裏切りと危機
大剣使いの妻が放った【厭離穢土】の凄まじい熱が大気を歪ませ、エーイーリー伯の陣を囲む塀をなぎ倒す。木製の塀は発火して黒煙を上げ、奇襲を高らかに演出する。まさかこんな戦場の後方で奇襲を受けるとは思っていなかったのだろう、敵兵が明らかに混乱した様子で右往左往している。
「一気に行くぞ!」
大剣使いの声に応えて、彼の娘が身の丈に合わない大剣を構え、気合の声と共に振り下ろした。【欣求浄土】の白い光が土塁を光の粒に変え、築き上げた陣城の形を変えていく。土塁の後ろに隠れていた敵兵が呆けたように口を開けて動きを止める。自分たちが時間をかけて作った防御陣が一瞬で破壊されたことに、悪い夢でも見ている気持ちなのだろう。彼らはまだ気づいていない。その圧倒的な破壊が、誰の命も奪っていないことを。
畳みかけるように、大剣使いの戦士が両の腕に力を込める。意識を保つのも難しい重圧を放ち、大剣使いの身体が金の光を帯びた。獣のごとき咆哮を上げ、大剣使いが鋭く斬撃を放つ。【常寂光土】の黄金の光が宿った刃は地面を抉り、堀も櫓も胸壁も、全てを原子の粒へと還していた。
「時間勝負だ! 行け、イヌカ!」
短槍使いがそう言いながら【奢侈王の烈華槍】を投擲する。【奢侈王の烈華槍】は見張り塔に突き刺さり、
「獅子食む王鳥、滴り、三日月の杯、溢れ、歪め、奢侈の王、広げ、蝕み、爆ぜ、滅びよ!」
独特の呪に応えて大爆発を起こした。敵兵の顔が恐怖に歪み、逃げ出す者がちらほらと見える。イヌカは「すまん」と呟き、【隠形鬼】を発動してエーイーリー伯のいる本陣へと向かって走りだした。
「な、なにごとだ? いったい何が起こった!?」
陣幕の中で一人の男が明らかな狼狽を浮かべて叫んだ。細身の小柄な体格を覆い隠すように装飾過多の衣装を身にまとい、青白い顔で神経質そうに右手の爪を噛むその男こそがエーイーリー伯に違いないだろう。エーイーリー伯は不安を紛らわせるように側近に当たり散らしている。
「落ち着いてください、閣下。ここは幾重にも堀と柵に囲まれ、多くの騎士が閣下を守っております。敵の侵入を許すことなどございません」
側近はややうんざりした様子でエーイーリー伯をたしなめる。しかし伯は側近の言葉をまるで信じていないように声を荒らげた。
「ならばなぜこのように騒がしいのだ! 敵が迫っているからではないのか!」
虚勢を証明するように伯の声は震え、わずかにかすれている。本陣からは外の様子は分からないが、混乱する兵たちの悲鳴や怒号は覆い難くここまで届いている。敵の数も襲撃の状況も、優勢なのか劣勢なのかも情報がない状態では不安になっておかしくはない。ただ、それが一軍を率いる者の態度としていいのかと言われれば、とてもそうとは思えないが。
「奇襲を受けて多少の混乱が生じておりますが、すぐに収束いたしましょう。ケテルの兵は五千に満たず、その大半がカイツールと交戦中です。こちらに戦力を割く余裕はありますまい。混乱が収まればすぐに――」
「混乱が収まれば、の話だろう?」
聞き覚えの無い声に言葉を遮られ、側近の男が目を見開く。音も気配もなく、何もない空間から滲み出るように奇妙な格好の男が現れた。ピンクのモヒカンにとげとげの着いたジャケット姿のその男は、エーイーリー伯の真後ろに立ち、カトラスを首に突きつけている。
「誰も動くな。動けばお前らの主の首が飛ぶぜ」
小さく口の中で悲鳴を上げ、エーイーリー伯の顔が血の気を失う。側近の男がとっさに腰の剣に手を掛け、抜くことができずに苦々しい表情を浮かべる。護衛の兵たちも主を人質にとられ身動きが取れないようだった。
「どうやってここに?」
側近の男は感情を抑えた声音でイヌカをにらむ。その言葉もイヌカの侵入方法を知りたいということではなく、会話で時間を稼いでいる間に打開策を考えているのだろう。エーイーリー伯の怯えた様子や護衛兵たちの動揺とは一線を画す冷静さが側近の男にはある。
「単刀直入に言う。兵を退け」
側近の男の意図を見透かしているのか、イヌカは問いに答えず要求を突きつける。側近の男が忌々しそうに顔をゆがめた。
「断る、と言ったら?」
青白く震えて声も出ないエーイーリー伯の代わりに側近の男が言った。その返答が予想外だったのだろう、エーイーリー伯が大きく目を見開いて側近の男を見つめた。イヌカが無言でカトラスを横に滑らせる。エーイーリー伯の首の皮が薄く裂かれ、小さな血の玉が浮き上がって流れた。恐怖が限界を越えたのだろう、エーイーリー伯は金切り声を上げると、哀願するように叫んだ。
「わ、分かった! 退く、兵を引き揚げさせる! だから早まるな! 助けてくれ!」
側近の男が小さく舌打ちをする。主の醜態に護衛兵たちが今までとは別の動揺を見せた。ケテル攻略の命を受けながら参戦することなく後方に控え、過剰な防御陣地を築き、敵の奇襲を許した挙句に何もせずに兵を退くとなれば、エーイーリー伯の今後は暗い。ズォル・ハス・グロールの怒りを買い、他の貴族から嘲笑されるのは必定だ。主を翻意させなければ、あるいは仕える主を間違えたか――そんな感情があちこちで浮かぶ。
「何をしている! すぐに撤退の準備を始めろ! わ、私を殺すつもりか!?」
理不尽な怒りを乗せてエーイーリー伯が震える声で叱責する。イヌカがわずかに口の端を上げる。護衛兵の一人が敬礼し、陣を出ようと身を翻した。しかしその足は、
「待て!」
側近の男の鋭い声に止められる。護衛兵は側近の男を振り返り、戸惑ったような表情を浮かべた。エーイーリー伯が信じられぬものを見るように側近の男を見る。
「な、なぜ止める!? 貴様、私を裏切るつもりか!」
側近の男は安心させるように微笑んだ。
「とんでもございません。私はエーイーリー伯爵家の忠実な臣」
側近の男は滑らかにエーイーリー伯に近付く。そのあまりに自然な様子に、一瞬イヌカの反応が遅れた。側近の男は素早く腰の長剣を抜き、笑みを浮かべたままためらいなくその刃を突き出した。エーイーリー伯に向かって。
「我が忠誠は伯爵家の未来に捧げております」
イヌカがエーイーリー伯の身体を引っ張り、凶刃は辛うじて急所を外れて伯爵の腹部を抉った。刃は背後にいたイヌカをも貫く。側近の男は刃を引き抜き、冷徹な表情で袈裟懸けに振り下ろした。剣が伯爵の肩を切り裂く、その直前――伯爵の姿がイヌカと共に掻き消えた。イヌカのスキル【隠形鬼】の力によって、二人は瞬時に移動したのだ。
側近の男はつまらなさそうに鼻を鳴らす。何が起こったのか分からないのだろう、周囲の護衛兵が呆然と側近の男を見る。側近の男は剣の血を払い、鞘に納めて堂々と言った。
「伯爵様はケテルの刺客の凶刃に斃れた! 我らは伯の崇高な遺志を継ぎ、卑劣な逆賊どもを必ずや討ち果たさん! 勇猛なるエーイーリーの騎士よ! 我らが主の無念を晴らし、伯爵家の威光を世に轟かせよ!!」
白々しいその言葉に、護衛兵たちがごくりと唾を飲む。つまりは、側近の男は『そういうことにしようとしている』のだ。伯爵は死んだ。エーイーリーの軍勢は主君の仇を取るために今すぐ参戦する。生きている臆病な主より、死して英雄となる主を選んだ。側近の男は冷たい目で護衛兵を見る。護衛兵たちは一様に恐怖をその顔に浮かべた。この秘密が露見すれば、ここにいる誰も生きること叶わぬ――側近の男の無言が強いプレッシャーとなって皆にのしかかる。蒼白な顔で敬礼し、彼は陣幕を出た。皆に参戦を伝えるために。
周囲の兵士たちもまた、戦いの始まりに向けて動き始める。その様子を満足げに見つめ、側近の男が小さくつぶやいた。
「『生命の樹』が姿を現すためには、この地には少々血が足らぬ」
その目が猛禽を思わせる鋭さを帯び、妖しい金の光を放った。
エバラ一家の参戦でケテル西側の戦局はケテル側に有利に傾きつつある。ジンの的確な指示よってドラムカンガーFはその圧倒的なパワーで敵を蹴散らし、ミラが放つ魔法は抗うことを許さず、灰マント四兄弟は地味にケテル兵を助けて回り、エバラの旦那は「うまく仕込めば猟犬になるかもな」と呟く。しかし何よりカイツール兵の心を折ったのは――
「ニヨベラピキャモケケトス――!」
「『悪魔』と呼ばれる魔獣が、どうして……」
その姿が、存在が、敵を恐怖に陥れている。皆が、堂々と戦場を睥睨するエバラを見ていた。エバラはまだ参戦していない。あの魔獣がもし動いたら――カイツール兵はその未来に怯え、戦いに集中できていないようだ。
……いや、確かに似てるけど、エバラはニヨベラピキャモケケトスじゃないからね? 普通の下町のおかみさんだからね? ほぼはったりだけで、エバラは戦場に君臨している。余裕の笑みを浮かべながら、エバラの額に冷たい汗が滲んでいた。
「ご報告!」
伝令兵がエバラの前に進み出て膝をつく。いや、報告相手がエバラなのはおかしいでしょうが。ガートンパパが指揮官でしょうが。
「エーイーリーの軍勢が、動き始めました!」
平静を装いながら、エバラはわずかに引きつった顔でつぶやいた。
「そいつは、厳しいね」
――カンカンカン!
試合の終了を告げるゴングが鳴り響き、一つの試合が終わった。3ラウンドKO、勝者ノブロ。立ち上がれない挑戦者がタンカでリングから運ばれていく。大きく息を吐き、ノブロはリングの上から呼び掛ける。
「次はどいつだ!」
強がりを見せながら、ノブロの表情には疲労の色が濃い。なにせ彼はすでに百人を超える敵兵と試合を行い、全てKO勝ちを収めているのだ。アフロ王の特殊スキルでボクシングルールを強制しているとはいえ、スポーツである以上不正は許されず、ノブロは本当に自分の力だけで敵と戦っている。東洋太平洋チャンプとしての誇りが彼を動かしていた。戦争でなくボクシングを。その想いが彼を動かしている。
ノブロの圧倒的な強さとその想いに、敵兵は戦意を失っているようだ。次の相手として名乗り出る者はいない。ノブロはわずかに安堵の表情を浮かべ、ロープに手を掛けて言った。
「誰もいねぇってんなら、俺の勝ちってことでいいか?」
敵兵がうなだれ、グローブを地面に落とす。ノブロの仲間たちが大きく息を吐いた。ノブロが大きく伸びをして――
「ご報告! エーイーリーの軍勢の一部がこちらに向けて進行中とのことです!」
伝令兵が伝えた現実にノブロの顔が引きつる。
「……そいつぁ、ちょっちキツいかもなぁ」
戦場に不似合いなポップソングが響き渡る中、ミューゼス親衛隊は必死でステージに上がろうとする敵兵を防いでいる。
「ステージに上がるのはご遠慮願います!」
「危険ですので御下がりください!」
マカロン君のハルバードが敵を吹き飛ばし、なぎ倒し、前進を阻む。彼らはミューゼスの意志を理解し、その攻撃にはすべて【手加減】が乗っていた。ステージ上ではミューゼスが必死に歌っている。歌が、想いが世界を変えるのだと、戦争ではなく感動が真に争いを治めるのだと、伝えようとしている。しかしその想いは伝わらない。歌は、戦争を止められない。
「……新曲は、まだか? あんたには無理なのか、カリオペイア――!」
マカロン君の表情に焦りが見える。もはや体力は限界に近い。重くなる身体を無理やり動かし、マカロン君は敵を蹴散らした。
「隊長! まずい状況です! エーイーリーが動いた!」
親衛隊の一人が慌てた様子でマカロン君に報告する。風囁筒で来た連絡を伝えに来たようだ。マカロン君は唇を噛む。
「あんたの歌は、世界を変えるんだ。僕は、ミューゼスを信じてる」
祈りにも似たマカロン君の声は、不意に吹いた戦場の風に溶けて消えた。
「イヌカさん!」
先生が悲鳴のような声でイヌカに呼びかける。イヌカはエーイーリー伯を背負い、自らのケガも厭わずに本陣まで休むことなく駆け続け、今、ようやくケテルへと戻ってきたのだ。迎えた味方の姿に安心したのだろう、イヌカはエーイーリー伯を預けるとその場に倒れ込んだ。ケテル内に運ばれようとしているイヌカに気付き、先生が走ってイヌカに近付く。血の気を失った顔でイヌカは謝罪を口にした。
「すまねぇ。エーイーリーを撤退させることは、できなかった」
「そんなことはいい! 早く、傷の手当てを!」
自ら立案した無茶な作戦でイヌカを傷付けたことに、先生は後悔を滲ませる。イヌカは先生の腕を掴み、強い口調で言った。
「伯爵の部下が裏切った。伯爵はたぶん、死んだことにされてる。伯爵を助けろ! エーイーリーを止める鍵は、伯爵自身だ!」
そこまで言ってイヌカは痛みに呻き、ぐったりとタンカに横たわった。医療班がイヌカを医務室へと移送する。先生は硬く目を瞑り、強い意志を宿した瞳で再び目を開いた。
「あなたがつないだ希望を、無駄にはしません」
先生はエーイーリー伯が運ばれた部屋に向かって歩き出す。その背にはもう後悔の色はなかった。
トラックはプァンとクラクションを鳴らす。敵も味方も、トラックをじっと見つめている。これ以上戦うことに意味があるのか。戦争に意味などあるのか。トラックの静かなクラクションはその場にいる全ての人々にそう問いを投げかけている。『屠龍』が撤退し、カイツールは大きく兵力を失った。最強の傭兵団『屠龍』の存在はカイツール兵に少なからぬ安心と依存心をもたらしていたのだ。その喪失は簡単に回復するものではない。
――プァン
トラックが再びクラクションを鳴らす。カイツール兵が俯く。戦いの意志が、霧散する。マスターが大きく息を吐き、ドワーフの王が小さく笑い、そして――
――ドドドドドドドド
土煙を上げ、地面を震わせるような無数の音が聞こえる。カイツール兵が振り向き、ケテル兵がハッと息を飲んだ。それは、新たに生まれた戦場の音――
「援軍だ! エーイーリーの軍勢が到着したぞ!」
カイツールの兵が叫ぶ。絶望に沈んでいたカイツール兵に、希望と戦いの意志が戻ってくる。対照的に、ケテル兵は青ざめて表情を失った。エーイーリーの軍勢はおよそ一万。カイツール兵と合わせて一万八千の兵と戦う余力は、ケテルにはない。
「――トラック!」
希望を求めてマスターが叫ぶ。トラックはクラクションを返し、ボロボロの姿で力を振り絞るようにエンジン音を鳴らした。
なーんちゃって。
……え、ダメ?




