宴
揺れる車内でルーグは、少し思い詰めた顔をしていた。自分の浅はかさを呪うような自嘲めいた笑みを浮かべ、唇を噛む。南東街区の悪路にトラックの走行音だけが響いていた。
「ド、ドロボーっ!!」
真昼の静寂を切り裂くように老婆の悲鳴が聞こえる。トラックはブレーキを踏み、周囲を窺う。すると一人の男がトラックの左手から現れ、目の前を横切って走り去った。男が現れたほうを見ると、老婆が地面に座り込んで逃げ去った男の背を怒りの形相で睨んでいる。トラックは大きくハンドルを切り、アクセルを踏んで男を追いかけ始めた。
「アニキ! ほっとけって! そんなんに構ってたらキリがないよ!」
ルーグの抗議の声を無視して、トラックはスピードを上げる。路上に放置されたゴミが撥ね飛ばされて派手な音を立てた。逃げる男が後ろを振り返り、ぎょっとした顔をして足を速めた。
広い直線の道であれば人間の足でトラックを振り切ることは不可能だろうが、南東街区の狭くて曲がりくねった道はトラックに思うような加速を許してくれない。土地勘のなさもあり、トラックは男になかなか追いつくことができないまま、もどかしい追跡を続ける。だが、人は疲労する。男の走る速度は徐々に落ち、やがて男は一軒の粗末な家の中に倒れるように飛び込んだ。トラックが家の前に横付けする。まともな玄関もない、入り口にむしろを吊り下げて扉の代わりにしている家だ。男がむしろを上げずに飛び込んだことで、今は吊っていた麻ひもが切れてむしろは地面に落ち、中の様子が見えた。家の中には疲労困憊で倒れ込んでいる男と、怯えたように身をすくめる若い女がいた。
「いったい、なんだってんだ……!」
ゼイゼイと荒く息をしながら男が忌々しげにつぶやく。よく見ると、男は以前少女を追いかけていたガラ悪男の一人だった。あのときは盗まれる側だった男は、今度は盗む側になったということか。
「……もう、よそうよ、アニキ。こんなことしたってなんにもならないよ」
ルーグは助手席で目を伏せる。その声にはどこか倦み疲れたような諦念があった。
「この前、アニキは盗んだほうに肩入れしただろ? 今回は盗んだやつを責めるなんて、おかしいじゃないか」
ルーグの言葉は淡々としていて、トラックを責める意図は感じられない。ただ、ひどく重たい疲労感をまとい、息苦しく澱んでいる。
「ここはそういう場所なんだよ、アニキ。誰だって盗むし、奪われるんだ。いいも悪いもない。ただ、そうだっていうだけなんだ」
南東街区では、自分と自分が守りたい誰かのために、誰もが自分にとってどうでもいい自分よりも弱い相手から奪って生きている。奪われた者は自分よりさらに弱い相手から奪い、そのどん詰まりで一番弱い者が、誰からも顧みられずにひっそりと消えていく。善悪はこの場所のルールではない。ルーグはそう言っているのだ。
ガラ悪男は多少なり回復したのか、上半身を起こしてトラックをにらみ上げた。痩せて青白い顔をした女はガラ悪男の背中に隠れる。ガラ悪男にも守りたいものがあるのだ。他人を犠牲にしても、守りたいものが。
トラックはルーグの言葉を聞き、カチカチとハザードを焚いた。ルーグはそれ以上何も言わず、ガラ悪男は徐々に息を整え、どう事態を切り抜けるか考えを巡らせているようだ。女の肩が不安と恐怖に震えていた。わずかな、いや、もしかしたら意外と長い時間だったかもしれないが、トラックはハザードを消した。ガラ悪男の顔に緊張が滲み、身構えようと身体を動かしたとき、トラックが思いがけぬほどの大きく長いクラクションを周囲に響かせた。ガラ悪男が怪訝そうにトラックを見上げる。ルーグもポカンとした様子で口を開けた。
「宴だ、って、アニキ、何言ってんの?」
ルーグの疑問に応え、スキルウィンドウが【キッチンカー】の発動を告げる。トラックが右のウイングを広げると、荷台の中には以前と同じく結構本格的な調理設備があり、そして、三人の料理人が腕を組んで立っていた。
なんか増えとる!? 料理人増えとる!
一人は前からいた謎のイタリア人だが、その隣にいるのは六十がらみの、いかにも職人風の男だった。和の鉄人っぽい雰囲気の白い調理服を着ており、短く刈り上げた白髪が年季を物語る。細身で眼光鋭く、前掛けは『寿司バカ一代』と藍色に染め抜かれていて、半世紀は寿司握ってます、という頼もしさが全身からにじみ出ていた。
もう一人は五十前後の女性で、こちらは親しみやすさがウリの大衆食堂のおばちゃん、という感じだった。髪をひっつめて無造作に後ろで結び、何だかよく分からない鳥のキャラクターがウインクしている柄のエプロンを着けている。不敵な笑みを浮かべたその顔は自身の腕前に対する強烈な自負に溢れ、貫禄のある腹回りが威圧感を強調していた。
何が起こったのか、そして何が始まるのかまったく分からない様子で、ガラ悪男と女が戸惑いおののいている。ルーグは身を乗り出して叫んだ。
「待ってよアニキ! こんなことしたって――」
「オーソーレミオー」
ルーグの声をさえぎるようにイタリア人シェフが無駄にいい声で歌い始める。ルーグは顔を歪ませ、言葉の続きを飲み込んだ。イタリア人シェフは歌いながら、右手で寿司職人を示しながら調理台を譲る。
「まずは一品、あいさつ代わりだ」
いかめしい顔のまま、寿司職人は無駄のない見事な手さばきで魚をさばいていく。魚は鮮度が命だ。自らの手から伝わる体温ですら、魚から致命的に鮮度を奪う。寿司職人は必要最低限の接触で料理を仕上げていく。すぐに料理は完成し、
「――お待ちどう」
差し出された盆の上に乗せられていたのは、
「サバの味噌煮定食でございやす」
寿司じゃねぇのかよっ! 寿司バカ一代どこ行った!? 寿司職人は「いえーい」と言いながらイタリア人シェフとハイタッチをかわした。このヤロウ、やってやった的なドヤ顔が腹立つわー。
「今度はあたしの番だね」
のそりと身体を揺らし、食堂のおばちゃんが調理台の前に進み出る。芝居がかった仕草で寿司職人がその場を譲った。おばちゃんは大きな中華鍋を取り出し、おたまで油をすくって鍋に入れて熱し始めた。
「中華の基本は火力だが、中華の奥義もまた火力だ。炎を操り、炎を従える。炎の主人になることができて初めて、人は中華料理人を名乗れるのさ」
手早く刻んだ具材を入れて鍋を振ると、ジャっと小気味いい音が立つ。細切りにしたタケノコ、ピーマン、パプリカ、長ネギ、そして牛肉。オイスターソースベースの合わせ調味料を加えて一気に炒め合わせると、辺りに何とも言えない食欲をそそる匂いが広がった。おたまで中身をすくい、豪快に皿に盛りつけ、
「さあ、できたよ」
差し出された盆の上に乗せられていたのは、
「サバ味噌定食、お待ちどうさま」
なんでじゃぁーっ!!! 中華鍋でどうやってサバみそが出来上がるんだよ! そもそも牛肉炒めてたじゃねぇかよ! 明らかにチンジャオロース作ってたろうがよ! 炎の主人うんぬんは何だったんだよ! お前らは何か、どんな材料で何を作っても一皿目は必ずサバみそになる呪いにでもかかっているのか?
おばちゃんは「いえーい」と言いながら二人の料理人と拳を突き合わせる。なんか腹立つわー。してやったりみたいな顔しやがって。
湯気を立てるサバみそ定食の匂いにガラ悪男が思わずつばを飲んだ。過程はともかく、二人の料理人が作ったサバみそはとてもうまそうだ。いや、俺も別にサバみそが嫌いなわけじゃないんだよ? むしろ好きな方なんだよ? ただ、あまりに期待を裏切られるというか、やっぱイタリア人シェフにはイタリアンを作ってほしいし、寿司職人には寿司を握ってほしいし、中華料理人には中華を作ってほしいじゃない? せめて最初の一品はさ。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。おばちゃんが二つの盆を持って荷台を降り、「さあ、おあがり」と言ってガラ悪男とその後ろにいる女に渡した。盆を受け取ったものの、しばらく逡巡していた二人は、やがてサバみその匂いに喚起された食欲に負け、恐る恐る箸をつけた。
「……うまい!」
二人はサバみそをひと切れ口に入れると、大きく目を見開いて互いの顔を見合わせ、そして今度は一心不乱にサバみそを食べだした。おばちゃんが満足そうにうなずく。寿司職人は七輪を取り出し、なぜかウナギを焼き始めた。何度もたれに付けては焼くことを繰り返すと、これまた食欲をそそるいい匂いが辺りに漂う。トラックが再び周囲に鳴り響くような大きなクラクションを鳴らし、それに呼応するようにおばちゃんが声を張り上げた。
「腹の減ってる奴はここに来な! 金は要らない、全部おごりだ! もう食えないって言うくらい、たらふく食わせてやるよ!」
その言葉を合図に、今まで何をしてもピクリとも動かなかった周辺の人の気配がざわついた。やがてぽつり、ぽつりと人がトラックの周りに集まり始める。みな一様に警戒しながら、しかしウナギの匂いに負けたのだろう。その数はみるみるうちに増えていき、ついには百人を超える数の人間がトラックを取り囲んだ。
「こいつぁ、腕が鳴るってもんだ」
寿司職人は不敵な笑みでそう呟くと、他の二人の料理人と視線を交わし、そしてすさまじい速度でサバみそを量産していった。ウナギの匂いで釣ったのにウナギ出さねぇのかよ。他の二人もやはりサバみそしか作らなかった。つまりアレだ。この宴は、サバみその宴ということだな。もうそういうことにして納得する以外にないな、うん。
南東街区にこんなに人がいたのか、というくらい次から次に現れる人の群れに、三人の料理人は驚異的な作業量でサバみそ定食を供給していく。人々は初めて食べるサバみその味に驚き、時に涙を流しながらきれいに完食した。異世界でも受け入れられるサバみその偉大さよ。
通りのあちこちで、腹を満たされた人々がほっとしたような笑顔を浮かべている。言葉を発することもなく影のように気配を消していた人々が、「おいしかった」「また食べたいね」と話している。生き返った、というと大げさかもしれないが、人々を覆っていたとげとげしい不信が今は明らかに和らいでいた。
「あ、あの、包んでいただくことはできますか?」
二十代くらいの女が、ためらいがちにおばちゃんに声を掛ける。おばちゃんは中華鍋を豪快に振りながらニッと笑うと、
「持っていきな」
そう言って、どこからともなく取り出したまげわっぱに白米とサバみそを詰めて手渡した。女はほっとした顔でまげわっぱを受け取り、大事そうに抱えた。きっとどこかに食べさせたい相手がいるのだろう。周囲の人々が「俺も」「私も」とおばちゃんに殺到しようとしたとき、場違いに乱暴な声が通りに響いた。
「おいおい、何の騒ぎだこりゃ」
冷水を浴びせられたように人々の表情が強ばる。声のした方を見ると、いかつい顔の男たちが三人、周囲を威嚇しながら歩いている。海を割るように人々が道の脇へ退いた。
「ここはガトリン一家の縄張りだ。勝手なことをしてもらっちゃ困るな」
ガトリン一家、って、こいつらはマフィアの一味だということだろうか。トラックの助手席のルーグが、「げっ」とつぶやいてフロントガラスから見えない位置に身を沈めた。男の一人が、さっきまげわっぱを受け取った女に近付き、まげわっぱを奪い取る。
「あっ……」
女が怯えと悔しさが入り混じった声を漏らした。男は奪ったまげわっぱを大きく天に掲げると、
「迷惑なんだよ、お兄さん」
思いっきり地面に叩きつけた。乾いた音を立てて薄い杉板が割れ、サバみそが道に散らばる。
「いきなり何するんだい!」
おばちゃんは怒りの声と共にマフィアたちをにらむ。イタリア人と寿司職人も厳しい視線を奴らに浴びせた。トラックが静かな怒りを乗せたクラクションを鳴らす。辺りを包む空気が一気に緊張感を増した。しかしマフィアたちは動揺することもなく平然と立っている。場数を踏んでいるということなのだろう。
「バカ騒ぎは終わりだ! 散れ!」
マフィアたちが周囲の人々を吹き散らすように大きく腕を振った。カチンときた様子でおばちゃんが吠える。
「こんな連中の言うことなんて聞く必要ないよ! 食い足りないなら遠慮せずに――」
しかしおばちゃんの言葉は尻すぼみになり、言い終わる前に途切れて消えた。さっきまで顔を上げて笑い合っていた人々は、再びうつむき、影のように気配を消して、掻き消えるように去って行った。あっという間に人の姿が消えた通りを、おばちゃんは信じられないといった顔で見つめ、そして悔しそうに唇を噛んだ。
「ここは俺たちの縄張りだと言った意味が分かったか? お前たちの言葉なんて誰も聞きやしない。連中は俺たちに逆らえばここでは生きていけないことを知っているからだ。何の気まぐれか知らんが、外の連中が余計な手出しをしないことだ。ここはお前たちの生きている場所とは世界が違う」
マフィアのリーダー格の男がバカにしたような、哀れんでいるような、乾いた瞳でトラック達を見る。威嚇するでもなく淡々と語る姿は、その辺のチンピラとは違う凄味があった。男はしばらくトラック達を見つめると、
「ここはクズどもが最後の最後に流れ着く吹き溜まり。お前たちが何をしたところで、ここは変わらない」
そう言って、残りの二人と共に去って行った。無人になった南東街区の通りで、トラックは立ち尽くすように停車している。スキル【キッチンカー】の効力が切れ、三人の料理人は複雑な表情のまま姿を消した。トラックはそっとウィングを閉じた。
トラックの助手席で、
「……やっぱり、そうだよな」
ルーグは助手席に身を沈めたまま、
「変わるなんて、できっこないんだ」
小さな声でそうつぶやいた。
しかしこのときは誰も予想さえしていなかったのです。サバみその味に感動したガラ悪男が、一念発起して料理人となり、やがて世界一のサバみそ職人になることを。




