとしたら、それ以上に素晴らしいことは無いに違いないのだ。
その後、授業はいつもと同じように行われ、トラックの通訳を受けつつガートンも授業に参加することができた。アネットやレアンもどうにかガートンに意思を伝えようと試行錯誤してくれて、身振り手振りでのやりとりは伝わったときにはちょっとした感動を、伝わらなかったときには落胆と笑いをもたらしているようだった。言葉がなくても伝わることは意外にあるらしい。先生の言葉に幼いプライドを刺激された子供たちの雰囲気はとても柔らかくて、ガートンの緊張も授業が進むごとにほぐれていったようだ。その表情はいつの間にか、もう大丈夫だということを確信させる、いい顔になっていた。
むしろ心配なのはルーグの方で、ガートンが教室に馴染んでいることを喜びはするものの、自分が教室の仲間になろうという意欲は見えなかった。どこか遠い世界を見るような、まぶしげな表情で、ルーグは教室の様子を見ていた。
授業が終わり、アネットが片付けを差配する中、三人の男の子がガートンの机に近付いてきた。三人は座っているガートンを取り囲み、威圧するようにその顔を見下ろしている。ガートンが緊張気味に男の子たちを見上げた。隣に座るレアンは、何も気にしていないように様子を見守る。
三人の中のボスっぽい子がぎろりとガートンを睨み、そして無言でアネットへと視線を向けた。釣られるようにガートンもアネットを見る。ボスがガートンに視線を戻し、ガートンもまた再びボスを見上げた。息詰まる緊張感の中、ガートンはボスに向かって、大きくうなずいた。
「……合格だ」
ボスはそう言うと、ガートンに右手を差し出す。ガートンはボスの手を取り、二人はがっちりと固い握手を交わした。ボスの横にいた取り巻きと、そしてレアンが二人の手に自らの手を重ねる。五人は互いに顔を見合わせ、そして破顔した。
言葉などいらないのだ。この教室にはアネットがいる。そのことさえ理解できれば、人であろうが獣人族であろうがゴブリンであろうが関係ない。アネットの前であらゆる生命は等しく被捕食者なのだから。
ありがとう、アネゴ。一生ついて行きます。
テキパキと椅子や机をトラックの荷台に運ばせ終え、アネットはルーグに声を掛けた。ルーグを当然のようにこき使うアネゴの支配力よ。ルーグは無理やり働かされたことへの抗議のように、地面に座り込んで息を吐いている。
「ごくろうさま。助かったわ」
返事をするのもおっくうなのか、ルーグは無言でアネットを見上げた。ルーグの非難めいた視線をアネットは平気な顔で受け止めている。
「どうだった?」
「……なにが?」
アネットの質問の意味を捉えかねたのか、ルーグがわずかに眉を寄せた。アネットは補うように言葉を続ける。
「楽しかった?」
ルーグは思案顔になり、そしてしばらくの後に答えを返した。
「……まあまあ」
「そう」
ルーグのパッとしない答えにも、アネットが落胆する様子はない。アネットは表情を変えずに言った。
「それじゃ、また来て」
ルーグが思わずといった風情で嫌そうな表情を浮かべた。アネットの言葉に少し力がこもる。
「次はもっと楽しいから」
学ぶことは楽しく、学ぶほどに楽しいのだと、アネットはルーグに伝えたいようだ。その静かな熱意に気圧され、ルーグはアネットにうなずきを返した。
「約束よ」
念押しにそう言って、アネットは先生の方へと駆けて行った。ルーグはぽかんとアネットの背を見ていたが、やがて、
「約束、ね」
と言って小さく笑った。そして目を伏せてうつむくと、誰にも聞こえない声でぽつりと何かをつぶやいたようだった。
先生の提案で、ガートンは先生の家で預かることになった。ガートンに先生が人の言葉を教えつつ、ガートンから先生がゴブリン語を学ぶのだそうだ。トラック以外に通訳ができる人間を増やしたいとか、ゴブリン語と人語の辞書を作りたいとか、そういう思惑もあるようで、コメルは二つ返事で先生の提案に乗った。ガートンの生活費はコメル、というより商人ギルドが全額負担し、さらには先生の活動への支援も検討するという。ガートンの受け入れについて役に立てなかった負い目か、コメルは「今度こそ任せてください!」と鼻息が荒かった。先生の生活も楽ではなさそうだから、ギルドの援助でもう少しいい暮らしができるようになればいいな。もっとも、先生は援助された金を生徒のために使いそうだけど。
夕暮れ時から始まった青空教室は、その終わりにはもうすっかり日暮れを迎えていた。子供たちは各々先生に別れの挨拶をして、自分の家に帰っていく。先生とガートンを家まで送った別れ際、ガートンは笑顔でルーグに手を振った。ルーグも安心したように手を振り返して、二人は別れた。トラックはコメルも商人ギルドに送り届け、最後にルーグを宿の前で降ろした。ルーグはガートンと別れてからずっと、トラックの窓から外を無言で眺めていたのだが、トラックから降りた時、
「……アニキ」
ためらいがちに口を開いた。ルーグはトラックを見上げる。なかなか次の言葉は出て来なくて、トラックはじっとルーグが話すのを待った。言おうとしては口を閉じる、そんなことを何回か繰り返した後、ルーグは意を決したように息を大きく吸って、そして言った。
「明日、ついて来てほしいところがあるんだ」
思いつめたような瞳が心細げに揺れる。トラックはプァンと了承のクラクションを返した。ルーグはほっとしたような、寂しそうな顔で笑って、宿の部屋に戻っていった。
翌日の朝、トラックはルーグを乗せて南東街区の外れにいた。ルーグは言葉少なで、どこか危うい緊張感をまとったまま、流れる景色を見つめている。冬の空は厚い黒雲に覆われ、重苦しさを強調するばかりだ。砂が舞う乾いた南東街区の風景も、救いを与えてくれそうにはなかった。
「……止めて」
少しかすれたルーグの声に、トラックはブレーキを踏んだ。そこはごちゃついた南東街区の街並みに不意に現れた、空洞のような場所だった。不在、あるいは喪失の結果生まれた空間。あるべきものを失った寂寥感で形作られた広場。広場を囲む建物はどれも半ば朽ち果て、崩れかけていた。ルーグは助手席から外に出ると、トラックに前進を促すようにゆっくりと、広場の中央に向かって歩き始めた。トラックもルーグに並んで歩みを進める。
「……前に少し話したよね。おれの父親のこと」
マフィアの下っ端だったという父親のことを、ルーグはひどく冷淡に語る。情愛も、関心も、何も抱いていないというように。広場の中央まで歩みを進め、ルーグは立ち止まって地面を指さした。
「ここで、あいつは死んだんだって。敵対するマフィアの幹部を殺そうとして、返り討ちにあった。バカだよな。くだらない死に様だ」
ルーグは無表情に、淡々とした口調で話を続ける。
「父親が死んで、母親は家を出たよ。おれを置いて。ひでぇだろ? でも、ここの連中はそんなもんなんだ。自分のことしか考えちゃいない。誰が死のうが気にも留めない。それが自分の子供であっても」
トラックは何も言わずに黙ってルーグの話を聞いている。ルーグの声は安易な言葉を差し挟むことができないほどに重く響いた。
「ガキが一人で生きるには、ここは厳しい場所だったよ。そうそう盗みが成功するはずもなくて、見つかって何度もボコボコにされた。殴られて、動けなくて、腹は減ってて。情けなくて泣いてた時、おれに声を掛けたのは、父親が殺そうとしたマフィアの幹部だった」
無表情だったルーグの顔にかすかな笑みが浮かぶ。しかしその笑みは、自虐に彩られていた。
「おれは父親の仇に拾われたんだ。でもそれをどうこう思ったことはないよ。おれもここの住人だから。自分のことしか考えちゃいないんだ。おれを拾ったそいつは、それでいいって言ったよ。そいつはおれに――」
ルーグの顔から再び表情が消える。ルーグはトラックを見上げた。
「ヘルワーズ、って名乗った」
ルーグはじっとトラックを見つめる。トラックはルーグの言葉をどう解釈したらいいのか戸惑っているように無言だった。トラックが言葉を見つけられない中、ルーグはふっと表情を緩めてトラックから視線を逸らした。
「ここはさ、南東街区じゃよく使われる場所なんだ。結構広い空間で、遮るものが何もない。広場の周囲には廃墟があって、人が隠れるには都合がいい。標的を広場の真ん中に誘い出せば、廃墟に隠れた兵隊が飛び出してきて取り囲む。そうやって何人もここで殺されてきた。例えば――」
ルーグは素早く懐から呪銃を取り出し、銃口をトラックに向ける。
「――こんなふうに」
ルーグはためらいなく引き金を引いた。パン、という大きな破裂音が響く。弾が射出された様子はなく、どうやら音だけだったようだ。しかしその音を合図に、廃墟に隠れていた人間たちが姿を現し、トラックを囲んだ。
「あんたはここで終わりだよ、トラック」
銃口をトラックに向けたまま、虚ろな瞳のルーグは口元に乾いた笑みを浮かべた。
うっっっそーーーーーーーーーーん




