言葉
時が止まったような静寂が、夕暮れの森の広場に降る。動く者は誰もいない。
――ぴろりんっ
静けさを厭うように軽薄な音が響き、中空に半透明のウィンドウが現れる。
『スキルゲット!
アクティブスキル(ミディアムレア)【星欠け蜘蛛の絡み糸】
使用者を中心とした範囲内にいるすべての対象を
蜘蛛の糸で絡めとり、その動きを封じる』
……スキルのレアリティが肉の焼き加減みたいになってるけど、それはこの際放っておこう。もっと重要なことがあるから。
トラックの発動した【星欠け蜘蛛の絡み糸】は一瞬のうちに、その場にいたゴブリンたちの動きを封じた。トラックの荷台の上に現れた星欠け蜘蛛が吐き出した白く細い糸はゴブリンたちをグルグル巻きにしていて、まるで蚕の繭のような状態である。イヌカを取り囲んでいた三匹のハイゴブリンも、ルーグに鉈を振り下ろそうとしていた族長ゴブリンも、その刃を届かせる前に繭玉と化した。それはいいんだ。ああよかった。ほんと、正直どうなるかと超びびった。無事でよかった。ほんと良かった。ただ、問題は――
――なんで自分たちまで絡めとってんだ!
蜘蛛の糸はゴブリンたちだけでなく、イヌカも、ルーグも、コメルも、そしてトラック自身もグルグル巻きにして動きを封じていた。スキルの説明に『範囲内にいるすべての対象を』ってあったけど、こういうのって都合よく味方には無効だったりするんじゃないの? そもそも、使った本人まで動きを封じられてどうすんだ! みんな仲良く動けなくなってその後どうすんだよ! このスキルはどんな場面で使われることを想定して設計されてんだ!
大小さまざまな幾つもの繭玉が転がる夕暮れの森の広場に、トラックの穏やかなクラクションが響く。相変わらず俺の疑問に応えてくれる奴は誰もいないな。クラクションを聞いた族長ゴブリンの繭玉が、少し震えた。トラックは再度、静かにクラクションを鳴らす。その音は広場に染み入るように広がり、やがてゴブリンたちの繭玉から、すすり泣くような声が漏れ始めた。
「……ごぶごぶ……ごーぶごぶごぶっ!」
ああ、ゴブリンって、「ごぶごぶ」って泣くんだ。トラックがスキルを解除し、繭玉がほつれ、糸が空気に溶けて消える。星欠け蜘蛛もスゥッとその姿を消した。ゴブリンたちは手に持った武器を地面に落とし、膝をついてごぶごぶと泣いていた。その顔にもはや戦意はない。何が起きたのか理解できないように、ルーグもイヌカもコメルも、ぽかんと口を開けてゴブリンたちを見つめていた。
――プァン
トラックは語り掛けるようにクラクションを鳴らす。族長ゴブリンが涙を手の甲で拭い、トラックに答えた。
「……ごぶごぶ。ごごーぶごぶぶー」
ひどく辛そうな表情で、うなだれたまま族長ゴブリンは呻く。それに応えるトラックのクラクションには労りがあった。
――プァン
「ごぶ。ごぶごぶ。ごーごぶ、ごぶー!」
――プァン
「ごぶごぶ!?」
信じられない、というように、族長ゴブリンが勢いよく顔を上げてトラックを見る。族長だけではない、ハイゴブリンも、他のゴブリンたちも一様に、目を丸くしてトラックを見つめていた。
――プァン
トラックが力強くクラクションを鳴らす。ゴブリンたちの表情が、ぱぁっと明るくなった。暗闇の中に一筋の光明を見出したように。そしてゴブリンたちは再び泣き始める。その涙は、先ほどまでとは違う色彩を帯びていた。族長ゴブリンがトラックの前に進み出て、深く頭を下げる。
……えーっと、何だかよく分かんないけど、トラックとゴブリンたちは何らかこう、和解したということだろうか? プァンとごぶごぶのやりとりでいったい何が通じ合ったのか、それを読み取るなんて、
できるわけないやろうがぁーーーっ!!!
完全に置いてけぼりやろうがぁーーーっ!!!
どうなのよこれ? どうするよこれ!? 誰か説明しろやぁーーーっ!!
はっと我に返ったイヌカが、ゴブリンたちを刺激しないよう気配を消してルーグに近付き、その身体を抱えてトラックの助手席側に回った。ルーグは放心したようにおとなしくしている。助手席のドアを少し開け、イヌカはコメルに話しかけた。
「何が起きたかさっぱりだが、ゴブリンどもは大人しくなってる。今のうちに突っ切ったほうがいい」
「い、いえ、ちょっと待ってください」
コメルも呆けたように、トラックに頭を下げている族長ゴブリンを見ているが、それは恐怖から解放された弛緩ではなく、にわかに信じられない奇跡を目の当たりにした時の、呆気にとられた表情だった。コメルの顔が徐々に赤みを増していく。
「私も何が起きたのかはまったく分かりません。ですが察するに、トラックさんとゴブリンの間で、何らかのやりとりが成立したようです。もしそうだとすれば――」
コメルはごくりとつばを飲み込む。そして興奮を抑えきれない、うわずった声で言葉を続けた。
「も、もしかしたら、トラックさんはゴブリンと意思の疎通ができるのかもしれない」
ゴブリンたちは独自の言語を持ち、人間やエルフなどの他種族との間にコミュニケーションが成立しない。だから交流が進まず、交流が進まないから相互理解が深まらない。だがもし、トラックがゴブリンと意思疎通する力を持っているのなら、それはケテルにとって画期的な出来事だろう。なぜなら、意志の疎通ができるということは相手の望みがわかるということであり、相手の望みを知ることができれば、そこに商売が成立する余地があるからだ。そしてコメルの目の前に今、ゴブリンとの通商を独占できる機会が転がっている。
「そんなことがありうるのか? ゴブリンとの会話が成立したなんて話、聞いたことねぇぞ?」
「しかし見てください。我々を襲ってきたゴブリンたちが、トラックさんの言葉で戦意を失いました。言葉で、です。スキルの力で屈服させたわけじゃない」
イヌカの疑惑の目に、コメルはゴブリンたちを指さした。ゴブリンたちは地面に正座し、手を膝の上に乗せて握って大人しくしている。手をトラック達の見えるところに置いているのは『武器を取るつもりはない』という意思表示だろう。戦いの意志はまるで感じられない。
「これは歴史的な大事件ですよ! ゴブリン族という一つの市場がまるまる、ケテルの前に突然姿を現したんです! うまくすればケテル商人の勢力図が一変するかもしれない!」
もはや興奮を隠そうともせず、コメルは紅潮した顔で叫んだ。イヌカが苦々しく顔をゆがめる。気弱そうで人の好さそうな印象だったけど、やはりコメルはケテルの商人なのだ。今の身の危険よりも、未来に存在しうる利益をその目に捉えている。イヌカとしては一刻も早くこの場を立ち去りたいのだろうが、この様子ではコメルを説得するのは難しいだろう。
イヌカの腕にがっちりと身体を掴まれ、ルーグは嫌がるでもなくぼうっとゴブリンたちを見ている。トラックはイヌカたちに向かってプァンとクラクションを鳴らした。
「村に? ……まさか、ゴブリンの村ですか!?」
「ちょっと待て! どうしてそんなところに行く必要がある!?」
コメルとイヌカがまるで真逆の反応を返す。コメルは期待を込めて前のめりに身を乗り出し、イヌカは嫌悪と拒絶を強く滲ませている。
「これはすごい! 過去、ゴブリンの村に『招かれた』人間はいません!」
「危険すぎる! 罠だったらどうするんだ!」
コメルは興奮で判断力が低下している感じで、イヌカの言っていることの方が常識的な判断だろう。ゴブリンという種族は長年にわたって言葉も通じずケテルと敵対していたのだ。それが急に和解しました、村へどうぞと言われて、簡単に信じる方がどうかしている。ましてついさっきまで命のやりとりをしていたのだ。罠の存在を疑うのも冒険者として当然だろう。ゴブリンたちは戦う意思がないように見える、とはいえ、すべて演技だという可能性だってあるのだ。その可能性の是非を判断できないほどに、人間はゴブリンのことをまだ知らない。ゴブリンが何を喜び、何に怒り、何を悲しむのか、まだ誰も知らないのだ。
イヌカの怒りに似た感情をいなすように、トラックは冷静なクラクションを返した。イヌカは話にならないというように小さく首を振り、トラックをにらむ。
「大丈夫だってんなら根拠を言え! オレたち全員の命に関わる問題だぞ!」
イヌカの叫びを、ゴブリンたちはじっと黙って聞いている。言葉の意味は分からなくても、イヌカとトラックが何かもめていることは伝わっているだろう。ゴブリンたちだって、簡単に信用されないことは理解しているのだ。コメルも少し冷静さを取り戻したのか、口を閉ざしてトラックのリアクションを待っているようだった。ルーグの瞳が何かに怯えるように揺れている。トラックは少しの間沈黙すると、短くはっきりとしたクラクションを鳴らした。
「目、だと?」
イヌカは訝しげに眉をひそめ、そして苛立ちと共に奥歯を噛んだ。トラックの回答、つまり大丈夫であることの根拠はゴブリンたちの目、だったのだろう。求めているものとは程遠い、ただの直観。それでイヌカに納得しろというのは無理な話だ。だが逆に言えば、それはイヌカがトラックを翻意させる糸口もないことを意味している。直観を理屈で覆すのは難しいのだ。イヌカがトラックの根拠にならない根拠をなじろうと口を開きかけたとき、それを遮ったのは、ルーグだった。
「……アニキに言ってること、何となくわかるよ。たぶん、だいじょうぶだ」
ルーグはイヌカの腕をそっとほどくと、二歩前に出て、そしてイヌカを振り返った。トラックへの苛立ちを乗せたイヌカの怒声はルーグに向かい、
「お前は黙って――」
そして尻すぼみになって消えた。じっとイヌカを見つめる、ルーグの瞳に吸い込まれるように。ルーグの目は普段とはまるで別人のように、まるで罪に怯える咎人のように、頼りなげに沈んでいる。
「……行こう。たぶん、行ったほうがいい。おれたちはきっと見たほうがいい。知ったほうが、いい」
その声は許しを請う祈りの響きに似て、イヌカの反論の言葉を封じた。イヌカはルーグから目を逸らし、最後の望みを賭けるようにコメルに顔を向ける。
「……エルフの集落に、今日中に着くことはできなくなるぞ?」
「納品の期日は明日です。それになじみのお客様ばかりですから、事情を話せばわかってくださいます。今はこちらを優先しましょう」
コメルの回答に、イヌカは目を閉じ、長く息を吐いた。トラックはゴブリンたちに向かってクラクションを鳴らす。族長ゴブリンはうなずき、他のゴブリンたちに「ぐぎゃ」と合図をして立ち上がった。族長に倣い、他のゴブリンたちも一斉に立ち上がる。そして族長ゴブリンはトラック達を先導するように歩き始めた。
「行こう」
ルーグが厳かに出発を告げる。族長の背を追って、トラック達もまた進み始めた。トラック達をゴブリンたちが、距離を保ったまま囲む。それはトラック達を守るためのようでもあり、逃がさぬためのようでもあった。
やがてトラック達の前に、完全武装のゴブリンたちの一団が姿を現しました。トラックは驚愕と共に叫びます。「ちくしょう、罠だったのか!」




