涙あふれ
神殿のような洞窟の中では、ゴブリンシャーマンが今も祭壇に懸命な祈りを捧げている。祭壇に横たわる妻ゴブリンの肌に浮き出るあざは少しずつその大きさを増していて、それが全身を覆い尽くした時、妻ゴブリンの命は失われるのだ。族長ゴブリンは妻ゴブリンの傍らに立ち、洞窟の入り口をじっとにらんで腕を組んでいる。もうすぐ、日が暮れようとしていた。
リュネーの花を手に入れたトラック達は、休む暇もなくエルフの村へと取って返した。出発したのがおおよそ午前十一時、そこから四時間でエルフの村、そして一時間でゴブリンの村に繋がる妖精の道まで戻る、はずだったのだが、セテスとの戦いで傷付いたトラックは思うようにスピードを出すことができず、エルフの村に辿り着いたときには午後四時を回っていた。この時期、日没の時刻は午後五時くらい。トラック達は村の入り口でエリヤと別れると、村長たちへの挨拶も割愛してゴブリンの村への道をひた走る。トラックの車体が金属が擦れるような、あるいは小さな部品が跳ねるような異音を立て、普段の速度が出ない。トラックが苛立ちを込めた、吠えるようなクラクションを響かせた。
トラック達がエルフの村を出てしばらく後、俺は一足先にゴブリンの村に戻った。だってもう気になっちゃってしょうがなかったんだもの。正直、時間的にはギリギリアウトなタイミングである。トラック達はちゃんと花を、妻ゴブリンを助ける手段を持ってこちらに向かっているのに、もし少し遅れたせいでルーグが、その、処刑とか、された後にトラック達が到着したら、それはもうお互いにとってただ悲劇でしかない。そんなのは絶対に嫌だ。
族長の近くにはルーグと、そしてイヌカが床に座り、やはり洞窟の入り口を見つめている。座布団的なものの上に座らされているのでまだ客人待遇ではあるのだろう。ただ、三匹のハイゴブリンたちが二人を囲むように立っており、そしてイヌカのカトラスとルーグのナイフは取り上げられていた。
いくつものかがり火に照らされ、各々の影が長く洞窟内に伸びる。ルーグはどこか虚ろな瞳で、表情のない顔を洞窟の外に向けていた。イヌカは洞窟の入り口を見ている、ふりをして、じっと周囲のハイゴブリンの気配を窺っているようだ。間に合わなければルーグを連れて逃げる。それを実行するために、神経を研ぎ澄ませているようだった。
洞窟の中から見た外はすでに藍色に包まれている。太陽が完全に沈めば、外にいるゴブリンがその旨を知らせる手筈になっていた。族長ゴブリンが目を閉じる。トラック達の来る気配はまだない。外からバタバタと走る足音が聞こえた。
「ごぶごぶっ」
そう声を上げながら、一匹のゴブリンが駆けこんでくる。ゴブリンは族長ゴブリンの前に膝を突き、乱れた息を整えると、無念さをにじませる表情で何事か告げた。通訳はないが何を言ったのかは俺にも分かる。日が沈み、そして、トラックはまだ到着していないのだ。族長ゴブリンが静かに目を開けた。
「間に合わなかったんだね」
ルーグはぽつりとそうつぶやくと、どこかほっとしたように小さく笑った。イヌカは舌打ちをして洞窟の外をにらむ。族長ゴブリンは組んでいた腕を解き、ルーグを見る。ルーグは怖れも後悔もない穏やかな顔で族長ゴブリンの前に進み出た。
「おいっ!」
イヌカがルーグを振り向き、立ち上がって近づこうとしたところをハイゴブリンたちに阻まれる。イヌカは鋭い視線をハイゴブリンに向けた。ルーグは振り返ることもなく言った。
「約束は、約束だ」
ルーグが族長ゴブリンを見上げた。イヌカの瞳が危険な光を宿し、その身体をわずかに沈める。ハイゴブリンたちが警戒と共に身構え、そして、族長ゴブリンが腰の大鉈に、手を、掛けた。
ちょ、ちょっと待って! もうちょっとだけ待って! もうそこまで来てるから! たぶんあと二、三分で着くから! いったん、いったん落ち着こう! っつっても、誰にも聞こえてないんだよ俺の声! あぁちくしょう! 誰か何とかして!!
「……ごぶ」
俺の声に応えて、というわけでもないだろうが、ずっと身じろぎ一つせずに横たわっていた妻ゴブリンが薄く目を開け、族長ゴブリンを制止するように弱々しく声を上げた。族長ゴブリンが慌てて妻を振り返る。ルーグも妻ゴブリンに顔を向けた。ハイゴブリンたちはイヌカの様子を警戒しているものの、妻ゴブリンの方に注意を奪われているようだ。イヌカは油断なくゴブリンたちの様子を窺っている。
「……ごぶ、ごぶ」
「ごぶごぶ! ごぶ!」
妻ゴブリンはたしなめるように首を少しだけ横に振った。納得のいかない様子で族長ゴブリンが小さく叫ぶ。妻ゴブリンはルーグに顔を向けると、重い手を懸命に持ち上げて手招きをした。ルーグは小走りに妻ゴブリンに駆け寄る。
「……ごぶ」
妻ゴブリンは傍らに立つルーグに声を掛け、そしてその頭をゆっくりと撫でた。妻ゴブリンの瞳が、赦しを与えるように優しく笑っている。ルーグの目が驚きに見開かれた。妻ゴブリンは苦しげに呻くと、力尽きたように目を閉じる。ルーグの頭から、妻ゴブリンの大きな手が滑り落ちた。
「ダメだ。ダメだよ」
ルーグは滑り落ちた妻ゴブリンの手を両手で強く握り、「ダメだ」と繰り返す。族長ゴブリンが悲痛な叫びと共に妻の肩を揺さぶった。まだ息はあるが、意識はない。声を出し手を動かした、それだけのことでずいぶんと消耗してしまったのだろう。きっと限界が近いのだ。俺は医者でもなんでもないけれど、たぶんこのままじゃ、妻ゴブリンは明日を迎えられない。
族長ゴブリンがルーグから妻の手を奪い、必死に呼びかける。しかし妻ゴブリンからの返事はない。族長ゴブリンの目から涙があふれ、やがて族長ゴブリンはルーグを振り返り、怒りの表情でその顔を見下ろした。助けてくれる、そう信じた想いが裏切られたと、族長ゴブリンはやり場のない怒りをぶつける先を探しているのだ。いや、もしかしたら本当は、妻を失うかもしれない恐怖をごまかすために怒っているかもしれない。
ルーグは族長ゴブリンの怒りを受け止め、穏やかな顔で佇んでいる。ハイゴブリンたちは族長の怒りに共感しながら、しかし怒りのままにルーグを斬ることに戸惑っているようでもあった。妻ゴブリンはきっとルーグを斬ることに賛同しない。その想いを尊重すべきかどうか、決めあぐねているのだ。ハイゴブリンの注意が逸れたことを察知して、イヌカの視線が鋭さを増した。
族長ゴブリンが強く奥歯を噛み締め、声にならない唸りを絞りだしながら大鉈に手を掛けた。ハイゴブリンたちがハッと息を飲み、族長を見つめた。ルーグは何も変わらず、ただ族長ゴブリンを見上げている。族長ゴブリンが無情を嘆く大きな吠え声を上げ、大鉈を振り上げた。イヌカの瞳が青く光を帯び、身体の輪郭がゆらぎ、揺らめく。族長ゴブリンが息を吸い、大鉈が振り下ろされ――
――プァァァァーーーーーン!!!!
時を止めよとばかりに、ゴブリンの村の隅々にまでトラックの放ったクラクションの大音声が響き渡った。
来たーーーっ! トラック来たーーーーっ!
おっそいよバカ! ギリギリだよバカ! もうダメかと思ったよバカ! まに、間に合って、よか、ばにあっでえがっだぁーーー。
「遅れて申し訳ない!」
キリキリカタカタと不穏な音を立て、精一杯の速度で洞窟に突っ込んできたトラックから転がるように飛び出したコメルは、手に持っていた麻袋からリュネーの花を取り出し、族長ゴブリンたちに見えるように掲げて言った。
「狩人熱は、治ります!」
言葉は分からなくても伝わったのだろう、族長ゴブリンが振りかぶっていた大鉈を地面に落とし、急いでコメルに駆け寄った。ハイゴブリンたちも族長に続く。イヌカは大きくため息を吐き、トラックを軽くにらんで「おせぇよ」とつぶやいた。ルーグは呆然とトラックを振り返る。
「お湯を沸かしていただけますか?」
コメルの言葉をトラックが通訳し、ハイゴブリンたちが洞窟の外へ駆け出した。コメルは麻袋を横に置き、自分の荷物袋から薬研を取り出す。麻袋の中にはセテスのところで採取したリュネーの花が詰め込まれている。ゴブリンシャーマンたちがコメルに駆け寄った。
「花も茎も葉もまとめてすりつぶします。こんなふうに」
コメルはゴブリンシャーマンに薬研でリュネーの花をゴリゴリとすりつぶす様子を見せ、身振り手振りで意思の疎通を図る。何とか伝わったのか、ゴブリンシャーマンたちは真剣な表情でうなずいた。族長ゴブリンは落ち着かない様子でコメルの手元を見ている。コメルはひたすらリュネーの花をゴリゴリしていた。一度にすりつぶすことのできる量はかなり少ない。妻ゴブリンは意識を失ったまま、ときおり苦しげに呻いている。悠長にしている時間はないが、間に合うのだろうか?
コメルが懸命に作業を進める中、トラックにはもうできることがなく、ぼーっと停車してコメルの方を向いている。イヌカがトラックに近付き、傷だらけの助手席のドアをコンコンと叩いた。
「ボロボロじゃねぇか。なんてザマだよ」
意地悪く笑い、そしてイヌカは「ご苦労さん」と言ってもう一度、拳で軽くドアを叩いた。トラックはふんっと鼻を鳴らすようにクラクションを返すと、コメルたちの邪魔にならないようにゆっくりと前に進みだした。トラックの向かう先にはルーグがいて、ルーグは妻ゴブリンの傍らにじっと佇んでいる。
「……アニキ」
近づいてきたトラックに今気付いたように、ルーグはトラックを振り返った。相変わらずどこかぼうっとした、心をどこかに忘れてしまったような、虚ろな表情をしている。ルーグはトラックに向かって、しかし独り言のように言った。
「……ゴブリンはさ、なんか、普通の奴らだったよ。自分の大切な相手のために泣いたり、必死に自分のできることを探したり、神様に、祈ったり、さ。何にも変わんないんだよ。おんなじ、だったよ」
ルーグはうつむき、自嘲気味に小さくつぶやいた。
「……おれなんかよりよっぽど、ニンゲンらしいや」
「バカ言ってんじゃねぇ。考え過ぎだ」
トラックについてきたイヌカが、ルーグの頭をワシワシと乱暴に撫でる。子ども扱いするな、と言うかと思ったら、ルーグは抵抗する様子もなく、されるがままに撫でられていた。
「これくらいでいいか」
そう独り言ちて、コメルは額の汗をぬぐった。麻袋にあったリュネーの花のおおよそ一割くらいをすりつぶしたようだが、それで得られたのはピンポン玉くらいの大きさの青みがかった緑の塊である。大変な作業だな。頭が下がります。
コメルは緑の塊をガーゼのような布で包むと、ハイゴブリンたちが持ってきたお湯の中に浸して軽く揺すった。お湯はすでに人肌程度の温度まで冷ましてある。ガーゼからリュネーの花の青が染み出し、冷まし湯にゆっくりと広がった。それは水底まで見通すことのできる澄んだ泉の透明な青だ。青が薄く全体に行き渡ったことを確認して、コメルはガーゼをお湯から引き揚げると、青い冷まし湯を水差しに移し替えた。薬研だの水差しだの、コメルの荷物袋には何でも入ってるな。そういえば薬も扱うと言っていた気がするけど、こんなこともあろうかと的な準備を常にしているということだろうか。
「これを、少しずつ患者に飲ませてください」
水差しをゴブリンたち掲げ、コメルが皆の顔を見渡す。トラックがプァンとコメルの言葉を伝えた。族長ゴブリンが水差しに手を伸ばし、三匹のハイゴブリンが慌ててそれを止めた。族長ゴブリンが心外そうに「ごぶごぶ!?」と叫ぶ。ハイゴブリンたちは物理的に族長ゴブリンを制止しつつ、必死に諭しているようだ。おそらくだが、「ガサツなあんたにゃ無理だから大人しくしてろ」みたいなことを言っているのだろう。族長ゴブリンが悔しそうに歯を食いしばる。ゴブリンシャーマンがコメルに「ごぶごぶ」と言って頭を下げた。これはきっと「お願いします」ってことだな。コメルは水差しを手に、妻ゴブリンの許に向かった。
背に手を回し、少し体を起こして、コメルは水差しの口を妻ゴブリンの唇に当てる。妻ゴブリンは顔にまで赤黒いあざが浮かび、呼吸さえもう弱々しい。リュネーの花が特効薬だとしても、こんなに病状が進んで効果があるのだろうか? ゴブリンたちが固唾を飲んで様子を見守っている。コメルが慎重に水差しを傾けた。青い冷まし湯が口の中に少しだけ注がれ、妻ゴブリンの喉が小さく動いた。
「ご、ごぶ!?」
ゴブリンたちが身を乗り出し、戸惑ったような声を上げる。妻ゴブリンの身体が、淡く青い光を放ち始めた。コメルは再度水差しを傾ける。冷まし湯が注がれるたび、妻ゴブリンの放つ光は強さを増していく。そして光の強さに反比例して、妻ゴブリンを蝕む赤黒いあざが小さくなっていくのが分かった。
「……ごぶ」
妻ゴブリンがゆっくりと目を開く。呼吸は幾分か安定し、瞳にも生気が戻ってきているようだ。コメルが水差しを妻ゴブリンの口から外した。族長ゴブリンが我慢できなくなったように妻の許に駆け寄り、コメルを押しのけて妻の背を支えると、その手を取って強く握った。
「ごぶごぶ! ごぶ! ごぶっ!」
「……ごぶ、ごぶごぶ」
族長ゴブリンが労りと共に妻に声を掛ける。それは夢でないことを、本当に助かったのだということを半ば信じられないような、確認し、つなぎとめるための言葉のようだった。妻ゴブリンは穏やかに答える。体力の消耗は激しいだろうが、その声ははっきりとしていた。
「もう大丈夫。彼女は、助かります」
コメルが神託のように確信を込めて言った。トラックがコメルの言葉をゴブリンたちに伝える。すると、
「ごぶーーーーーっ!!!」
族長ゴブリンは歓喜の叫びと共に妻を抱きしめた。その目からは大粒の涙がボロボロとこぼれる。妻ゴブリンは夫の背に腕を回した。ハイゴブリンたちは膝を突き、自らの腕で目を覆って嗚咽を漏らした。ゴブリンシャーマンたちはハラハラと涙を流しながら手を組み、天を仰いで感謝の祈りを捧げている。コメルがふっと優しい微笑みを浮かべ、イヌカはほっとしたような、少しばつの悪そうな顔で視線を逸らせた。トラックが「うむ」とうなずくような小さなクラクションを鳴らす。
「……そうか」
クラクションを聞いたルーグは、ハッと何かに気付いたようにトラックを振り返り、呆然とつぶやいた。
「アニキは、これが見たかったんだ。正しいとか間違いとか、関係ないんだ。ただ、これが見たかったんだ」
ルーグは視線をゴブリンたちに向ける。ゴブリンたちは皆、一様に涙を流していた。そしてその涙は、悲しみでも、苦しみでも、後悔でもない、温かい色をしている。
「アニキは、幸せが、見たかったんだ……」
ルーグの目から、涙の粒がひとつこぼれ、頬を伝う。それを境に、心の何かがふつっと切れたように、涙は次から次に溢れだした。
「お、おい! なんで泣いてんだ!?」
面白いほどに狼狽して、イヌカがルーグの背に手を当てる。何でもない、そう首を振りながら、ルーグはとめどなく流れる涙を手で拭った。
妻を抱きしめて泣き続ける族長に、最初は感動していた妻でしたが、十分経ってもニ十分経っても抱きしめて放さないことに徐々にイライラし始め、最終的にグーパンチをお見舞いすることになったのでした。ひどい。




