人間存在
再び無数の矢がケテルに降り注ぐ。同時に、太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を上げて敵兵が押し寄せてくる。地を踏み鳴らす音が響き、土煙が上がる。
「怯むな! 敵は数が多いだけの、あのカイツール伯に率いられた弱卒だ!」
冒険者ギルドの魔法使いが風を起こして矢の雨を吹き飛ばし、マスターの檄に応えた兵士たちが武器を掲げる。
「ここが我らの正念場よ! 死ぬな! 殺すな! これは、『命の価値を否定する者どもを否定する』ための戦ぞ!」
ドワーフの王のハルバードが風を切り、鋭く敵をにらみ据える。ケテルの兵たちが「おおっ!」と同意を叫ぶ。アウラが驚きに目を見張り、思わず立ち上がって身を乗り出した。
「何を――!」
アウラの問いを遮るようにルゼが彼女の肩を掴む。
「これはトラックの願い。そして、皆はそれを受け入れたのです」
アウラはルゼを振り返り、険しい顔でにらむ。
「何をバカな! 皆に死ねと言っているようなものではないか!」
ルゼは無言でアウラを見つめ返す。アウラは周りの先生、コメル、イーリィを順に見る。皆は複雑な表情を浮かべ、しかしアウラに同意しようとはしなかった。もはや覚悟は決まっている。殺さない覚悟を携えて、皆はこの戦場に立っているのだ。
「放てっ!」
迫る敵影に向けてエルフたちが再び矢を放った。放物線を描いて飛ぶ矢には例外なく【手加減】が乗って――ん? なんか、変だな? 【手加減】たちの姿がちらちら表示されたりされなかったりして、矢の動きもカクカクしてる気が……
ま、まさか、処理落ち!? スキルの発動数が限界を超えて、スキルウィンドウの描画が追い付かなくなっているのか!? そんなことある!? どういう理屈でそれが起こる世界観なの!?
処理落ちによって世界の時間が停滞を起こしている。俺だけがそれを認識しているらしいのは、やっぱり俺が地の文だからだろうか? 俺はこの世界の時間の外にいて、だから世界が停滞していることも分かる。いや、それが分かったところで、という気もするが。結局のところ俺が地の文ってどういうことなのか未だに実感できてはいないんだけども。
『アクティブスキル(ノーマル)【手加減】
このスキルを使用して攻撃すると、相手のライフをゼロにすることが無い』
あ、個別のスキルウィンドウの表示を諦めて、一つのでっかいスキルウィンドウが現れた。世界が時間の流れを取り戻し、矢が敵に向かって飛んでいく。命を奪うことのない矢に当たった敵兵たちは、「あいたっ」という間の抜けた叫び声をあげ、若干前進の足を弱めたに過ぎなかった。攻撃しても敵の数が減らない、ということは、無限の敵と戦うのに等しい。アウラはエルフの女王に叫ぶ。
「貴女はそれでいいのか! エルフの女王よ!」
エルフの女王はアウラを見ることなく、厳しい表情で迫る土煙を見据えた。
「迎え撃て!」
ドワーフの王がハルバードを掲げて叫び、先頭を切って敵に向かって駆けだす。皆がそれに合わせて前進を開始し、戦場が動き出した。冒険者ギルドの面々もそれぞれに武器を構え、敵と対峙する。トラックは――動かない。エンジンを止め、ただひとり後方に取り残されている。まるで何かを見極めるように。
己を鼓舞する雄叫びと大地を踏み鳴らす轟音が重なる。耳障りな金属音、乾いた冬の空気、雲のない空。そして、ついに敵の槍とドワーフ兵のハルバードが火花を散らして激突した!
「押し込め!」
敵将の命令が渡り、長槍兵が拍子を合わせて槍を振り下ろす。ドワーフたちは腕の筋肉を隆起させ、ハルバードをすくいあげるようにして槍を打ち払った。長槍兵の一部が体勢を崩し、隊列が乱れる。
「崩せ!」
綻びを広げるために、ドワーフの王はハルバードを力強く突き出す。
『アクティブスキル(ノーマル)【吹き飛ばし】
攻撃を受けた者は後方に吹き飛ばされる。吹き飛ぶ距離は熟練度による』
【手加減】と共に放たれた【吹き飛ばし】が敵の攻勢を押し返す。しかし【手加減】された攻撃は敵の数を減らしてはくれない。吹き飛ばされた敵兵はすぐに起き上がり、槍を手に再び向かってくる。ドワーフたちは不敵な笑みを浮かべてハルバードを握りなおした。
「何度でも吹き飛ばしてくれるわ。起き上がる気が起きぬほどにな!」
おおっ、と声を上げ、ドワーフたちは敵に突撃する。それを迎え撃つカイツール兵たちは、殺されることのない安堵感と殺そうとしない相手に刃を向ける戸惑いを浮かべている。
「惑わされるな! 戦場で殺さぬなどあり得ぬ! こちらを混乱させるための罠だ!」
敵将の言葉が飛び、カイツール兵たちの表情が引き締まる。そうだよな、当たり前だよな、そんな感覚を取り戻したように武器を強く握る。殺意を込めた槍がドワーフたちに向けられる。穂先が命を奪うために突き出される――戦場の『当たり前』が迫る。しかしドワーフたちは、笑っていた。
「安心せいっ! お前たちは死なん! 我らが死なせん! 故郷に残した家族もいよう! お前の無事を祈る友もおろう! 彼ら、彼女らにお前たちは必ず会えるぞ! 生きて、必ず!!」
ハルバードで槍を弾き、ドワーフの王が吠える。鉤で器用に敵兵の服をひっかけ、大きく振り回して飛ばし、別の敵にぶつける。前進を阻まれた敵の足がもつれた。いや、足がもつれただけではない。故郷や友という言葉を聞いて、敵兵は再び動揺している。
「えぇい、黙れ! 口賢しく虚言を弄する卑怯者めが! 皆、騙されるな! 次に来る攻撃が【手加減】される保証はないぞ! 我らの油断を誘い、一気に殲滅せしめんとする小賢しい策略に決まっておるのだ! 槍を振るえ! 剣を突き立てよ! 我らが無事に帰るのは、ケテルの者どもを撃滅せしめた後のみよ!」
敵将の言葉はしかし、兵たちを鎮めるには至らない。今、まさに【手加減】されている事実が敵兵たちに疑念を抱かせている。ドワーフたちは本当に自分たちを殺すつもりがないのではないか? 戦場の狂気に身を委ねていたはずの意識が、殺すことが当然と停止していた思考が、『日常』に侵食される。敵兵は皆、普段の生活の中で人を殺すことを肯定するような人間ではないのだ。誰かの親であり、子であり、夫であり妻であり、誰かを大切に思う普通の人間なのだ。そんな『日常』を思い出した時、自らの手にある武器の意味を、人は思い出すのだろう。『これは誰かを殺すための道具だ』。そして、その武器を向ける先にいる誰かを見たとき、思うのだ。『彼らを殺していい理由はなんだ?』
殺さない、とドワーフたちが言っている。必ず故郷に帰すと、敵であるはずの相手が言っている。彼らは自分たちを、『命』だと言っている。そんな相手を殺していいのか? 私を思うあなたを、傷つけることが許されるのか? 『日常』にあって当然に発揮される人の善性が戦場の狂気をほころばせる。カイツール兵たちの瞳は戸惑いにせわしなく揺らぎ、手に持つ槍の穂先が下がる。戦場にあってありえない奇妙な停滞が生まれる。
「……お前が信じたのは、これか、特級厨師――!」
ドワーフの王が目を見開いて戦場を見る。殺さない。誰も死なせない。それを戦場という特殊な場で成立させるためにトラックが信じたのは、人間が持つ善性なのだ。命の価値を知れば、命として扱われれば、人は人を殺さない。トラックは人間という存在そのものが持つ善性に賭けたのだ。
「なんというバカだ。だが、そこまでのバカでなければ、何も変えることは叶わぬのだろうな」
苦笑いを浮かべ、しかしどこか納得したように、ドワーフの王は独りごちる。トラックという異端者が戦場の風景を一変させる様は、まさに歴史の転換点を目の当たりにしている気持ちなのだろう。そしてそれは、決して自身では成し得なかったことだと、ドワーフの王は分かっているのだ。
――ぎゃぁぁーー!!
不意に絶叫が響き、どこか弛緩していた空気に緊張が走る。叫び声は敵の只中、敵将がいる場所から聞こえた。血に塗れた剣を掲げ、敵将が声を張り上げる。敵将は、戸惑い恐れる自らの兵を斬りつけたのだ。
「世迷言に耳を貸すな! お前たちの役目は敵を殺し、戦に勝利することだ! こちらを殺さぬというなら好都合ではないか! 何も考えず、槍を突き出せ! 矢を射かけよ! それができぬ者は私がこの手で切り捨ててくれるぞ!!」
ハッとしたようにカイツール兵は手に持つ槍を握りなおす。その顔には強い恐怖がある。死ぬかもしれない恐怖は、個人の善性など簡単に吹き飛ばす。自分の命が大事だと、その言い訳が人を簡単に残酷にする。目の前の相手が自らを脅かすわけではなくても、刃を向けることを正当化する。
「誰も死なぬ戦争などない! 死にたくなければ敵を殺せ! 抵抗する気力ごと蹂躙せよ! それをして初めて平和が訪れる! 血の流れぬ世界は流血の大河の向こうにしかないのだ!」
背を突き飛ばされたように敵兵が槍を突き出す。ドワーフたちのハルバードが敵の槍を弾き、弾き損ねた幾つかがドワーフの身体を抉る。敵兵の顔が別の恐怖に歪んだ。自らの保身のために相手を傷つけた、その恐怖に慄く。ドワーフの王は腹に槍を刺したまま安心させるように豪快に笑うと、再び発動した【吹き飛ばし】で敵兵を吹き飛ばした。
「誰も死なぬ戦争などない! その通りよ! なればこそ、そんなものがありうるとしたら――」
口から溢れる血を拭いもせず、ドワーフの王が叫ぶ。
「――痛快ではないか! 遥か神話の時代より無数に繰り返された世の『常識』を、否定することができるのなら! そうだろう!」
ドワーフの王はハルバードの石突を地面に打ち付ける。衝撃が地面を走り、前進しようとしていた敵兵の足を止める。横薙ぎに振るったハルバードが衝撃波を放ち、敵兵を吹き散らす。本来傷つけ命を奪うその一撃は、寄り添う【手加減】によってわずかなかすり傷さえつけることがない。
「特級厨師よ!」
ドワーフの王の咆哮に応えるように、耳慣れたエンジン音が聞こえる。音は後方から土煙を上げて迫り、
――プァン!
ドワーフの王の言葉を肯定するクラクションと共に、その脇を通り過ぎて敵陣に突っ込んでいった。
「なにをしている! なぜあのような烏合の衆に手こずるのだ!」
陣の中でカイツール伯は苛立たしげに怒鳴った。八千の兵がいればケテルの攻略など容易いと、そう踏んでいたのだろう。ケテルの総兵力はおよそ五千。しかもその戦力を分散配置し、正門前には三千程度の兵力しかない。籠城するでもなくのこのこと防壁の外に出て空堀を無駄にし、ケテルの兵を指揮する者はおおよそ兵法を知らぬと見える。そんな者どもを相手に未だかんばしい戦果の報告はなく、カイツール伯の機嫌はすこぶる悪い。
「そ、それが、正面を守るドワーフたちが思いのほか頑強に抵抗しているようでして。それに、ケテルの周辺は森に覆われており、大軍を効率的に運用するには不向きでして、その……」
汗を拭きながら配下の将がカイツール伯に報告する。つまりは、カイツール伯は八千の兵を持て余している、ということなのだろう。ケテルの正面を守る三千の兵に、八千のカイツールの兵力を効果的にぶつけられていない。後方にいるかなりの数の兵がケテル兵に接敵できず、いわば死んだ兵力になっているのだ。
「ならば部隊を分け、ケテルを四方に囲んで攻め立てよ! 正面以外の敵はより寡少であろう! そちらから防壁を突破すれば、勝利など簡単に得られようが!」
「し、しかし、それではこちらも戦力を分散させることになりますが……」
配下の将はもごもごと不明瞭に答える。機嫌を損ねたくはないが、カイツール伯の命をそのまま受け入れた場合、失敗したときに責任を押し付けられかねない。反対はしたぞ、というアリバイが欲しいのだろう。カイツール伯はぎろりと配下の将をにらんだ。慌てたように一礼し、配下の将は陣を出ていく。
「……使えぬヤツめ!」
カイツール伯は鼻にシワを寄せ、不快そうに吐き捨てた。
敵に動きあり、の報告を受けて、先生は手の中の風囁筒を握りしめた。敵はおよそ三千の兵を千ずつに分けて、ケテルの西、東、北の三面を同時に攻撃するつもりのようだ。それらに配置したケテル側の兵力はそれぞれおよそ五百。主にゴブリンと獣人の混成部隊だが、彼らは二倍の兵と戦うことになる。
「冒険者たちに伝令を! 西、東、北のフォローをお願いします!」
伝令が了承の声を返して駆けていく。先生は風囁筒を口に近付ける。
「……イヌカさん。始めてください」
先生の声を背負って、風の精霊的なものが風囁筒を飛び出し、森のほうへと消えていく。そこには敵に気付かれぬよう三日前から森に隠れていた猫人たちの部隊とイヌカがいる。先生は祈るようにつぶやいた。
「エーイーリーが退けば、カイツール兵は動揺し混乱する。頼みます、イヌカさん――!」
ちなみに、『俺』は当然のように【視点分割】を使っていますよ。もう慣れたもんで、あまり酔うこともなくなってきたんですって。




