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謀略

 リングの中央で二人の男が、まるで時を止めたように静止している。見事なアフロヘアの青年の右の拳はもう一人の偉丈夫の左わき腹を抉り、偉丈夫の右拳は青年の頬に突き刺さっている。観客たちは声もなく様子を見守る。誰かがごくりと唾を飲んだ。


「……見事、だ」


 小さくつぶやき、偉丈夫――ウルスの身体がゆっくりと崩れ落ちる。ノブロはにやりと口の端を上げ、そして、限界を迎えたように後ろに倒れた。レフェリーが駆け寄り、二人の様子を確認して、大きく両腕を頭上で交差する。両者、続行不可能。興奮気味にゴングが鳴り響き、試合の終わりを人々に知らしめる。


 あまりにも劇的な、10Rダブルノックアウト。ケテルのボクシング史に伝説として語り継がれることになるであろう試合の証言者となった人々は熱狂を叫び、両者を讃える声がうねりとなって天を突いた。




「それでは、いよいよ最後の曲になりました。幸せな時間はあっという間ね」


 ステージの中央でカリオペイアがマイクを両手で握り、観客たちにややしんみりしたトーンで語り掛ける。観客は通りを埋め尽くし、アディシェス兵だけでなく衛士隊も警備に駆り出されたらしく、各所に配置された衛士たちが事故が起きないようにと目を光らせている――ふりをしながらミューゼスの音楽に聞き入っているようだ。指揮を執るためだろう、衛士隊の中にはイャートの顔もあった。イャートは表情の読めぬ顔でステージのカリオペイアを見ている。

 観客から「寂しい」「もっと一緒にいたいよ」という声が飛ぶ。ありがとうと微笑み、カリオペイアは意を決したように言った。


「この曲は、私たちにとってとても大切な言葉が詰まっています。今の私たちの偽りのない気持ちを表した曲です」


 しっとりとしたピアノの音が流れ始める。客席がミューゼスの声を一言も聞き漏らさないように静まる。


「――聴いてください。『鼓動』」


 センターのカリオペイアが目を瞑り、静かに歌い始めた。


『涙を流さずに泣いていた』


 エラトーとウーラニアは鏡映しのように、カリオペイアの左右でゆったりと踊る。


『冷めた瞳で、分かったような顔をして』


 感情を抑えたカリオペイアの声は、染み入るように広がる。


『諦めるのが賢いんだって』


 エラトーとウーラニアが胸に手を当ててうつむき、


『期待しても無駄だって』


 崩れるように膝をつく。


『心を殺して笑っていた』


 カリオペイアが苦しげに目を瞑ったまま眉を寄せる。エラトーとウーラニアも背を丸めて肩を落とした。


『けれど』


 カリオペイアが目を開ける。エラトーとウーラニアが顔を上げた。


『鼓動が伝える。本当の気持ち。閉じ込めても抑えつけても消えなかった想い』


 エラトーとウーラニアが立ち上がる。カリオペイアが天を見上げ、三人の声が重なる。


『私、歌が好きだ』


 冷めた諦念から解放されたようにピアノが感情を帯び始める。抑圧を徐々に解いていくように三人の声がその強さを増していく。


『歌は救うの。苦しみを、痛みを。歌で救うの。悲しさを、辛さを。笑いますか? バカバカしいって。生きることはそんなに簡単じゃないって』


 三人はマイクを持たないほうの手を掲げる。祈るように、解き放つように。


『ごめんなさい。もう走り始めたの。鼓動が、呼吸が、温度が、私を導く』


 迷いを、不安を、振り払って、決意を宿した瞳が輝く。


『どうか見ていて。駆け抜けるから。憎しみを解いて、痛みを癒して、歌は世界を巡る。剣じゃない、魔法じゃない、歌だけが世界を輝かせるって、信じてるから』


 そして三人は、観客をまっすぐに見つめた。


『私は、歌い続ける』


 ピアノが止まり、ミューゼスとしての意志が観客を飲み込む。会場は水を打ったように静まり返った。カリオペイアが両手でマイクを強く握る。やがて――


――パチパチパチ


 会場のあちこちから、拍手の音が上がり始める。それはすぐに伝播し、雷鳴のように轟いて天を揺るがす熱狂となった。


「……ミューゼスの伝説は、ここから始まる」


 会場の端で、確信を得たようにプロデューサーが口の端を上げた。




 南東街区でのノブロとウルスのエキシビジョンマッチと、予定外のミューゼスによるシークレットゲリラライブによって、その日のケテルは興奮と熱狂に包まれた。そしてその裏側で、冒険者ギルドのメンバーは密かにケテルへの潜入を果たした。エキシビジョンマッチとゲリラライブが同時に起こったことで混乱した警備状況の隙をうまく突いたということなのだが、状況の変化に適切に対応して任務を遂行できたのはAランク冒険者の能力の高さの証明なのだろう。目立たずとも頑張った彼らに拍手を送りたい。

 エキシビジョンマッチの後、目を覚ましたウルスはノブロのことをたいそう気に入ったらしく、試合のダメージが抜けたら私邸に招待したいと打診してきた。それはつまり、ノブロ達がウルスの私邸に怪しまれることなく入ることができる、ということを意味しており、いわば嬉しい誤算だった。元々トラックはイベントを隠れ蓑にして冒険者たちをケテルに潜入させた後、ウルスの私邸を襲って身柄を確保し、アディシェスに退去を迫るシナリオを描いていたのだ。わざわざ向こうが招いてくれるというならそれを利用しない手はない。ケテル奪還作戦、オペレーション『ZURA』の最後のミッションは、ウルスのくれた招待状に書かれた日付に決まった。


 想定外の事態がもう一つ。ミューゼスのシークレットゲリラライブは、シークレットなので当たり前だが、ケテルの当局に許可申請を出しておらず、カリオペイアたちはライブの後に衛士隊詰め所に連行されてこっぴどく叱られた。一通りのお説教を受けた後、イャートは表情を緩めて言った。


「まあ、型通りの注意はこのくらいにして。実はね、恥ずかしながらライブというものをこの目で見たのは初めてだったんだけど、すごいものだねぇ。観客との一体感、というのかな? その場にいなければ分からない、心が揺さぶられるようなものを確かに感じた。私はアイドルには疎いんだが、君たちの素晴らしさはよくわかった」


 そこで、とイャートは柔和な笑みを浮かべる。


「君たちをウルス様に紹介したい。ちょうど東洋太平洋チャンプとの会食が予定されているから、それに君たちも招待したいと考えている。どうかな? この町の最高権力者に繋がりができる機会は、君たちにとっても悪い話ではないと思うけど」


 カリオペイアはやや戸惑った表情を浮かべる。


「私たちとしては願ってもない申し出ですが……。本当によろしいのですか?」


 イャートは「もちろん」と大きくうなずいた。即答にカリオペイアが言葉を詰まらせる。どう返答すべきか、判断を間違えればそれは、間違いなく破滅につながる。

 カリオペイアの中の人である剣士はイャートの性格を知っている分、何か裏があるのではないかと疑っているのだろう。それにこの提案にはなんとなく違和感がある。イャートがミューゼスのライブに感動してウルスに紹介したいと思った、ということを信じるとしても、ノブロとの会食に割り込ませる形でそれをセッティングするのは不自然だ。ウルスはノブロを相当に気に入ったようだから、その会食に邪魔が入ることを快くは思わないだろう。別日に改めて面会させるのが筋ではないか。イャートがそれに思い至らないとは考えづらい。ならば、そこには間違いなく何らかの意図がある。


――罠、か。


 古来、飲食の席は暗殺、謀殺の主要な舞台だ。イャートが、あるいはアディシェスがトラック達の企みに気付いており、関係者をまとめて会食の場に集めたうえで一網打尽にするつもりだとすれば、この提案にも納得がいく。日付と場所を指定することでこちらの出方を窺っている可能性もある。ウルスの性格を鑑みれば似合わないが、イャート主導なら、あるいはウルス配下の誰かの謀略なら充分にありうるだろう。


「こちらとしても日程の調整なんかがあるからね。この場で返答してもらいたい」


 イャートの一見柔和な笑顔は、その奥にある本心を伝えてはくれない。


「どうかな?」


 カリオペイアの背に冷たい汗が伝う。客観的に見れば、ミューゼスにとっては得でしかない話だ。特に反権力を謳っているわけでもない以上、この申し出を断る合理的な理由が用意できない。イャートを相手に定かならぬ理由でこの提案を断れば、むしろ不要な疑心を招きかねない。一度疑心を抱かれたら、イャートが簡単に追及を諦めてくれるとも思えない。つまり――この提案、受け入れる以外に道がない。


「喜んでお受けいたします」


 カリオペイアがにっこりと笑って答える。イャートは満足そうにうなずくと、右手を差し出して言った。


「ありがとう。これで私の面目も立つよ」


 イャートの瞳に鋭い光が掠め、カリオペイアは不安を悟られぬよう強くイャートの手を握った。


イャートはミューゼスのライブの後、とりあえず物販ブースの商品をすべて買ってみたらしいですよ。

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歌詞が本格的ww
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