待つ男 ~イヌカの場合~
トラック達を試練の門の向こうへと送り出し、暗愚王は暇を持て余すようにくるくると回り続けている。試練から戻ってくる者は未だなく、各々の試練の結果を知る術もない。もっとも、暗愚王は試練の結果そのものには興味がないのかもしれない。彼が示すのはただ可能性のみ。その可能性の中から何を選び取るのかは各人の自由であり、責任なのだ。
はたと回転を止め、暗愚王は何もない空間を見つめた。しばらく目を凝らし、おもむろに手を伸ばす。
――バチッ
何かが弾ける音と共に、何もなかったはずの空間から引きずり出されるように一人の男が姿を現す。『隠形鬼』を力づくで破られたイヌカが荒い呼吸で膝をついた。その額にじっとりと汗がにじむ。その目は暗愚王をにらみつけていた。
「怖い顔をするな。お前のスキルが未熟であったわけではない」
暗愚王は言い訳めいた口調で言った。
「私は管理者から与えられた特権を維持しているのだよ。ゆえに本来知りえぬことを知り、為しえぬことを為すことができる。いわばズルをしたのだ。お前の隠形を見破ることができるものはこの世界にそうはおらぬ。安心するがいい」
イヌカが不可解そうに眉を寄せる。暗愚王はわずかに落胆を示した。
「……お前に言っても詮無いことであった。忘れてくれ」
暗愚王の顔に孤独の影が差す。理解されないことを寂しく思っている。地獄の六王と呼ばれる彼の様子にイヌカは意外そうな表情を浮かべたが、すぐに厳しい目に戻って言った。
「皆は帰ってこられるのか?」
暗愚王は表情を改め、首を横に振った。
「それは私の関知するところではない。各々の試練がどのようなものかも、その結果も。皆の状況はお前のほうが詳しいのではないか?」
イヌカが不快そうに鼻にシワを寄せた。暗愚王は知っているのだろう、イヌカが自らの試練を受けず、ここに残って身を潜めていた理由を。イヌカは『隠形鬼』の奥義である『割魂の法』を用いて密かに、試練に望む皆に自分の分身を同行させている。『割魂の法』で作り出した分身は本体と場所を入れ替えるという能力を持っている。もし誰かが試練に敗れたとき確実に試練の門から救い出すために、イヌカはここにいるのだ。
「お前は試練を望まなかった。それは自らの道をすでに定めているということ。お前は可能性を捨て、一つを選んだ。お前に試練は必要ないのだな」
どこか残念そうに暗愚王は言った。暗愚王が愛でるのは無限の可能性であり、すでに取捨の終わった定められた道ではないのだ。
「オレの道とやらを、阻むつもりか?」
イヌカが警戒した様子で問う。無理やりに『隠形鬼』を破った以上、暗愚王はイヌカのやろうとしていることを妨害するつもりだと考えるのは自然だろう。イヌカの望み――彼が選んだ道とは、仲間を誰も失わないという誓いであり、意志だ。暗愚王はゆっくりと首を横に振った。
「私は何も否定しない。お前の選択に敬意を表し、余計な手出しはせぬ。お前の隠形を解いたのは姿も見せずにこっそりと動かれては面白くなかっただけだ」
イヌカは拍子抜けしたように暗愚王を見る。面白くない、という理由で簡単に『隠形鬼』を破られたことにいささかのショックを受けているようだ。地獄の六王の一柱の力は一介の人間に対抗しうるものではない、ということをまざまざと見せつけられたということか。
「……あんたは、何がしたい?」
イヌカは固い声で言った。なぜ暗愚王は『愚者の門』の中で試練を受ける者を出迎えるのか。試練を与え、成長の機会を与えるのか。それは思わず口をついた素朴な疑問だった。暗愚王は虚を突かれたように言葉に詰まる。しばし停止し、ふっと力が抜けたように暗愚王は笑った。
「……見届けたい、のだろうな」
暗愚王はどこか遠くを見つめる。
「かつて私は兄弟と共にこの世界を創った。それは管理者の命令を実行したに過ぎないが、それでも、自らの手で作ったものには愛着が湧くものだ」
暗愚王は表情を消し、イヌカをじっと見つめる。
「管理者はやり直しを望んでいる。しかし管理者が直接世界に干渉する術は失われ、『生命の樹』のみがその手段となった。『セフィロトの娘』の祈りが世界の運命を決める。私は見たいのだよ。私が作り出した者たちが、何を選び、どう生きていくのかを」
その言葉に偽りの気配はない。予想していなかった素朴な答えにイヌカは言葉を返すことができないようだ。わずかに微笑みを浮かべ、暗愚王はわざとらしく大きな声を上げた。
「今しばらく待とうではないか。彼らの選択を。それがあるべき未来につながることを祈りながら」
イヌカはいつだって報われない裏方を自ら買って出る男です。誰にも気付かれないように、ね。




