夢
トラック達が突入した建物の中は、ジンゴローの言った通りまともな世界ではなかった。そこは文字通りの樹海――無数の木々が生い茂る広大なジャングルだったのだ。建物の面積を明らかに越えて広がる森を、トラックは剣士とイヌカを乗せて走った。
この樹海で起こった数々の冒険は、トラック達に多くの成長とわずかな痛みをもたらした。セシリアを探す途中で訪れた村に住む住人たちとの出会い。暴虐な支配者による苛烈な支配。巨大食虫植物に囚われるイヌカ。支配者を打ち倒し村を救ったトラック達は、しかしその背後に暗黒樹海騎士団の存在を知る。セシリアを連れ去ったのが暗黒樹海騎士団だと知ったトラック達は、暗黒樹海騎士団との戦いを決意する。迫りくる樹海四天王の脅威。繰り返される死闘。巨大食虫植物に囚われるイヌカ。トラック達との戦いの中で、樹海四天王の次席である針葉将軍ツンドラは己が忠誠を捧げるべき暗黒女帝に対して疑念を募らせていく。トラック達に敗れ、さらには暗黒女帝によって処刑されそうになったところを剣士に救われたツンドラは、暗黒樹海騎士団を離れてトラック達と行動を共にする。己が傷付くことを厭わず前だけを見据える剣士の姿に、いつしかツンドラは淡い思慕を抱いていた。
ツンドラの助力で無敵と思われた樹海四天王筆頭、雨林将軍アマゾーンを辛くも撃退したトラック達は、ついに暗黒女帝の前に立つ。しかしトラック達の前でその正体を現したのは、黒衣に身を包んで妖艶に微笑むセシリアであった。暗黒女帝とは、はるか昔に体を失い魂だけの存在となって、秘術により他者の肉体に憑依することで生き永らえてきた古の魔女であったのだ。セシリアの身体を傷付けることができず、為す術のないトラック達。容赦なく襲い来る攻撃魔法。巨大食虫植物に囚われるイヌカ。絶体絶命の危機に陥ったそのとき、ツンドラは自らの命を懸けた起死回生の一手を放った! それは、封魂の法――すなわち、他者の魂を自らの身体に封じる禁呪。暗黒女帝の魂を自らの肉体に封じたツンドラは、剣士の制止を振り切り、自らの胸に刃を突き立てた。
剣士の腕の中でツンドラは微笑み、小さな光の粒となって風に舞う。セシリアは両手を広げ、光の粒を一か所に集めた。光は地面に吸い込まれるように消え、そして光が消えたその場所には、小さな、しかし生命力に満ちた針葉樹の芽が顔をのぞかせていたのだった。
そんな大冒険の末、セシリアと合流したトラック達は、樹海の奥へと突き進む。そして辿り着いたのは、樹海の中心。そこは鬱蒼とした森の中に唐突に現れた、民家の寝室だった。
「――ここまでたどり着いたか」
ひび割れた、人でないものが無理やりしゃべっているような不自然な声が寝室に響く。寝室には藁を敷き詰めただけの粗末なベッドがあり、その上には一人の老婆が穏やかな、幸せそうな微笑みを浮かべて眠っている。老婆の傍らには一本の樹が佇んでおり、眠っている老婆をじっと見つめていた。
「……森の賢者?」
セシリアが驚きを含んだ声を上げる。しかし樹は首を横に振るようにカサカサと枝葉を揺らせた。
「私は精霊ではない。老夫婦に育てられ、いつの間にか意志を持ったというだけの、ただの樹木にすぎない」
樹は老婆から視線を離すことなく、独り言のようにつぶやく。いや、意志を持ったって時点でただの樹木じゃないけどね。イヌカが訝しげに口を開いた。
「ただの樹が意志を持つなんてことがあんのか?」
「万物は、それがいかなるものであっても、何かの精霊力を宿していると言われています。元々強い精霊力を持った個体が人の想いに触れたとき、それに応えようと意志を宿す、という例は、極めて稀ですが皆無ではありません」
イヌカの疑問にセシリアが答える。えーと、つまり、どういうことだろう? 元々強い精霊力? を持っていたこの樹が、お婆さんたちに大切に育てられたことで意思を持った、という解釈でOK?
「お前がこの樹海の元凶か?」
剣士の問いに樹は無反応だった。樹はそっと枝葉を伸ばし、老婆の頭を優しく撫でる。まるで愛しいものに触れるように。剣士たちの顔に戸惑いが浮かぶ。トラックが静かに、穏やかなクラクションを鳴らした。樹が不思議そうに小さくつぶやく。
「……なぜ?」
樹は何か考えるようにしばし沈黙する。そしてぽつり、ぽつりと、まるで自分の想いを整理するように話し始めた。
樹は今から十年以上前に、鳥に運ばれた種がお婆さんの庭に落ちて芽吹いた。当時はまだお爺さんも存命で、樹に最初に気付いたのはお爺さんだったらしい。夫婦は「いったい何の樹なのだろうね?」と笑い合い、樹に水を遣り、その成長を見守った。
とにかくよく笑う夫婦だったそうだ。日常の小さな喜びを見つけ、それを二人で共有する。相手が見つけた本当にささいな幸せを、よく見つけたなぁと褒め合って、二人はいつも笑っていた。しかし――
「彼がいなくなり、彼女は笑わなくなった」
お爺さんが急に亡くなり、お婆さんは独りになった。互いに笑い合っていた日々が消えた。お爺さんを失ったのは自分のせいではないかと、もっとできることがあったのではないかと、お婆さんはずっと自分を責めていたらしい。灯りの消えた家の中で、お婆さんはずっと泣いていた。
「そのとき、私にはまだ明確な意思はなかった。ただ、漠然とした焦燥のようなものをずっと感じていた。見ていることしかできないこの身が恨めしかったのだろう。私の中の焦燥は徐々に全体を満たし、ある日突然、弾けた。あらゆるものが鮮やかに認識されるようになった。世界の意味を、実感した」
樹は意思を獲得し、そして自身の願いを自覚した。
「彼女にとって彼は欠くべからざる存在だった。しかし死者を呼び戻す術はない。私は必死に考えたよ。私は彼女に何をしてあげられるのか」
ある日、樹は夢を見たのだという。夢の中ではお婆さんがいて、お爺さんがいて、二人は楽しそうに笑っていた。夢から覚め、樹は気が付いた。夢の中でなら死者と会える。たとえそれが幻であったとしても、本人がそれを幻と気付かなければ、それは本人にとっての真実たり得るのではないか。そう思い至った時、樹に一つの力が宿った。
「そうか! これは、【夢見の樹海】……!」
セシリアがハッとした様子で声を上げる。情報を補足するように中空に半透明のスキルウィンドウが現れた。
『スキル【夢見の樹海】(レア)
対象者を深い眠りへと誘い、術者の望む夢を見せる。
また、対象者を中心とした一定の範囲を樹海化し、
対象者の眠りを妨げるものを排除する結界と化す』
「樹が、スキルを覚えたってのか?」
剣士が信じられないというふうに軽く目を見開いた。樹は淡々と話を続ける。
「私に宿ったこの力が何を意味するのかは分からない。だが、これは私の願いを叶える力だと直感した。迷いは、なかった」
樹は最初からずっと、お婆さんだけを見つめている。他の何者にも興味はないと言いたげに。お婆さんは幸せそうな微笑みを浮かべている。
「【夢見の樹海】は本来、相手を眠らせたまま衰弱死させる呪いです。このまま眠らせ続ければお婆さんは死んでしまう。それを理解した上でのことですか?」
セシリアは厳しい表情で樹に問いかける。樹海が発生して一週間、つまりお婆さんは一週間眠り続けていることになる。時間の猶予はない。
「夢から覚めれば彼女は泣く。彼を失った世界で生き続けることが、本当に彼女の幸せだろうか?」
樹の静かな問いにセシリアは一瞬、気圧されたように言葉に詰まった。しかし、と反論を口にしようとしたセシリアを、トラックのクラクションが制する。樹が初めてトラックに、お婆さん以外のものに目を向けた。
「……そう、かもしれない。いつか喪失を乗り越える日が来るのかもしれない。私は人ではないから、人の未来を想像することは傲慢なのかもしれない。でも――」
樹は自嘲するようにうなだれ、枝葉がカサカサと音を立てた。
「――私にできることは、これだけだったから」
寝室に静寂が降る。お婆さんの静かな寝息だけが聞こえた。お婆さんの顔は幸せそうだ。きっとお爺さんがいたとき、お婆さんはいつもこんなふうに笑っていたのだろう。
何かを振り払うようにセシリアが大きく息を吸い、殊更に厳しい瞳で樹を見つめた。
「【夢見の樹海】を解除しなさい。どんな想いがあろうと、命を奪うようなやり方を見過ごすことはできない」
樹は首を振って拒絶の意志を示した。しかしその様子はどこか弱々しい。きっと気が付いているのだ。自身の願いと方法との矛盾に。
「解除したいのなら、私を切るといい」
「自分の意志で解除する気はないと?」
樹は再び首を振る。情けない、と言いたげなため息を吐き、樹はひどく疲れた様子で言った。
「スキルというものを使うのも初めてだった。解除の仕方が分からないのだよ」
セシリアがやりきれなさを閉じ込めるように強く目をつむる。お婆さんを助けるには木を切るしか――殺すしか、方法がないのだ。セシリアは目を開ける。その翠の瞳には同情も憐憫もなく、ただ己の為すべきことを為す意志だけがあった。
剣を抜きかけた剣士を制して、セシリアが樹の傍らに歩みを進める。樹は抵抗するでもなく、じっとお婆さんを見つめていた。セシリアが樹に向かって手をかざし、淡い魔法の光が樹を包んだ。
「……死を、望んでいたわけではない」
光に同化し、溶けるように透けていきながら、樹は独り言をつぶやく。
「笑っていてほしかった。ただ、それだけなんだ――」
樹を包む光は徐々に強さを増し、やがて目を開けていられないほどの輝きが寝室に満ちる。そして光が消えたとき、樹はその姿を消し――
「あなたは方法を間違えた。けれど……」
さっきまで樹がいた場所には、小さな一本の苗木があった。
「あなたの想いが間違いだったと、そう言うことはきっと、誰にもできない」
文字通り夢から覚めるように、寝室を覆う樹海の植物が徐々に透け始める。イヌカがいまいち理解できない顔でセシリアに言った。
「どういう、ことだ?」
セシリアは感情を見せぬ無表情で淡々と答える。
「樹から精霊力の大半を奪いました。もうこの樹には意思も、記憶もありません」
意思が願いを生み、願いがスキルをもたらしたのなら、スキルの発動を止めるには願いを、願う心を消すしかない、ということなのだろうか。イヌカが納得したようなしていないような様子で額にシワを寄せた。剣士がセシリアの肩をポンと叩く。セシリアの無表情が、悲しかった。
やがて樹海は完全に消え去り、建物の姿もごく普通の下町の民家に戻った。ベッドで寝ているお婆さんをセシリアたちが見守っている。トラックは――寝室の壁に見事に突き刺さってるよ。樹海そのものがすべて夢で、元からそういう状態だったのか、樹海が消えて家が元の状態に戻った時にトラックが居た位置が壁と重なったのかはわからんが、後でセシリアに直してもらってください。目が覚めて壁に穴が空いてたらお婆さん腰抜かすわ。
お婆さんのまぶたがピクリと動き、そしてゆっくりと開かれる。セシリアが傍らに寄り、「ご気分はいかがですか?」と声を掛けた。お婆さんはどこかぼんやりとした様子で答えた。
「……夢を、見ていたわ。あの人がいて、『あの樹にはどんな花が咲くのかな』って、そう言うの」
お婆さんは首を横に向ける。ベッドの横にある苗木に気付き、お婆さんはゆっくりと手を持ち上げ、そっと幹に触れた。
「あなた、ずいぶん小さくなったわね」
そしてお婆さんは苗木の幹を撫でながら、かすかに微笑んだ。
「ごめんなさいね。私、もっとしっかりしなくちゃね」
夢から覚めたばかりでまだ意識が曖昧なままなのか、それとも何もかも分かっているのか、お婆さんの内心を推し量ることはできなかった。お婆さんに撫でられ、記憶も心も失ったはずの苗木は、嬉しそうにカサカサと枝葉を揺らしていた。
そして数年後、苗木は立派に成長し、針葉将軍ツンドラとして再臨することになるのです




