勝利と敗北
トラックの放つ白に触れ、グレンの生み出した異形は悲鳴を上げて、光の粒に還元される。痛い、苦しい、辛い、助けて、そして、否定しないで。声に出せない、あるいは声にすることさえ思いつかない、自覚のない傷が、容赦なく照らされ、浄化されていく。弱さを受容するのではなく、そんなものは最初から抱いてはいけなかったのだと言うように、わずかの痕跡も残さず、白は黒を否定する。トラックが悲しげにクラクションを鳴らした。グレンは歯をむき出しにして怒りを示した。
「安い同情は害悪だ! その傲慢ごと闇に沈めてやる!」
トラックは迷っている。グレンの闇を、苦しみを、力づくで消し去ることが正しいのか。否定して、屈服させて終わりでいいのか。それは戦いの勝利であっても、思想的な敗北だ。結局グレンの言う『すべては暴力に屈する』という思想を肯定するやり方だ。グレンは勝っても負けても自身の正しさを証明できる。たぶん、グレンはそれを望んでいる。
グレンから伸びた影がトラックの足元全体に広がる。ごぼっ、という音がして、トラックの車体がゆっくりと沈み始めた。湧き出す異形は【無限光】に触れて次々に消滅しているが、沼のように広がった足元の影は白光を浴びてなお消えず、トラックを飲み込もうとする。【手加減】がトラックを助けようと動き――プァンというクラクションでその動きを止めた。【手加減】はじっとトラックを見る。トラックはカチカチとハザードを焚いた。【手加減】は目を伏せ、元の位置に戻り、感情を抑えるように腕を組んだ。
トラックの車体が半ばまで沈む。【朽ち夜魅・修羅三千大千世界】の世界が、細かい振動と共に軋み始める。グレンの限界が近いのだろう。グレンは血走った目でトラックを見つめ、苦しげに肩で息をする。トラックの車体が沈む。車体の全てが、沈んだ。
昏く暗い闇の中を、トラックはゆっくりと沈んでいく。沈みながら、トラックは時折浮かび上がる断片的な光景を見ているようだった。それはたぶん、グレンの記憶――いや、彼が抱える闇、なのだろう。殺し、壊し、奪ってきた彼の人生の記憶。ためらいなく、笑って、斬り捨ててきた無数の命の記憶だ。
やがてトラックは闇の底に静かに降り立った。そこがグレンの闇の原点。最初の記憶、なのだろう。そこにいるグレンはまだ十二歳の少年で、そして、血塗れの剣を手に、大きく目を見開いて、瞬きも忘れたように呆然と、荒い息をして、立っている。冷たい汗が全身に噴き出し、一点を凝視している。その視線の先には、虚ろな目をした死体があった。盗賊然としたその死体は、驚いたような表情を浮かべていて、首が真一文字に裂かれている。少年の手は震えていた。何か決定的な一線を越えてしまった恐怖に、その顔は血の気を失っている。
トラックは静かに、そっと、少年に近付く。少年はトラックが近付いていることに気が付いていないようだ。トラックは【念動力】で、まるで掻き抱くように、ボロボロのキャビンに少年を引き寄せる。ビクッと少年の身体が跳ねた。
――プァン
トラックがかすれたクラクションを鳴らす。少年の手から、からん、と音を立てて剣が落ちた。心を手繰り寄せるように、トラックは【念動力】を強める。少年の目から、一筋の涙が頬を伝い、落ちた。
――キィン
金属が破断するような硬質な音が響き、空間にヒビが入る。ヒビはどんどんと大きくなり、空間は歪み、砕け、ずれて崩壊を始める。トラックから立ち上った白い光が、道を示すようにまっすぐに天を照らす。少年は溢れる涙もそのままに天を仰いだ。はるか頭上にこの闇の出口がある。ずっと抱えて来たもの。殺してしまった人。助けられなかった人。助けたかった人たち。生き延びてしまった自分。その、出口がある。トラックから放たれた光が、少しずつ強さを増していく。全てが白に染められていく。少年が涙を拭った。無数の何かが砕ける音がして――世界が、真白に溶ける。
肌を焼く灼熱の気配が消え、冬の冷たい空気の感覚が戻ってくる。【朽ち夜魅・修羅三千大千世界】がその効果を失ったのだ。グレンは地面に大の字に横たわっており、トラックが足元の彼を見つめている。トラックも、グレンも、死んではいない。つまり、この戦いはトラックの勝ち、ということだ。
「……人の心にずかずかと。いちいち腹立たしい奴だ」
グレンがトラックをにらむ。しかしその声音に、先ほどまであった憎悪はないようだった。全ての力を出し尽くして負けた。そのことは本人が一番よく分かっているのだ。
「……いつの間にか驕っていたのだろう。俺の全力が、貴様の全力を引き出すことさえできなかった。俺は、自分が思うよりずっと、弱かったらしい」
プァン、とトラックはクラクションを鳴らす。グレンは不快そうに顔をゆがめ、上半身を起こした。
「殺せ。貴様に戦士としての慈悲があるなら。俺を戦士として死なせてくれ」
あまり期待していない声でグレンはトラックを見上げる。トラックはプァンと拒絶を示した。グレンはうつむき、首を横に振る。戦いに敗れ、戦士としての矜持も折られた。これから彼はどうなるのだろう。傭兵の世界は実力が全てだ。これからも『屠龍』の総隊長として部隊を率いるのは難しいんじゃないだろうか。
――プァン
トラックが神妙なクラクションを鳴らす。不思議そうな顔をしてグレンは再びトラックを見上げた。トラックが【念動力】でグレンに何かを差し出す。それは――
『アクティブスキル(ユニーク)【究極の一杯】
あらゆるジャンル、あらゆる差異を超克して世界の全てを満たす、
唯一無二のラーメン(餃子付き)』
一杯のラーメンだった。グレンは無言でそれを受け取り、懐から橋を取り出して麵をすする。戦場に、ラーメンをすする音だけが響く。
「……うまい、というのが、何よりも腹立たしい」
スープまで飲み干し、空のどんぶりをトラックに掲げ、グレンは大きく息を吐いて、そして言った。
「……俺の、負けだ」
ゆっくりと立ち上がり、グレンは控えていた『屠龍』の隊員に向かって言った。
「『屠龍』は現時点を以てカイツールとの契約を破棄し、戦場を離脱する! 撤収急げよ!」
『屠龍』の隊員たちは、あまり驚く様子もなくそれを受け入れ、淡々と帰り支度を始めた。え、いいの、それ? 傭兵として信用がなくならない? いや、信用がなくなるからって戦いを継続されても困るわけだが。
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。グレンは軽く肩をすくめた。
「これからどうなるかは分からんが、貴様に敗れた以上、何をどう言い繕おうとカイツールは報酬を出し渋るだろうさ。金に見合わん努力はしない主義だ」
グレンはトラックに背を向け、表情を見せずに言った。
「……殺さない戦争があるなら、見せてみろ。だが気を付けることだ。アディシェスは貴様の妄想に付き合ってくれるほど甘くはない」
グレンは振り返ることなく、そのまま去っていく。周囲のカイツール兵も唖然として彼らの背を見送った。『屠龍』の総大将の実力を良く知り、そしてトラックがグレンに勝ったという事実を目の当たりにして、心が折れかかっているのだろう。『屠龍』が敵わない相手に自分たちが敵うはずがない。トラックなどという化け物に、敵うはずがない。兵士たちは為す術なく立ち尽くしている。戦場に現れた奇妙な空白が、グレンとトラックの戦いが終わっても維持されている。
――プァン
敵に、いや、戦場に、トラックは静かにクラクションを鳴らす。兵士たちが手に持った剣を、槍を、下に向けた。戦いの意志はない。戦うことに意味はない。そう言うように。戦場の狂気が鳴りを潜め、冷たい風が覚醒を促すように広がった。
――はぁ、はぁ
荒く息を乱しながら、イヌカは薄暗い森を駆けていた。彼の肩にはひどく弱々しい呼吸の一人の男が担がれている。男の衣服は半身が赤黒く染まり、その顔には血の気がない。イヌカの周囲には共にいたはずのルルの姿も大剣使いの家族も短槍使いの姿もない。皆は散り散りになって逃げているのだ。
「……すまん、トラック。作戦は、失敗だ――!」
呻くようにつぶやき、イヌカは逃走の足を速めた。
イヌカは苦々しい口調で言います。
「またこんな、ケチャップで汚して!」




