願いの力
樹海が消え、お婆さんの家から無事に帰還したトラック達を、西部街区の人々は喝采で迎えた。お婆さんは身体に変調がないか調べるため、一度施療院に運ばれて検査を受けることになった。一週間も眠り続けていたのだ。足腰が衰えているかもしれないし、食事も普通の固形物を食べないほうがいいかもしれない。こういうときに西部街区の下町人情は強い。周辺の住人はよってたかってお婆さんを心配している。特にエバラは、トラック達から事の顛末を聞いて大いに反省するところがあったらしい。「これからはもっと気に掛けるようにするよ」と決意を新たにしていた。
「無事に帰ったみてぇだな」
エバラとの話を終えたトラック達に、ジンゴローが声を掛ける。その表情は険しく、迷いや割り切れなさを抱えているように見えた。
「……おいらぁよぅ。あの樹に、会ったんだ。おめぇさんたちより先に、引っ張り込まれてた間にな」
樹はトラック達の時と同様、樹海を消したければ自分を切れ、と言ったのだそうだ。しかしジンゴローは樹を切ることができなかった。ジンゴローには答えられなかったのだ。樹の、「彼を失った世界で生き続けることが、本当に彼女の幸せだろうか?」という問いに。
「ウチのかかぁはよ、口うるせぇしケチだしすぐ怒るしよ、おいらぁもう尻に敷かれっぱなしよ。でもよ」
ジンゴローはまるで似つかわしくない、気弱げな表情を浮かべて言った。
「……かかぁがもし先に死んだらよ、それから長生きしてぇかって言われっと、したかねぇなってよ、そう思っちまったんだよ」
年取ると余計なこと考えていけねぇな、ジンゴローはそう言って苦笑した。樹海に引きずり込まれて一週間、ジンゴローはずっと葛藤していたのだろう。幻の幸せに包まれて生を終えることと、苦しみを抱えて生きていくこと、お婆さんにとって最良の選択は何なのか。セシリアは迷いなく生きることを善しとしたけれど、それはたぶん彼女がまだ若くて、偽りが与える幸福の価値に思いが至らないだけだったのだろう。俺だってあんまり理解できるわけでもないけど、人生で自分の時間がもう残り少ないことを自覚したとき、その少ない時間をずっと苦しみながら生きるのは、苦しみを克服する努力を続けていくことは、そんなに簡単じゃないと思う。きっと必要なのは、本人が強くなることでも、幻に溺れることでもないのだ。それが何かと言われれば、答えは出ないけれど。
ジンゴローは表情を改め、背筋を伸ばすと、真剣な瞳でトラック達を見た。
「おめぇさんたちは、正しい。正しいことをした。おいらが保証する。ありがとう」
ジンゴローが深く頭を下げる。セシリアは少しの間だけ目を閉じ、そして目を開くと、小さな声で「……ありがとう、ございます」とつぶやいた。
ジンゴローの背を見送り、トラック達は何となく動く気にならない、というようにその場に留まっていた。樹海は消え、お婆さんの命は助かった。だけどあの樹が救いたかったのは、お婆さんの心だったのだ。
「……『スキルは神の賜物』って言ってな」
不意に剣士が口を開く。全員が剣士を振り返った。
「強い願いに応えて、神はスキルを授けるんだそうだ。望まぬ力を授かることはない。あの樹がスキルを覚えたのなら、あの樹の願いは本物だったんだろう」
あの樹の願いはお婆さんに笑ってもらうこと。でもそれは、もうこの世では叶わない。樹はそう思った。だから樹はお婆さんを、幸せな夢を見せたままで送ろうとしたのだ。【夢見の樹海】というスキルは見事なまでにその願いに沿った力だった。
「お前はあの樹の想いを間違っていないと言ったな?」
剣士がセシリアに問いかける。セシリアは硬い表情でうなずいた。
「俺たちは婆さんを助けたが、そのためにあの樹の想いを封殺した。間違っていない想いを殺したのなら、俺たちはあの樹の想いを継がなきゃならん」
「想いを、継ぐ?」
セシリアが軽く目を見開き、剣士を見つめる。セシリアはあの樹の手段を否定したが、ならば別の手段で願いが叶えられることを証明しなければならない。そうでなければ想いも一緒に否定するのと変わらない。お婆さんの命を奪わなくても、お婆さんが笑顔を取り戻すことはできるのだと、それを証明することがきっと、想いを継ぐ、ということなのだろう。
「婆さんは生きてる。まだ終わっちゃいないぞ。俺たちにできることはまだある」
「……はい」
セシリアは大きく息を吸い、複雑な思いを吐き出すように返事をした。その表情は少しだけ和らいでいる。剣士は手を伸ばし、セシリアの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「上出来」
「子ども扱いしないで」
剣士の手を振り払い、セシリアが上目遣いににらむ。剣士はふふんと小憎らしい笑みで応えた。やり取りを黙って見ていたイヌカが感心したように口を開く。
「大したもんだ。今日から教会の説教師に職替えか?」
「うるさい」
イヌカの皮肉めいた言葉に剣士が不快そうに鼻を鳴らす。イヌカはにやっと笑ってさらに続けた。
「『スキルは神の賜物』なんて、今どき教会の説教でしか聞かねぇぞ。もし本当にスキルを神が授けるなら、悪党やら、それこそオレたちみたいなのがスキルを使えるのはおかしいだろ」
「話の枕に使っただけだ。細かいところに突っ込むんじゃない。それに――」
剣士が少しだけ目を伏せる。どこか苦いものを含んだ声で、剣士はつぶやくように言った。
「願いに応える、ってのは間違いじゃない」
神がスキルを与えるのかどうかは分からないが、スキルが当人の願いを反映した力であることは確かなのだろう。願いの善悪は問題ではない。強い願いが力として結実した姿を、この世界の人々はスキルと呼ぶのだ。イヌカは表情を改め、
「……そうだな」
と言ってうなずいた。
願いに応え、願いを叶える。この世界のスキルは、そういう存在なのだ。だから強く願いさえすればきっと、叶うはずなのだ。誰かを絶望から救い出すことも、誰かに希望の灯を点すことも、悲しみの涙を喜びの笑顔に変えることも、必ずできるのだ。願いが力になる、この世界なら。
「そういや、ルーグはどこ行った?」
周囲を見回しながらイヌカがふと気付いたように言った。言われてみれば、外に出てきたトラック達を迎えた人たちの中にルーグの姿はなかった。意外だな。真っ先に飛んできて何があったか聞いてきそうな気がするけど。もしかして、連れて行ってもらえなかったからすねて帰っちゃったのかな?
トラック達が樹海に入ってから出てくるまで、体感的には何日も経っているような気がしていたけど、実際の経過時間は二時間ほどだったようだ。その間に町内清掃はあらかた終わっており、トラック達を迎えた西部街区の人々は事態が気になって残っていたやじ馬だった。参加者にはすでに終了が伝えられているため、ルーグがすでに帰っていてもおかしくはない。でも、勝手に帰っちゃうような子じゃない気がするんだけどなぁ。
お、冒険者Aたちはまだ残ってるじゃん。住人達と一緒に普通に清掃活動してたんだな。それはそれで大事よ。地道な努力が信頼を生むのだ。
「あ、おい! ちょっと!」
イヌカも冒険者Aたちの姿に気付いたらしく、大きく手を振って呼びかける。冒険者Aたちは律義にイヌカのところまで走ってきた。イヌカは手短にルーグの居場所を尋ねる。ああ、という感じで冒険者Aは答えた。
「さっき、向こうの路地に走っていきましたよ」
なんだか慌てた様子で、と冒険者Aの仲間が言葉を加える。なんだ、すねて帰ったわけじゃないのか。慌てた様子で路地って何だろう。イヌカは冒険者Aたちに礼を言うと、教えてもらった路地に向かって歩き出した。トラック達もイヌカに続く。
「……! ……っ!!」
路地に近付くと、かすかに言い争うような声が聞こえてきた。この声はルーグ? 言い争っていると言うには、不自然に声を抑えているように聞こえるけど。イヌカが心配そうに顔をしかめ、路地に飛び込む。
「どうした!?」
「い、イヌカ!?」
驚きの声と共にルーグが振り返る。ルーグと言い争っていたであろう相手が、ちょうど背を向けて立ち去る後ろ姿が見えた。イヌカの後ろにトラック達の姿を認め、ルーグがホッとしたような息を吐いた。
「帰ってきてたんだね。よかった」
「言い争ってたみたいだが、何があった?」
イヌカの問いに「うっ」と言葉に詰まり、ルーグの視線がトラックに向く。そして今度はセシリアを見て、バツの悪そうにうつむいた。イヌカが怪訝そうに眉をひそめる。
「言えねぇようなことをしてたのか?」
イヌカったらまた説教臭い大人みたいな態度で。ルーグは意味なく頭を掻き、「あー」とか「うー」とか唸っていたが、やがて覚悟を決めたようにふっと息を吐くと、恥ずかしそうに小さな声で言った。
「……立ちションしようと思って路地に入ったら、近所のおっさんに怒られたんだよ」
ルーグの告白にイヌカは拍子抜けした顔で「そんなことかよ」と軽く身体を傾げた。ルーグは「セシリア姉ちゃんの前で言わせるなよ」とふくれっ面だ。セシリアはルーグの言葉がよく聞こえていなかったのか、不思議そうな顔でルーグを見ている。
「そんなことよりさ、中で何があったか話してくれよ! おれだけ知らないなんて嫌だからな!」
ごまかすように大きな声を出して、ルーグはイヌカの横を抜け、トラックに駆け寄る。トラックはプァンとクラクションを返し、助手席のドアを開けた。助手席に飛び乗るルーグにセシリアが微笑み、剣士が軽く肩をすくめた。しかしイヌカは、どこか釈然としない面持ちでルーグの仕草を注視しているようだった。
イヌカは疑いの眼差しでルーグを見つめます。「あの子ったら、立ちションしてから手を洗ってないんじゃないかしら?」




