見ている世界
長老は案内する、とは言ったが、トラック達が夜のうちに出発することを許さなかった。夜の森は、エルフたちにとっても決して安全な場所ではないのだ。闇の支配する時間は妖魔の、そして魔獣たちの味方であり、エルフにその加護を与えてはくれない。案内役に指名されたのは村の門で会った若いエルフリーダーだったが、彼に身の危険を強いるわけにはいかず、トラック達はジリジリとした思いを抱えたまま、長い夜が明けるのを待っていた。
日付が変わり、太陽がよろよろと顔を出して闇を払う朝、トラック達は待ちきれないというように村の入り口にいた。遅れてやってきた案内役が驚いた顔で告げる。
「お待たせして申し訳ありません。早めに来たつもりだったのですが」
トラック達はまだ薄暗い時分からもうここで待っていたから、案内役の彼が遅かったわけではないのだが、その表情は申し訳なさそうだった。彼はエリヤと名乗り、少し緊張した面持ちで言った。
「行きましょう。セテス様がいらっしゃる場所までは、ここから三時間ほどかかります」
トラックが待ちきれぬとクラクションで応え、コメルは真剣な表情でうなずく。往復六時間、エルフの村からゴブリンの村まで一時間と少し、移動だけでも七時間は掛かる。リュネーを捜す時間も考えれば、一刻の猶予もない。
人の手の入らない自然林は鬱蒼として、方向すらよく分からなくなってくる。獣道さえない森を迷いなく進むことができるのは、やはり森の妖精と言われるエルフの力なのだろう。エリヤはトラック達を先導しながら、人の言葉とは違う、不思議な雰囲気を持った言葉で周囲に話しかけている。それは精霊語と呼ばれる、自然と交信するための特殊な言語なのだそうだ。自然林には当然トラックが通れるような道は用意されていないため、エリヤは木々に呼びかけ、道を開けてもらっているのだ。木々はエリヤの呼びかけに応え、すばやく、あるいは面倒そうにわさわさと移動する。木の種類によって性格も違うようだ。それに、意外に若い木の方が面倒くさがるのが多い気がする。そういうのは見ていてちょっと面白い。
村を出発してからおよそ四時間が経ち、トラックの時計はちょうど午前十時を示している。エリヤは疲れた様子もなく歩き続けているが、コメルは早々にギブアップして今はトラックの助手席にいた。木々が道を開けてくれるとは言え、地面がトラックの走りやすいように平らになってくれるわけもなく、一行は何度も迂回を余儀なくされて時間をロスしていた。時間がないというのに、こういうジリジリと削られる感じは精神に堪える。早く着かないかなぁ。
不意に森が途切れ、視界が広がる。トラック達の目の前で澄んだ水を湛えた小さな泉が、空から射し込む太陽の光をキラキラと反射していた。トラック達から向かって奥には、大きな洞窟がぽっかりと口を開けている。どうやら洞窟から泉に水が流れ込んでいるようだ。
「ここで――」
トラック達に向かって口を開きかけたエリヤの頬を、鋭く風を切って一本の矢がかすめた。エリヤはハッと息を飲み、自身の頬に滲んだ血を手で拭う。矢は洞窟の中から飛んできたようだった。暗い洞窟から明るい外に、正確に、当ててしまわないように矢を射るなんて、神がかった腕前である。
「立ち去るがいい。警告は一度しかせぬ」
よく通る渋い、しかしあまり感情を乗せない美声がトラック達に届く。洞窟の中から、ゆっくりと一人のエルフが姿を現した。その手には引き絞られた弓を持ち、躊躇なくトラックに狙いを定めている。人間でいえば二十代半ば辺りだろうか、透けるような白い肌に金の髪、そして湖面を思わせる青い瞳。草木染めの緑を基調とした衣服に身を包み、腰にはいくつもの矢の入った矢筒を提げていて、表情のないその顔は端正な人形のようだった。いわゆる典型的な、エルフと言われて誰もが思い浮かべるような、見本のような姿。
「セテス様! 私たちは――」
「言葉は不要だ、か細き若木よ。ここを訪れる者は二種類しかおらぬ。欲に目のくらんだ愚か者か、狩人熱を癒す方法を求める者かだ」
無表情のままトラック達を拒絶するエルフ――セテスに、トラックが問いかけるようにクラクションを鳴らした。セテスは表情を変えずに答える。
「お前たちがどちらであろうと無意味なことだ。リュネーを奪いに来たという点で何も変わらぬ。理由の如何を問わず、お前たちにリュネーを渡すつもりはない」
一切の妥協を許さぬ声音に、エリヤが気圧されたように息を飲んだ。トラックは助手席のコメルを降ろすと、プァンとクラクションを鳴らして少し前に出た。コメルは軽くうなずくと、エリヤの肩を叩き、二人は邪魔にならないように後ろに下がった。
トラックはさらにセテスに近付き、プァンとクラクションを鳴らす。セテスは無言で矢を放った。トラックの右のサイドミラーが砕け、ガシャンと音を立てて地面に落ちた。
「言葉は不要と言ったはず。望みを叶えたいならば押し通ることだ」
セテスは腰の矢筒から新たな矢をつがえ、冷たく言い放つ。その目にはどこか、深い諦念のようなものが宿っているようだった。トラックはさらに少し前に進み、プァンとクラクションを鳴らした。鋭い風切り音と共に、今度は左のサイドミラーが砕ける。
「狩人熱で誰が死のうと、私には関係のないことだ。リュネーはかつて人里近くの森のどこにでもある、ありふれた花だった。己の欲でそれを採り尽くしたのはお前たちではないか。今さらそれを得られぬと嘆く資格はなかろう」
トラックはさらに少しセテスに近付き、クラクションを鳴らす。トラックの右のヘッドライトに矢が突き刺さった。
「言葉を尽くせば分かり合えると思っているのならそれは間違いだ、異形の勇者よ。私とお前では見ている世界が違う」
セテスの矢を受け、トラックの左のヘッドライトがはじけ飛ぶ。トラックが強めにクラクションを鳴らした。
「くどい。道が交わることはないのだ。私はお前の命に配慮する理由を持たぬ。早く立ち去らねば、死ぬことになるぞ」
セテスは弓を地面に放ると、不思議な旋律の言葉――精霊語で何事かをつぶやく。それに反応したのか、トラックの車体の下の地面を割って太い木の根が飛び出し、トラックの荷台に巻き付いた。木の根はギリギリとアルミバンを締め上げる。アルミバンがへしゃげ、メキメキと苦しげな音を立てた。トラックは左右のウィングを同時に広げ、木の根を強引に引きちぎる。引きちぎられた根は急速に枯れ、ボロボロと崩れ落ちた。
「風の王よ。風の生まれし谷を統べる者よ。鋭き吐息を貸し与えよ。荒れ狂う刃となって蹂躙せよ」
セテスは力強く呪を発すると、トラックに向けて押し出すように右の手のひらを向けた。大気が渦を巻き、トラックをその中心に捉える。渦は徐々に勢いを増していく。金属を引っかく耳障りな音が響き、トラックの車体に無数の裂傷を刻んだ。
「どうした。このまま黙って死ぬつもりか? なかなか殊勝な心掛けだ」
セテスは皮肉げに口の端を上げた。トラックを捕える風が激しさを増していく。コメルが息を飲み、エリヤが「トラックさん!」と叫んだ。呻くようにトラックがぶぉんとエンジン音を鳴らす。セテスが小さく笑った。自らの絶望の正当性を確かめるように。
「弱ければ何も守れぬ。弱者は常に、強者の欲望に踏みつけられる」
それが世の真理だと、セテスの瞳が昏く沈んでいる。そうでなければならない、そうでなければおかしい、それはどこか自分自身に言い聞かせているような言葉だった。トラックが覚悟を決めたようにアクセルを踏み込む。風の渦を引き裂いて、トラックはセテスに突っ込んだ。
「……やはり、勝てぬか」
車体に弾かれ、セテスの身体が大きく後ろに吹き飛ぶ。洞窟入り口の横の岩肌に叩きつけられる寸前、手加減の文字が岩肌とセテスの間に割り込み、クッションとなって衝撃を吸収した。グッジョブだ手加減。いつもながら惚れ惚れする完璧な仕事ぶりよ。
岩肌をずるずると滑り落ちるように、セテスはぐったりと座り込んだ。手加減でダメージはないはずだが、なんというか、気力が尽きたような、そんな雰囲気だ。トラックがゆっくりとセテスに近付き、プォンとクラクションを鳴らす。セテスは無言のままうつむいている。
「あ、あの……」
戦いの終わりを見定め、エリヤとコメルがトラックに駆け寄った。エリヤはセテスに声を掛け、そして何と言っていいか分からないという戸惑いを顔に浮かべると、自分の荷物袋から竹の皮でくるまれた両手ほどの大きさの包みを取り出してセテスの前に置いた。コメルが不思議そうにエリヤを見る。エリヤが包みを解くと、その中身は、きれいな三角に形の整えられた三つの握り飯だった。それを視界に捉え、セテスが脱力したように笑った。
「……リュネーの花は、洞窟の中にある」
……見方によっちゃ、セテスが握り飯で懐柔されたように見えなくもないけど、そうじゃないよね? エルフには米さえ与えておけばだいたい解決するとか、そういう話ではないよね? ね?
トラックはプァンとクラクションを鳴らすと、洞窟の中へと入っていった。コメルがトラックの後に続く。エリヤは心配そうにセテスを何度も振り返りながら、トラック達の後を追った。
洞窟の内部はほのかな青い光が満ちていて、ヘッドライトを壊されたトラックには有り難かったようだ。奥から外へ向かって流れる水が青い光を受けて、幻想的な雰囲気を生み出している。清流を横目に、トラック達は奥へと進んだ。セテスから受けた攻撃のせいか、移動するトラックから軋むような金属音が聞こえる。洞窟はそれほど深いものではなく、数分足らずで一番奥までたどり着くことができた。
洞窟の一番奥はかなり広い空間が広がっていて、その中央にはこんこんと水が湧き出る泉がある。泉のほとりには優しく青い光を放つ花――リュネーが咲いていた。洞窟に満ちる光は、このリュネーの花によるものだったのだ。ひんやりとした空気を相まって、その美しい光景はどこか神聖な場所に踏み込んだような感覚をトラック達に与えていたようだった。
――クルル
木鈴を鳴らしたような音が聞こえる。よく見ると、群生するリュネーの花の間に、小さな動物の姿があった。リスくらいの大きさの、ホッキョクギツネみたいなもこもこした生き物だ。器用に後ろ足で立ち、警戒するようにトラック達を見ている。コメルが驚きと共にその生き物の名をつぶやいた。
「リスギツネ……」
リスみたいなキツネだからリスギツネ。うん。そのまんまだね。まあいいよね。ひねって上下逆にしたら大変だった。いろいろ。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。我に返ったコメルがトラックに説明する。
「リスギツネはリュネーの花しか食べないという、非常に珍しい生き物です。リュネーの乱獲によってすでに絶滅したと思われていました。私も見るのは初めてです」
リスギツネは、リュネーの伝説で狩人に呪いをかけた妖魔の生まれ変わりと言われているのだという。妖魔としての力も、記憶も失いながら、それでもリュネーの姿を求め、その花を食むのだと。なんかちょっと切ない話だなぁ。
「どのくらいの量が必要なのですか?」
エリヤがコメルに尋ねる。コメルは厳しい表情でリュネーの花を見つめた。
「すべて採り尽くす必要は無いにしても、予備も含めてここにある半分は欲しい。しかしそうしてしまえば、リスギツネたちはこの冬を越せないでしょう」
仕方のないことだ、とコメルは言った。エリヤはぐっとこらえるように言葉を飲み込む。トラックがプァンとクラクションを鳴らした。コメルとエリヤはそれを合図に、リュネーの花の採集に取り掛かった。リスギツネたちが怯えるようにクルルと鳴いて、洞窟の奥の壁沿いに固まった。
採集を終え、トラック達は洞窟を出た。洞窟入り口の脇にはまだ、セテスが座り込んでいた。声を掛けることもはばかられるのか、トラック達はゆっくりと、無言でセテスの横を通り過ぎる。するとセテスは、うつむいたままつぶやくように言った。
「私はかつて、リュネーの花を漁る者たちに伏して頼んだ。だが、耳を貸す者は誰もなかった」
太陽はすでに中天に差し掛かりつつある。トラック達はセテスに答えず、その場を後にした。
エリヤはトラック達の隣を歩きながら、気丈にも涙をこらえ、口を真一文字に結んでいました。
(ああ、僕の、新米の握り飯……)




