憂いなく、存分に
雨が、降っていた。秋の、冷たい雨。北東街区の石畳を穿つように、叩きつけるように、雨が降っていた。
道端には、一人の男があおむけに横たわっている。服は裂け破れ、割れて歪んだメガネが男の側に落ちていた。男はあちこちあざだらけで顔は大きく腫れあがっており、全身ずぶぬれで泥だらけだ。
男は自らの右手で両目を覆っている。悔しそうに、唇を噛んで。冷酷な雨から男を守るように、トラックが左のウイングを広げた。
冒険者ギルドのロビーには受付カウンターの横にちょっとしたくつろぎスペースがあり、仕事を探す冒険者や、単に暇な奴らがよく利用している。トラック達もそんな『単に暇な奴ら』で、テーブルを囲んでまったりとしている。
「降るでしょうか?」
「どうだろうな」
セシリアはギルドの入り口に目を向け、剣士は頭の後ろで手を組んでぼへっとしている。空は今にも降り出しそうなどんよりとした厚い雲に覆われていて、ギルドにいる冒険者のやる気は一様に低い。ギルドのロビーはそんなぐだぐだした気分の時にちょうどいい場所らしい。他のテーブルも濁った目をした冒険者で埋まっていて、まだ朝だというのに、ギルドの空気は澱んでいた。
――バンッ!
緩んだ空気を引き締めるように、ギルドの扉が大きな音を立てて開いた。ギルド内の連中が入り口に目を向ける。入り口には辛そうに肩で息をする、犬人の少年の姿があった。
「レアン?」
セシリアが椅子から立ち上がり、剣士が座ったまま身体を入り口に向ける。トラック達の姿に気付いていないのか、レアンが不安そうにきょろきょろと辺りを見回した。セシリアが声を掛けるより早く、入り口付近にいた冒険者連中がレアンに声を掛ける。
「おいおい、お前みたいなガキが、ギルドに一体何の用だ?」
「ここはおこちゃまの来るところじゃありまちぇんよー?」
いかにも三流臭いセリフを吐いて、冒険者の一団はレアンを取り囲む。レアンの顔が怯えたように強張った。
「ちょっと、あんたたち――」
――プァン
受付から声を上げようとしたイーリィを制するように、トラックが静かにクラクションを鳴らした。澱んだ空気が払われ、ギルド内の雰囲気がピリっとしたものに変わる。ギルドの奥の方にいたベテランらしい冒険者が軽く目を見張り、感心したように小さく口笛を吹いた。レアンに絡んでいた三流たちがトラックを振り向き、レアンはトラックの姿を見つけてほっとした顔をした。
「はっ! 誰かと思えば、トラックとかいうEランク野郎じゃねぇか!」
「何か文句でもあんのか? オレたちゃCランクだぞ?」
ギルドがランク制を採っているのは、実力に見合わない仕事を割り当てないため、というのが一番の理由だが、だからといってランクは単純に実力を反映したものではない。ランクは過去の実績やギルドへの貢献度が加味されるギルド内の指標であり、どんなに実力があっても新人は低ランクだし、長く続けていればそれなりにランクは上がる。しかし、ランクで上下の差が決まると、それがあたかも実力の差であると勘違いする輩も多い。CランクはEランクよりも強い。それはある意味素朴な理解がもたらす迷信であり、だからこそ打ち消しがたい迷信でもある。自分で自分の実力が測れない者ほど、ランクという指標に縋るのだ。
「EランクがCランク様に盾突こうってのか?」
「これだからEランクは嫌になるぜ。身の程ってものを知らねぇ」
「仕方ねぇさ。頭の中身もEランクだからなぁ」
互いの顔を見合わせて三流たちがガハハと笑う。トラックは無反応に三流たちを眺めていた。ギルドのベテラン連中は三流たちに苦笑いを浮かべている。三流たちは自分たちが他人からどう見られているか気付いていないらしい。セシリアがその翠の瞳に冷徹な怒りを浮かべて言った。
「その子は私たちの知り合いですが、何か?」
セシリアの姿を見た三流たちは、打って変わって動揺しはじめる。
「お、おい。あいつは『翡翠の魔女』だ。確か、Bランクだぞ!?」
「バカヤロウ! びびってんじゃねぇよ! たかが小娘じゃねぇか!」
顔を寄せてコソコソと話す姿は他の冒険者の笑いを誘う。ランクを理由にトラックをバカにしたはずなのに、自分より高いランクのセシリアに対しては年齢と性別を理由に見下そうとしている、その矛盾に気付いていないのは滑稽だった。笑われていることには気づいているのだろう、いっちょ前にプライドが傷付けられて怒っているようだ。
「話し合いならよそでやれ。入り口に突っ立ってられると邪魔だ」
剣士が椅子から立ち上がり、大きめな声を上げてぎろりとにらんだ。三流たちは気圧されたように引きつった表情を浮かべる。
「あ、あいつは確か、Cランクの」
「ああ、『翡翠の魔女の隣にいる人』だ」
……ん?
「くそっ! 『翡翠の魔女』だけならともかく、『翡翠の魔女の隣にいる人』までいたんじゃ分が悪い」
「そ、そうだな。『翡翠の魔女の隣にいる人』はCランクの中でも腕がいいと聞く」
「ちっ! 『翡翠の魔女の隣にいる人』のくせに、いちいち首突っ込んでんじゃねぇよ」
……剣士って、『翡翠の魔女の隣にいる人』っていう二つ名なの? 何その添え物感? Cランクの中でも腕がいいって評判が立つくらいなのに? 報われないなー、相変わらず。
剣士が額に青筋を浮かべ、一歩、三流たちに近付く。三流たちはうろたえて一歩下がると、
「き、今日はこの辺で勘弁してやらぁ」
と言ってそそくさと出て行った。ギルドのあちこちから哀れみとも嘲りともとれる笑いが起こる。
アホどもに興味はないと、セシリアはレアンに駆け寄って床に膝をつき、目線の高さを合わせた。剣士とトラックもレアンの隣に歩みを進める。
「どうしたの? こんなところに。ひとり?」
「セシリアお姉ちゃん……」
セシリアの優しい声を聞いて堪えていたものが切れたのか、レアンの目尻にみるみる涙が盛り上がった。
「……アネットが、連れて行かれちゃった……!」
「連れて行かれた?」
溢れる涙を拭いながら、しゃくりあげながら、レアンはトラック達に今朝起きたことを語った。
今日は青空教室の日で、レアンは朝早くに家を出て、アネットを迎えに彼女の家に向かった。アネットの家はエバラの家の近所なのだ。レアンとアネットはいつも授業が始まるよりずいぶんと早く先生の家に行って、机や椅子を運ぶのを手伝っているのだそうだ。しかし今朝、レアンがアネットの家に行くと、いつもとは様子が違っていた。複数のガラの悪い男たちがアネットの家に上がり込み、怒鳴り散らし、アネットの父親を殴りつけて、そしてアネットを連れ去ったのだ。レアンはその一部始終を見ていた。近くの塀の影に隠れて。
「僕、見てた、のに、何も、できなかった……! こわくて、何も……!」
泣きながら自分を責めるレアンを、セシリアがぎゅっと抱きしめる。
「あなたは悪くないわ。何も悪くない。よく知らせてくれたね。ありがとう」
セシリアの胸に縋り、レアンが大声で泣き始める。「どこに連れて行かれたか分かる?」というセシリアの問いに、レアンは首を横に振った。レアンを抱いたまま、セシリアがトラック達を見上げる。
「アネットの家に行こう。ここにいても何も分からん」
剣士の言葉にトラックは同意のクラクションを鳴らした。泣き止まないレアンをイーリィに預け、三人はギルドを出る。
「……嫌な天気だぜ、ったく」
空を見上げ、剣士が忌々しそうにつぶやいた。
雨が、降っていた。激しい雨音は、世界から音を奪うように響く。
「もう、返し終わっていたんだ! 全部!」
地面に横たわる男――先生が、左の拳を空に突き出す。そこにはびりびりに破られた羊皮紙の破片が握られていた。
「騙していたんだ! 字が読めないことに付け込んで! 返す必要のない金を、ずっと、ずっと、搾り取っていたんだ!」
握られた手からはみ出した切れ端に書かれた文字が、元はそれが借用書であったことを伝えている。しかし引き裂かれ、雨に濡れて、借用書はもう大半が判別不能になっていた。
先生はずっと、不審に思っていたのだそうだ。アネットから聞いた借金の額を考えると、返済期間があまりに長すぎるのではないかと。そして今日、アネットが連れ去られたと聞いて、先生はアネットの父親に借用書の内容を確認した。借用書に書かれた元本の額と利率から返済額を計算した先生は、アネットの父親がすでに借金を完済していることを知った。金貸しは勝手に利率を変え、いつまでたっても元本が減らないようにしていたのだ。先生は借用書を手に金貸しの家に乗り込み、激しく抗議して、そして――証拠の借用書を破られ、ボロボロになるまで殴られて、今、雨の中を道端に横たわっている。
「……僕は、無能だ!」
先生の左手が振り下ろされ、石畳を打つ。手の皮がすりむけ、血が滲んだ。
「生徒一人、救えない……!!」
震える声で先生が叫ぶ。目を覆う手の隙間から溢れるものが、雨に濡れる石畳に落ちた。
「トラックさん!」
トラックの姿を見つけて、エバラが少しほっとしたように声を掛ける。アネットの家の周囲には近所の住人が集まっていた。
「何があったのですか?」
セシリアが硬い声でエバラに尋ねる。アネットの家の玄関の扉は破壊され、そこから覗く家の中の様子は、見える範囲だけでもひどく荒らされている。どう見ても尋常ではない。エバラはひどく辛そうな顔で目を伏せた。
「金貸しの連中が急に来て、アネットを連れてったって」
アネットの母親は三年前、病に倒れ床に伏せた。アネットの家は貧しく、治療に必要な金など持っていなかった。アネットの父親はその金を借金で賄った。しかし治療の甲斐なくアネットの母親は亡くなり、借金だけが残った。
「ちゃんと毎月コツコツ返していたんだよ。なのに今朝、急に全額返せなんて言ってきたらしくて」
返せないなら娘をもらうと、金貸しは強引にアネットをさらったらしい。それを阻止しようとした父親は殴りつけられてひどいケガを負い、今は近所の人たちによって施療院に運ばれて、治療を受けている。
「どこの金貸しか分かるか?」
エバラは剣士の問いにうなずき、北東街区のある商家の場所を伝えた。剣士はエバラに礼を言うと、厳しい表情でトラックとセシリアに言った。
「とにかく向かおう。売り飛ばされたら手の打ちようがない」
「待っとくれ!」
北東街区に向かおうとするトラック達をエバラの声が引き留める。詳しいことは分からないけど、と前置きして、エバラは心配そうに言った。
「先生がすごい顔して走っていったらしいんだよ。まさかとは思うけど、バカなことをしてないかって」
そしてエバラはためらいがちな声で言葉を続ける。
「……あんたたちに言っても仕方ないことだろうけどさ。どうにか、ならないのかねぇ。借金する方が悪いって言われるかもしれないけどさ、別に借りた金で遊んでたわけじゃないんだ。こんなの、あんまりじゃないのさ」
エバラは胸の前でぎゅっと自分の手を握った。
「他人事じゃないんだよ。私だってレアンが病気になったら、きっと借金してでも治してやりたいって、そう思うよ、きっとさ」
エバラの声は少し震えていた。彼女を労わるように、トラックは優しくクラクションを鳴らす。エバラは目尻を拭い、トラックに微笑みを返した。
「行きましょう」
セシリアが出発を促す。うなずこうとした剣士の鼻に、ぽつり、と雨粒が落ちた。
「……降ってきやがった」
厚い雨雲を見上げ、剣士は苦々しい顔で吐き捨てた。
雨が、降っていた。石畳を流れる雨は、横たわる男の涙を押し流す。
「あんた、バカだよ、先生」
先生の傍らに立ち、剣士が静かに声を掛ける。先生が再び唇を噛んだ。
「あんたの手は、そんなことに使うもんじゃないだろう。あんたの手は、誰かと争うために使うもんじゃないだろう。あんたの手は、子供たちを支え、導くためのものだろう」
先生は無言で剣士の言葉を聞いている。
「そういうのは、さ」
剣士は拳を強く握り、正面にある商家を見つめた。
「冒険者のやることだ」
ハッと息を飲み、先生は慌てて上半身を起こして剣士を見上げる。
「待ってくれ! そんなことをしたら――」
セシリアの翠の瞳が光を帯び、言葉の途中で先生は気を失った。石畳に膝をつき、セシリアは倒れ込もうとしていた先生の身体を支える。
「先生のことは私に任せて。ふたりは――」
セシリアはトラックと剣士を見上げ、凍えるように穏やかな声で言った。
「憂いなく、存分に」
仮面のように無表情な剣士は、普段とまるで変わらない口調で短くトラックに告げる。
「行こうか」
トラックもまた、プァンと短く剣士に答えた。
あれ? おかしいな? ボケが、迷子になっているよ?




