チート
信じられない、というように、皆が呆けた顔でトラックを見ている。無敵と思われた特級厨師が、今はもう動かない。たったひとりでエーイーリーの兵一万を阻んでいた化け物が、「あとは頼んだ」の言葉を残して戦場に散った。それはにわかに信じがたい、何かの罠かと疑ってしまうような、現実感の無い光景なのだろう。
だが、これは必然なのだ。トラックは自身の運命をすでに悟っていた。だからセシリアに『やがていなくなる』ことを告げ、距離を取ったのだ。ずっと傍にいることができないから。最後まで守ることができないから。
「ご報告!」
真っ青な顔をして、伝令兵がケテルの正門の上に設えられた見張り台に駆け込んでくる。ただ事ではない様子に、アウラを始めとしたケテルの重鎮たちが表情を引き締めた。伝令兵は荒い息をなだめる暇もなく、膝をついて報告する。
「特級厨師トラック殿、エーイーリー一万の兵と戦い、その将を撃退!」
アウラの顔がわずかにほころぶ。しかし伝令兵の顔に喜びも安堵もないことに、ルゼは厳しい表情をしていた。伝令兵はわずかに言いよどみ、うめくように言葉を絞り出した。
「しかし、激戦の傷深く――『あとは頼む』の言葉を残し、ご落命との由!」
アウラが息を飲み、思わず椅子から腰を上げ――ようとして、ギリギリのところで踏みとどまる。王たる者が動揺を見せてはならない。その義務感が彼女を制止する。イーリィが手で口を覆い、ルゼが固く拳を握った。アウラは唇を噛む。決して声を上げぬように。悲鳴も、慟哭も、彼女には許されないから。
「トラックが、死んだ?」
ミラが呆然とつぶやく。伝令兵が無念そうにうなずいた。「そんな」とジンが目を見開き、灰マント四兄弟が俯く。
皆、トラックがいるからこそ戦ってこられた。トラックがいたからこそ、信じることができたのだ。殺さない戦いがあると、誰も死なない戦争があると、信じて戦えたのだ。その支柱を失って、皆は何を信じて戦えばいいのかを見失ってしまったようだった。ミラの目から涙があふれる。エバラはミラを抱き寄せた。ニヨがキューと鳴く。
「だいじょうぶ。だいじょうぶさ」
自分に言い聞かせるように、エバラはそうつぶやくと、旦那のほうに顔を向けた。旦那は大きく頷く。エバラはわずかに微笑み、皆に向かって言った。
「皆は少し休んでおいで。その間、敵は私たちが引き受けるよ」
ドラムカンガーFが驚いたように「ま゛!?」と声を上げる。「引き受けるって、どうやって?」とジンが問う。エバラはどこか気弱げに笑った。
「……どうか、驚かないでおくれよ?」
旦那がエバラの正面に立つ。エバラも旦那と正対すると、互いに半身に構えて、そして右腕を交差させた。交差した腕からまばゆい光が溢れ、エバラと旦那を包む。光は広がり、戦場を覆った。
「あのヤロウ、人をさんざん巻き込んどいて、イチ抜けって? 冗談だろ」
大きく肩で息をして、ノブロは引きつった笑いを浮かべる。エーイーリーの軍勢が加わり、ノブロの千人組手ならぬ千連戦のA級トーナメントはもはや限界をとうに越えていた。心折れかけていたカイツール兵も援軍の到来に勢いを取り戻し、続々と挑戦者の列に並ぶ。セコンドのアフロが呻くように言った。
「……ノブロ、もう――」
ノブロは運命を拒絶するように首を横に振る。
「まだだ! まだ、俺は負けちゃいねぇ。他の奴らはまだ戦ってんだろ? 俺だけケツまくるわけにゃいかねぇだろうが」
虚勢めいた叫びを上げたノブロがぐらりと傾く。アフロ王が素早く手を伸ばし、その身体を支えた。
「もう駄目だ」
アフロ王は冷静に、冷酷に告げる。
「――と思ってからの逆転劇。それがボクシングの醍醐味だ」
アフロ王の言葉に、ノブロはにやりと不敵な笑みを浮かべた。アフロ王は大きく頷き、ノブロの背中をバチンと叩いた。
「行ってこい!」
アフロ王に背を押され、ノブロはファイティングポーズを取ると、眼前の敵を鋭くにらんだ。
「トラック殿――!」
歌うことも忘れ、エラトーとウーラニアはそう声を絞り出すと、ステージ上で膝をついた。二人にとってトラックは恩人であり、命を捨てても報いねばならない相手だった。その最期にあって傍らにいなかったことを、二人は強く後悔しているようだった。センターのカリオペイアもまた、歌を失って口を閉ざす。トラックは、トラックだけは、死ぬことはないと思っていたのだ。胸を穿つ喪失感を、無力感を閉じ込めるようにカリオペイアは目を閉じる。伴奏だけが淡々と進行していく。
「……音楽を、止めて」
カリオペイアがマイクを両手で握り、目を閉じたまま言った。バンドメンバーが手を止め、カリオペイアを見る。マカロン君が驚いたように振り返った。諦めるのか、歌は無力なのか、ミューゼスは、ここまでなのか――皆の視線がカリオペイアに集まる。カリオペイアは大きく息を吸い、ゆっくりと、はっきりと言った。
「……今、私たちは、戦いの中にいる。誰かを傷付ける、何かを壊す、それが肯定される場所にいる。けれど、あるひとは言った。ひとを傷付ける正義などない。破壊で得られる幸福などない。私たちは、否定しなければならない。剣を、魔法を、あなたの未来を阻むすべてを――!」
強い決意を瞳に宿し、カリオペイアは目を開ける。運命を切り裂く意志が声に満ちる。
「――聴いてください。ミューゼスの新曲、『夢』」
照明が落ち、スポットライトがカリオペイアを照らす。舞台袖のプロデューサーの目が妖しく光った。
動かないトラックを呆然と見ていた敵兵が、徐々にその意味を理解し始める。無敵と思われた化け物が死んだ。もはや恐れるものはない。この戦いは、勝てる。その確信が、少しずつ敵兵の間に広がっていく。
車両であるトラックの逃れ得ぬ運命。異世界という特殊な場所で、いつか必ず訪れる終焉。トラックは燃え尽きたように戦場に佇む。もう、わずかも動けないと、そう言うように。
――燃料切れ。
抗うことのできない残酷な現実が、ついにトラックを捉えたのだ。
……って、今さらやろうがぁぁぁーーーーっ!! 異世界に来てから何万キロ走ったと思っとんねん! この一年半、平気な顔して走っとったくせに、この場面で急に燃料切れとかご都合悪い主義すぎるやろうがぁーーーっ!!
『低燃費ですね』
前触れもなくヘルプウィンドウが現れ、緊張感のない声で説明にならない説明をする。低燃費で済ませられるレベルか! リッター何キロだよ!
『平成三十一年環境基準到達車ですよ?』
限度があるわ! そんな燃費を実現できてたらウチの社長が狂喜するわ!
――ピロリン
『スキルゲット! ステータススキル【超低燃費】
独自技術で驚きの低燃費を実現!』
後付けじゃねぇかぁーーーっ!! 今スキルをゲットしても今までの低燃費の理由にはならんからな! 今から燃費が改善するならまだ分かるけども!
『……ちっ』
めんどくさそうに舌打ちすんじゃねーよ! 俺は間違ったこと言ってないからね!? 辻褄が合わないことしてるのはそっちだからね!?
『そんなことより、状況が動くようですよ? ほら』
そんなことよりって、そんなに軽く流す話じゃ――そうヘルプウィンドウに突っ込もうとして、戦場の空気の変化に気付く。皆がトラックを見ている。だが、その視線の意味が、変わっている。
「――特級厨師の首を獲れ! その首を天に掲げよ! 特級厨師はすでに亡いことを知らしめるのだ!!」
敵将が大きな声で叫ぶ。それを合図に、エーイーリーの、そしてカイツールの兵がトラックに向かって駆けだした。トラックはこの戦場にあってケテルの希望であり、象徴だった。その首を掲げれば、ケテルの兵から戦意を奪うことができる。そして何より、『特級厨師の首を獲った』という唯一無二の名誉を手に入れることができる。敵の意図に、その欲望に気付き、マスターは「……ここまでだ」とつぶやくと、鉄棍を掲げて叫んだ。
「トラックを守れ! あいつの身体に指一本も触れさせるな!」
わずかにためらい、しかしマスターは言葉を続けた。戦場を、決定的に変質させる言葉を。
「――敵を、殺してもだ!」
トラックの亡骸を利用させてはならない。その骸を傷付けさせてなるものか。怒りに似た感情がケテル兵に湧き上がり、マスターたちはトラックを守るべく前進を開始する。そこにはもはや【手加減】の意志はなかった。敵兵がトラックに群がり、それを阻止しようとケテル兵が割って入る。トラックを失って、戦争はただの戦争になる。敵兵の刃がトラックに向かって振り下ろされ、ケテル兵の槍が敵兵の心臓に切っ先を向ける。『戦争ごっこ』が、本物になる――その寸前。
雲間から差す光が強さを増し、トラックを包んだ。
ちゃらっちゃっちゃっちゃ~ん、ぴろりろぴろりろり~ん
緊張感のないジングルが鳴り響き、戦場が止まる。まるで停止ボタンを押したように、文字通りすべての存在者が動きを止めていた。天から降る光はやがて柱となり、雲の上からゆっくりと『何か』が降臨する。
『トラックよ。異形の勇者よ』
威厳に満ちた声が静かに広がる。純白の衣に身を包んだ一人の女性が、光の柱の中を降りてくる。その神々しい美しさは、まさに女神――
『汝はここで朽ち果てる運命に非ず。為すべき使命は未だ果たされず、世界は汝を望む。ゆえに今、召喚時に与え忘れ――ごほん、相応しき時まで封じられていた力を解放せん』
……今、『与え忘れた』って言った? 女神様、最初の段階でトラックに力を授け忘れてた?
『い、今こそ時は満ちた! さあ、声高らかにしゃけびな――ああ、かんじゃった! 大事なとこなのに! もいっかい、やり直しで!』
顔を赤くして女神さまは動揺を隠せぬままセリフをやり直す。
『い、いみゃこしょ! ああ、また!? どうして私、リハーサルはうまくいったのに!』
……
『さ、、さあ、声高らかに、シェケナベイベー!』
駄、駄女神―――っ!! このひと、駄女神だ! 緊張感台無し! 神々しいとか言ったけど俺の誤解でした謝罪して訂正いたします。駄女神は涙目でやけくそぎみに叫ぶ。
『ああもう! とにかく! 叫べ! 汝にのみ許された力を! 特別に与えられたチートの名を!』
駄女神は八つ当たり気味にトラックをずびしっと指さすと、自らが与えたチートスキルの名を告げた。
『――【給油】と!!』
――プァン!
駄女神の言葉に応えて、トラックが振り絞るようなクラクションを鳴らす。おお、そうか。ガス欠なだけだからクラクションは鳴らせるのか。
――ゴゴゴゴゴ
大地が鳴動し、トラックの足元が大きく揺れる。と同時に地面から『何か』がせり上がってくる。『何か』はトラックを囲む敵兵を吹き飛ばし、元気のよい声をトラックに掛ける。
「いらっしゃいませ!」
スキルウィンドウが中空に現れ、授けられたチートスキルの力を解説する。
『スキルゲット! アクティブスキル(チート)【給油】
ガソリンスタンドを召喚する』
若いスタッフがてきぱきとトラックに給油を始める。別のスタッフが機敏な動きでフロントガラスを拭く。粉々に砕けていたフロントガラスは、スタッフが拭くとまるで何事もなかったように再生した。スタッフのひと拭きが、トラックのキャビンを、ドアを、ミラーを、アルミバンを修復していく。
「満タン入りましたー」
スタッフが給油の終わりを告げる。スタッフは気持ちのいい笑顔を浮かべると、
「ありがとうございました。またお願いします」
そう言って丁寧にお辞儀をした。再び地面が震え、ガソリンスタンドが地面へと沈んでいく。やがてガソリンスタンドは影も形もなくなり――残されたのは、新品同様に修復され、満タンまで給油されたトラックだけだった。
誰もがぽかんとトラックを見る。トラックはどこか気恥ずかしそうに、プァンとクラクションを鳴らした。
タグ認定委員会はタグ「チートはいつかする」を回収したことをここに認定します。




