先生
秋晴れの暖かな太陽が穏やかに広場を照らす。夏の背ははるか遠くに去って見えなくなり、ケテルはすっかり秋の腕に包まれている。日差しを浴びても汗ばむことはなく、影に入れば肌寒い。湿度は低くカラッとしていて、ああ、なんだかとっても昼寝がしたい。今日はそんなことを思ってしまうようないい日和だ。
「はい。じゃあこの問題、わかる人?」
二十人ほどの子供の前で、黒板に書いた数式をチョークでコツコツと叩きながら先生が言った。三十歳くらい、いや、もう少し若いか。すらりと背が高い、筋肉とはあまり縁が無さそうな細身の男で、丸メガネがなかなか似合っている。先生に問われて子供たちが競うように手を挙げた。どうやら先生は子供たちにずいぶんと慕われているらしい。はいはいと自分をアピールする子供の声に交じって、プォンプォンと妙な音も聞こえた。トラックのクラクションだ。子供たちに交じって、トラックは今、青空教室に参加していた。
エバラ夫妻の家に住み着いたレアンの両親は、ギルドから知らせを受けた犬人の村長にこっぴどく叱られ、村に連れて帰られることになった。レアンだけはエバラ夫妻の許に養子として残ることになったらしく、夫妻はレアンの両親に深く頭を下げてその背を見送った。養子の話は思いのほかあっさりと決まったようで、レアンも両親もいいのってくらいにサバサバしていた。そもそも犬人は子だくさんで、子供を養子に出すというのは珍しくないことなのだとか。うーむ、文化の違い。まあ、人間に養子に出す、ということはあまり前例がないみたいだけど。
もしかしたら両親がエバラ夫妻の家に押し掛けたのは、レアンを預けてもよい相手なのかどうかを見極めるためだったのではないかと、そんなことをセシリアが言っていた。傍からは食っちゃ寝生活を全力で謳歌していたようにしか見えなかったが、実は心の中で厳しく査定していたということだろうか。犬人の内心を計るのはなかなか難しいのかもしれない。なんにせよ、いいところに着地したようでよかった。
トラックはレアンのことがちょっと心配らしく、西部街区に用がある時なんかにちょくちょく様子を見に行っていたりする。ケテルは他種族に寛容な町だし、他種族の姿を見ることも珍しくはないが、ケテルに住んでいるのは九割以上が人間だ。町という環境が他種族にとって住み心地のよい場所ではない、というのがその主な理由だが、やはり少数派というのはいつの時代、どんな場所でも立場が弱いものだ。わざわざ望んで少数派になりに移住する者はあまりいないのだ。エバラ夫妻が住む周辺でもレアンの他に獣人族はおらず、夫妻はレアンに友達ができるだろうかと心配していた。
「レアンを塾に行かせてみようかと思うの」
トラックの運転席でハンドルを握ってはしゃいでいるレアンの姿に目を細めながら、エバラがためらいを含んだ声音でそう言った。トラックが不思議そうにプォンとクラクションを鳴らす。
「近くにね、子供たちに読み書きや計算を教えている先生がいらっしゃるのよ。ほら、ケテルは商人の町でしょう? 読み書き計算は商売の基本だから」
西部街区に住む人々は、北東街区に店を持てないような小さな商いをしている商人やその家族、エバラ夫妻のように森での狩猟採集を生業とする人、個人でモノづくりをする零細職人など様々だが、みんなお金がないという点で共通している。お金がないということは教育にお金を掛けられないということで、基本的に子供は親の職業を継ぐ以外の選択肢を与えられない。だがそうすると、多くの場合収入面でも親と同じ水準を子が引き継ぐことになり、世代を超えて貧乏から抜け出せない。そんな状況を見かねてか、一人の男が格安で子供たちに読み書き計算を教える塾を開いたのだという。月謝は一般的な私塾の三分の一、現金が無理なら現物でも可、お支払いは払える時でいいという、思わず生活を心配してしまいそうな破格の条件のその塾は、たくさんの子供たちでにぎわっているそうだ。
「この子が将来、何を目指すのかは分からないけれど、もしこの町で生きていきたいと思った時に必要なのは、知識と仲間だと思うの。塾にはきっとその両方があるんじゃないかって」
しかし塾に通っているのは人間の子供ばかりだ。獣人のレアンがその中に飛び込んで、果たしてうまくやっていけるだろうか。猫人ほど見た目が人に近ければまだしも、犬人は犬成分が強い。ほぼ二足歩行の犬である。まあ要するに、エバラはレアンが孤立したりいじめられたりしないかと心配しているのだ。
「トラックさん。申し訳ないんだけど、最初の一回だけでいいから、レアンと一緒に、塾に行ってやってくれない?」
お願い、と言ってエバラはトラックに頭を下げる。本当は自分がついて行きたいのだろうが、仕事もあるし、塾に親がついて来ては友達ができまい。トラックは軽い感じでプァンとクラクションを返した。
「それじゃあ、トラック君。答えをどうぞ」
先生が回答者にトラックを指名し、子供たちが一斉にトラックを振り向く。黒板には左側にリンゴが三つと、右側にリンゴが四つ書かれており、全部でリンゴはいくつでしょう、というのが問題の内容らしい。トラックの隣の席ではセシリアが心配そうに、胸の前で自身の手を握った。さらにセシリアの隣には剣士がいて、教科書で手許を隠して早弁をしている。トラックは力強くクラクションを鳴らした。トラックの答えにその場にいた全員が思わず吹き出す。剣士が噴き出したものが立てていた教科書に飛んだ。ああ、汚いなもう。
「わかりませんって、堂々と言うセリフじゃないよ」
先生の呆れ声に、トラックはえへへとばかりにプォンと応える。すっかりクラスのお調子者ポジションである。レアンも他の子たちと一緒に楽しそうに笑った。おお、馴染んでる。よかった。
西部街区は基本的に小さな建物が密集するごちゃごちゃした地区だが、一定の間隔ごとにちょっとした広場が設けられていて、住人たちはその広場を共有スペースとして結構好きに使っている。元々は火事の際に延焼を防ぐための防火帯の意味合いだそうだが、住民たちにとってはもはや憩いの空間という認識の方が強い。先生の青空教室も広場を活用して行われており、天気の良い日に空いている広場に机と椅子を運び込んで授業を行うゲリラスタイルである。広場の使用は早い者勝ちなので先に使われていて授業ができない、ということもあるようだが、基本的に西部街区の住人たちは先生に協力的で、場所を譲ってくれたり、差し入れをしてくれたりこともあるらしい。先生の人徳ということだろう。
「それじゃあ、レアン君。頑張ってみようか」
トラックを笑っていたレアンの耳がピンと立った。その顔が緊張で固まる。おお、いきなりの試練。先生超スパルタ。目をきょろきょろとさまよわせ、レアンが「クゥーン」と弱気な声を上げた。あ、尻尾が下がってる。
「大丈夫。落ち着いて考えてみて」
レアンの様子を見かねたのか、隣に座る女の子が椅子を寄せる。明るい赤毛の、十歳くらいの女の子だ。お、教えてくれるのか。優しーい。ええ子や。
「ほら、こっちにりんごが三つあるでしょう? あっちにはりんごが四つある。じゃあ、あっちのりんごをこっちに全部持ってきたら、どうなる?」
女の子は教科書の絵を指さしながらゆっくりとレアンに説明する。レアンはハッと何かに気付いたように顔を上げ、満面の笑みを浮かべて言った。
「食べる!」
「食べないで。食べちゃダメ。数が変わっちゃうわ」
レアンの耳がふにゃんと下がる。レアンは不安げに上目遣いで女の子に反論する。
「でも、腐っちゃうよ?」
「腐る前に食べるから安心して。今はちょっとだけ我慢してね」
女の子は辛抱強く説明を繰り返す。レアンは頭がゆで上がりそうなくらいに一生懸命考えていた。先生は口出しをせず、じっとレアンが答えを出すのを待っている。他のみんなも固唾を飲んでレアンを見守っていた。やがてレアンが「あっ」と声を上げ、うれしそうに女の子に言った。
「七つだ!」
「正解! よく頑張ったね」
レアンの答えに間髪を入れず、先生が大きな声で褒める。レアンは先生に顔を向けて照れたように笑った。他の子供たちから拍手が起きる。女の子は優しく微笑むと、椅子を自分の机に戻した。
「アネットもありがとう。立派な先生だったよ」
先生がアネットと呼ばれた女の子に軽く頭を下げる。アネットは顔を赤くして首を横に振った。
「それじゃ、アネットにはちょっと難しい問題を出そうかな。よく考えて答えてごらん」
先生は黒板のリンゴの絵を書き換え、一か所に集めると、その隣にいかにも怪しそうな商人風の男の絵を描き加えた。サラサラ描いている割に妙に上手い。
「さて、リンゴを一つ銅貨二枚で売っている君の前に、商人風の男が現れてこう言うんだ。『そのリンゴを全部売ってほしい。ただ、今は手許に銅貨も銀貨も無いんだ。金貨で払うから釣りをくれ』。さて、君はこの商人にどれだけの釣りを渡せばいい?」
ちなみに一般的な金貨一枚は銀貨十枚分の価値があり、銀貨一枚は銅貨二十枚分の価値があるらしい。ただ、それぞれの貨幣には大貨と半貨と呼ばれる、大きさの異なるものがあったりして、実際の取引はかなりややこしい。この問題では話を単純にするために基本の貨幣しか使わないとされているようだ。と、いうことは、お釣りは銀貨九枚と銅貨四枚、で合ってる?
アネットはしばらく真剣な表情で考えていたが、やがて小さく頷いて先生に答えを返した。
「お釣りは、ゼロです」
えっ? なんで? 金貨一枚もらってお釣りゼロって、ぼったくっちゃえってこと?
「理由は?」
先生はその答えを予想していたように冷静に問い返した。アネットは自分の考えをまとめながら、といった風情で慎重に答える。
「普通、リンゴのような安価な品物を少量買うときに金貨を使うことはありません。まして商人なら、護衛も無しに金貨だけを持って市場に来るなんてありえない。買い付ける品物に比べて金貨を持ち歩くリスクが高すぎる。盗まれたり、金貨を支払っている姿を見られて帰り道に襲われる可能性もありますから。それでもあえて金貨で買うというなら……」
アネットは先生に確信をもって告げる。
「その金貨は偽物です。お釣り目当ての詐欺師ですね」
そ、そうなの? これ、算数の問題じゃなかったの? ってか、そんなに殺伐としてるの、この世界? 先生は小さく頷き、さらに問いを重ねる。
「では、どう対処する?」
アネットは緊張をほぐすように深呼吸すると、キッと鋭い視線で先生を睨みつけ、ばんっと机をたたいて叫んだ。
「ナリが小さいからって甘く見るんじゃないよこのサンピンが! こちとらもう十年もこのシマで商売やってんだ! くだらねぇことしやがって、お呼びじゃねぇんだよこのタコスケ! 痛い目見ないうちにとっとと消えな! それともなにかい、その股の間にぶら下がってる汚ねぇ玉を、詫びの代わりに置いてくかい?」
あっ――
アネゴーーーーっ!!!
カッコいいよアネゴ! ポンポン出てくるタンカが小気味いいよアネゴ! アネットのアネはアネゴのアネですか? だけどアネゴ、十年前から商売してたらアネゴ、ゼロ歳から働いてることになりますよ?
アネゴは緊張の面持ちで先生を見つめる。先生は大きく頷くと、アネットに力強い拍手を送った。
「正解。問題の意図をよく読み取ったね。素晴らしい」
先生の賛辞にアネゴははにかんだ笑みを浮かべた。うーむ、こうして見ると普通の十歳の女の子である。すごい豹変ぶりだよアネゴ。女は化けるってよく言うけど、こういうことなのかな。
先生の拍手に会わせて、他のみんなもアネットに拍手を送った。アネットは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
授業が終わり、生徒たちは撤収作業をしながら友達とおしゃべりをしている。そんな中、
「おい」
三人の男の子がレアンの机に近付いてきた。レアンが緊張気味に声の主を振り返る。三人は威圧するようにレアンを取り囲んだ。
「このクラスのルールは分かってるか?」
三人の中のボスっぽい子がぎろりとレアンを睨む。レアンはゴクリとつばを飲み込むと、慎重に答えた。
「アネットには逆らわない」
「そうだ」
三人は大きく頷き、レアンの答えに満足したように笑った。
「アネットに逆らえば明日はない。それが理解できない奴とは付き合えない。その点、お前は合格だ」
ボスはスッとレアンに右手を差し出した。
「お前とはうまくやっていけそうだ」
「ありがとう」
レアンはボスの手を取り、力強く握り返す。他の二人も手を重ね、四人は互いの顔を見渡し、頷いたのだった。
ありがとう、アネゴ。あなたのおかげで、今日、レアンに人間の友達ができました。
普段、撤収作業は先生が持っている大きな荷車に机と椅子を積み、人力で先生の家まで運ぶ。これが結構な重労働で、しかも荷車はそれほど大きくないので何往復もしなければならず、先生の悩みの種だったそうだ。しかし今日はトラックがいる。トラックは左のウィングを上げ、クラス全員分の机と椅子を荷台に受け入れていた。
「いやぁ、助かります。本当にありがとう」
必要な荷物を荷台に積み終えて、先生はトラックに頭を下げた。トラックはプァンとクラクションを返す。うむ。こういうときこそ役に立つのだ。荷物運びこそトラックの本領よ。先生はトラックのクラクションに微笑んだ。
「荷物のことだけじゃありませんよ。授業にも参加してもらって。あなたが『分かりません』と言った時、クラスの雰囲気がふっと柔らかくなった。みんな緊張していたんです。犬人のレアンがクラスに入ってきて」
姿も違う、育った環境も違う、犬人がクラスに来ると聞いたとき、クラスの子供たちはざわついたのだという。決して悪い子供たちではない。けれど、未知のものを受け入れるというのはやっぱり難しいのだ。
「だけどトラックさん。あなたに比べたら、レアンとの違いなんてささいなことだと、みんな気付いてくれたんですよ。あなたが平気な顔で授業を受けてくれたから」
トラックは素っ気なく先生にクラクションを返した。先生は後ろを振り返る。そこにはてきぱきと片づけを差配するアネットの姿があった。
「ええ。アネットにも感謝しています。あの子は優しくて、正義感の強い、本当にいい子ですよ」
アネットは母親を早くに亡くし、今は父親と二人暮らしなのだそうだ。生活は決して楽ではないが、厳しい家計をやりくりして、どうにか月謝を工面してこの塾に通っている。父親は文字が読めないそうで、今までたくさん悔しい思いをしてきたらしい。同じ悔しさを娘が味わうことのないように、そんな父親の願いに応えて、アネットは懸命にここで勉強している。はやく一人前になって父親を助けたい。それが彼女の目標なのだ。
「子供は生まれを選べません。しかし子供の将来は親の経済力に大きく影響されます。実質的に西部街区の子供たちは、親の職業を継ぐか奉公に出る以外にない。僕はね、トラックさん。そんな現実を変えたい。子供たちが自分の意志で自分の生き方を決められる、そんな未来を作りたいんです。そしてそれを可能にするのは、教育の力だと、信じているんです」
先生は力強く、優しい瞳で生徒たちを見つめる。そして、ハッと気づいたように顔を赤くすると、右手でポリポリと頭を掻いた。
「す、すみません。偉そうに、何を言っているんだか」
恐縮するように背を丸める先生に、トラックは穏やかにクラクションを返した。隣にいたセシリアがうなずく。剣士が言葉を補うように口を開いた。
「ああ、あんたは偉いよ、先生」
先生は顔を上げてトラック達を見渡すと照れたように「ははは」と笑った。
「いよっ、先生偉いっ! ニクいね大将! 男前!」 そう言って三人はさんざん先生をおだてると、授業料を払わずに去って行ったのでした。




