始まりの日
妻ゴブリンの快気を祝して、その夜はゴブリン村を挙げての宴会になった。ゴブリンの男衆が大きなイノシシを仕留め、女衆は山菜や木の実を集める。村の中央で丸太が組まれ、キャンプファイヤーの如く豪快に炎が上がった。イノシシは皮を剥がされたのちに炎の上に吊るされている。イノシシの皮は加工して誰かの服になるのだろう。炎にあぶられた猪肉から脂が落ち、うまそうな匂いが辺りに広がった。
宴の準備が整い、ゴブリン村の全員が炎を囲む。炎の前には族長ゴブリンと妻、そして二匹の男の子のゴブリンが立っている。トラック達は客人として族長たちの正面に座っていた。皆には炒ったドングリが入った木の深皿と、酒の注がれた木のコップが配られている。果物を発酵させて作った、いわゆる猿酒のようなものらしい。うーむ、ゴブリンも酒を飲むのか。文化のあるところ必ず酒があると聞いたことがあるが、酒という存在の業の深さよ。
「ごぶごぶっ!」
頃合いを見計らい、族長ゴブリンが全員に呼びかける。ざわついていたゴブリンたちが口を閉じ、族長に注目した。族長が軽く咳払いをして、挨拶を始める。と言ってもまあ全部「ごぶごぶ」なので何を言っているのか分からないんだけども。族長ゴブリンが何か言って、妻ゴブリンが皆にお辞儀をして、村ゴブリンたちが盛大な拍手で応える。村ゴブリンたちは妻ゴブリンが元気になったことを心から喜んでいるようだった。
「ごぶごーぶっ!」
挨拶が一通り終わったのか、族長ゴブリンは手に持ったコップを掲げて声を上げた。全員が同じように声を返し、コップを掲げる。これはアレだな、たぶん「乾杯」って言ったんだな。皆がコップを傾け、そして「ぷはぁっ」と幸せのため息を漏らした。そしてそれを合図に、宴は無礼講になった。
猪肉がいい感じに焼けると、族長は自ら肉を取り分け、皆に配って回った。肉を取り分けるということも族長の威厳や公平さを示すある種の儀式なのだ。族長はそれぞれの村ゴブリンと言葉を交わし、村ゴブリンたちはお礼を言って肉を受け取る。こうやって地道に皆とコミュニケーションを取ることで、皆から族長として認めてもらうことができる。ゴブリンだろうが人間だろうが、ひとの上に立つというのは大変なのだ。
妻ゴブリンは火の前に座っている。膝の上にはまだ小さな男の子のゴブリンがうれしそうにはしゃいでいて、妻ゴブリンはその子を愛おしそうに撫でながら目を細めていた。少し離れた場所にはもう少し年上の男の子のゴブリンがいて、不満げに妻ゴブリンの膝の上にいる子を見ていた。それに気付いた妻ゴブリンが手招きをする。渋るその子の手を強引に引き寄せ、妻ゴブリンはその子と、膝の上の子の両方をぎゅっと抱きしめた。膝の上の子はうれしそうに笑い声を上げ、年上の子は気恥ずかしそうな、照れたような顔で、何も言わずに抱きしめられていた。客人席からその様子を見ていたルーグが、安心したような、寂しそうな表情を浮かべ、そして目を逸らせた。
肉を分け終えて火の前に戻ってきた族長ゴブリンに、待ち構えていたようにコメルが声を掛ける。ちなみにコメルたちは客人、しかも恩人なので、肉は一番最初に取り分けられていた。味付けは塩である。どっから調達してるんだろう。
「単刀直入にお話します。我々と、交易をしませんか?」
おお、直球勝負。遊び玉無し。コメルの本気度が伝わってくる。突然の提案に族長ゴブリンは戸惑いの表情を浮かべた。
「この提案はこちらの利益だけを考えてのことではありません。あなた方にも非常にメリットの大きい話なのです」
少し酒が入っているからか、かなり前のめりにコメルは言葉を続ける。コメルにしてみれば、エルフに渡す米を無料にしてまでゴブリンとの交易という未知の未来に賭けたのだ。簡単に引き下がるわけにはいかないのだろう。コメルは熱のこもった口調でゴブリンがケテルと交易をするメリットを力説する。
「今回のことで考えても、もしあなた方が我々と交流を持っていたら、奥様の病の正体はすぐに分かっていたはずです。正体が分かれば治療法も分かる。奥様がこれほど長く苦しむ必要はなかった」
トラックの通訳を聞いて、族長ゴブリンが思案顔になる。実際にはリュネーの花は人里付近では絶滅していたのだから、病気の正体が分かって治療法が分かっても、それを実行することは難しかったはずだが、都合の悪いことは見事にスルーしているな。族長ゴブリンはそのことに気付いていないようだ。交渉の駆け引きと言えばそうなのだろうが、なかなかあくどい。人の好さそうな外見にだまされそうになるが、コメルも間違いなくケテル商人なのだ。
「私たちには長く培ってきた知識があり、技術がある。もちろんそれはあなた方も同じでしょう。私たちに足りない、あなた方の偉大な叡智を授けていただきたい。私たちも知りうる多くの技をあなた方にお伝えします。そうすればあなた方も、そして私たちも、新しい世界を見ることになるでしょう。今よりもずっと幸せな世界を」
相手を持ち上げつつ、互いにメリットがあることを伝え、未来を想像させる。一歩間違えば詐欺師の口上だが、コメルの真剣な眼差しは族長ゴブリンを引き込んだようだ。商人は利益を追求する、とはいえ、おそらくコメルは交易を通した交流によって、本当に世界が良くなると信じているのだろう。利害に基づく関係は善意に基づくそれより強く、柔軟で、融通が利く。善悪は是非の二択だが、利害は話し合いによる落しどころを見つけるための動機づけになるのだ。だって決裂すれば利益はゼロになるのだから。
「それとも、幸せな世界に興味はありませんか? 内に閉じこもるだけの現状維持がお好みですか? 今ある理不尽を、黙って受け入れるのがあなた達の選択ですか?」
コメルの挑発めいた言葉に族長ゴブリンは苦笑する。また誰かが狩人熱に罹ったら黙って見殺しにするのか、とコメルは言っているのだ。族長ゴブリンは大きく息を吸うと、覚悟を決めたように力強く頷いた。
「ありがとうございます!」
コメルは身を乗り出し、族長ゴブリンの手を取って固く握った。族長ゴブリンもまたコメルの手を握り返す。それはケテル史上、いや、おそらく世界の歴史上初めて、ゴブリンと人が『敵』でなくなった瞬間だった。
宴会は大いに盛り上がり、皆が飲み、歌い、踊っている。きっとみんな不安だったのだ。妻ゴブリンが元気を取り戻したことで、不安から解放された喜びを全力で謳歌している。酔った勢いで若いゴブリンが意中の君に声を掛け、あるところでは撃沈し、あるところでは笑顔の花を咲かせていた。年かさのゴブリンたちが若者の様子を楽しげに見守っている。
実は妻ゴブリンは、症状が改善したとはいえ完治したわけではない。本当はまだ安静にしつつ治療に専念すべきなのだが、族長の妻として、村ゴブリンたちに病に打ち勝った姿を早く見せなければならなかったのだ。気丈に振る舞っているが相当に辛いはずだ。責任ある立場としての強い義務感のなせる業なのだろう。
妻ゴブリンが大きく息を吐く様子を見て、コメルがトラックに何事かを告げた。トラックがそれを族長に伝える。族長はトラックとコメルにうなずきを返すと、村の皆に聞こえるように大きな声を上げた。村ゴブリンたちが族長の方を振り向く。族長は皆を見渡すと、「ごぶごぶ」と何かを語り、そして手の杯を夜空に掲げた。村ゴブリンたちもそれに応えて杯を掲げ、「ごぶーっ」と掛け声を掛けた。そしてそれを合図に、村ゴブリンたちは散会して帰路に就いた。空はかすかに白み、星々が姿を消し始めている。夜通し続いたゴブリン村の宴会はこうして終わった。
族長の家に帰るなり、妻ゴブリンは苦しそうに胸を抑えて倒れ込んだ。無理をし過ぎたのだ。族長ゴブリンが慌てて妻を抱え、寝床に運ぶ。族長の子の弟ゴブリンが不安に泣き始め、兄ゴブリンは弟の手をぎゅっと握った。コメルは再びリュネーの花で薬湯を作り、妻ゴブリンに飲ませる。ルーグが心配そうに自分の手を握り、イヌカがルーグの頭に手を置いた。呼吸が落ち着き、妻ゴブリンはそのまま眠りについた。
「ごぶごぶっ」
族長ゴブリンがコメルの手を両手で握って感謝を伝える。コメルは族長の手を握り返し、真剣な表情で言った。
「薬湯を飲ませれば一時的に症状は回復します。しかし服用を止めればすぐに元に戻ってしまうんです。我々が採ってきたリュネーの花がすべてなくなるまで、症状がなくても毎日薬湯を作って飲ませてあげてください」
コメルの言葉を聞いた族長ゴブリンが「?」と首をかしげる。ああ、トラックが居ないから通訳できないんだ。族長ゴブリンの家はトラックが入れるほど広くないので、トラックは玄関の外に停車しているのだ。コメルはポリポリと頬を掻くと、族長ゴブリンを玄関まで連れて行ってトラックに通訳を頼んだ。
コメルは今日の内にケテルに戻ることを族長に告げた。ゴブリンとの交易を実現するためにはゴブリンたちだけではなく、ケテル側にも話を通す必要がある。今はまだゴブリンはケテルにとって討伐対象モンスターなのだ。互いの安全が保障できなければ交易も何もあったもんじゃない。
コメルの言葉に族長ゴブリンが不安そうな顔を作る。薬湯を作ってくれるコメルがいなくなって大丈夫なのかと心配しているのだ。コメルは安心させるように笑うと、ゴブリンシャーマンたちにやり方を教えるので大丈夫だと伝えた。族長は不安そうな不満そうな表情で、どう見てもしぶしぶといった風情で了承の意を示した。ケテルとの交易もゴブリンにとって大きな出来事だ。妻のことばかりを優先させることは立場上難しいに違いない。
「ところで……」
コメルがどこか言いづらそうに口を開く。族長ゴブリンがコメルの様子に怪訝そうな目を向けた。コメルは軽く深呼吸をすると、意を決したように言った。
「族長にはお子さんが二人いらっしゃるようですね。であれば、上のお子さんを私に預けていただけませんか?」
コメルの突然の提案を、トラックは戸惑いながら通訳する。族長ゴブリンの顔が険しいものに変わった。イヌカが苦々しく
「……人質か」
とつぶやく。コメルは首を横に振り、族長をまっすぐに見つめた。
「我々の友好の証として、お子さんをケテルにお迎えするということです」
トラックが伝えたコメルの言葉を、族長ゴブリンは厳しい顔で聞いていた。それを額面通りに受け取ったわけはない。どんなに言葉を飾っても、これはイヌカの言う通り人質の要求だ。交易をする、言葉だけなら簡単だが、昨日まで互いに理解し合うなど考えもしなかった相手を商売相手とみなすには、言葉だけでは足らないのだ。相手が少なくともいきなり襲い掛かっては来ない、という最低限の保証が必要で、それを実現するのが『族長の息子の身柄』ということなのだろう。
族長ゴブリンは口を固く結び、コメルをじっとにらんでいる。ゴブリン側からしてみれば族長の息子をむざむざ差し出すのは屈辱だろうし、人質を差し出さなければ成立しない交易は対等とはとても言えないだろう。人質を盾に足元を見られる懸念もある。何より、親として言葉も通じない場所に子供を送り出すなんて嫌に決まっている。それでもすぐに拒否しないのは、一つはコメルに恩義を感じているからであり、もう一つはきっと、族長ゴブリンもケテルとの交易に可能性を感じているからだ。自分たちでは癒せない病を外から来た者が癒した。そのことは、自分たちが変わらねばならないことをゴブリンたちに痛感させたのだ。
「……ごぶ」
奥歯を噛んで逡巡する族長ゴブリンに、家の奥から遠慮がちに声が掛かる。皆が目を向けると、そこには族長の上の子ゴブリンがいつの間にか立っていた。族長ゴブリンが慌てたように怒鳴る。子ゴブリンは首を横に振り、族長ゴブリンに近付いて言葉を交わす。子ゴブリンの表情は悲壮なほどの決意を宿して、少し大人びて見えた。族長ゴブリンが苦しげに唸る。子ゴブリンはコメルに向き直ると、その幼い姿に精一杯の勇気を込めて、深く頭を下げた。族長ゴブリンもまたコメルに頭を下げる。
「お子さんは私が責任を持ってお預かりします。彼はケテルとゴブリン族の未来をつなぐ架け橋となるでしょう。今、この厳しい決断をくださった皆様の想いに、ケテルは必ずやお応えいたします」
コメルは族長の手を取り、固く握手を交わした。ゴブリンにここまで譲歩させた以上、ケテルとゴブリンたちとの間に交易を成立させる責任はコメルの側にある。具体的なルールはこれから詰めることになるだろうが、まずはケテルに『ゴブリンは敵ではなくなった』ことを周知しなければならない。今まで互いに姿を見ればまず剣を抜いていた間柄だった両者を、見かけたらまず挨拶をかわす相手だと認識を変えなければならない。それは決して容易いことではないはずだが、コメルの瞳には力強い自信があふれていた。
一介の零細商人がケテルを変えるなど本当にできるのか、俺は正直不安なんだけど、でも、どうかうまくいってほしい。ルーグが言っていたように、ゴブリンだって自分の大切な相手を想い、救われることを祈り、救われたことに感謝の涙を流す生き物なのだ。人と何も変わらない。だったら、視界に入れば殺し合うような関係なんて終わらせなきゃ。きっと人とゴブリンは共に歩んでいける。他種族との融和を掲げるケテルならそれができるはずなのだ。そして今日は、それが実現するはずの未来の、始まりの日だ。
コメル、本業は実は詐欺師なんじゃないか疑惑。




