迷いの中で ~セシリアの場合~
何もない空間に、セシリアは立っていた。白く四角い小さな部屋、まるで配置するオブジェクトを設定し忘れたかのような無機質な部屋で、セシリアは彼女によく似た面差しの女性と向かい合っている。少し年上だろうか、落ち着いた雰囲気で穏やかに微笑んでいるその女性とは対照的に、セシリアは緊張の面持ちで彼女を見つめている。
「ディアーナ、様?」
にわかには信じられないという口ぶりでセシリアがつぶやく。女性は小さくうなずいた。
「不思議な気分だわ。自分の遠い子孫とこうして向き合うなんて、ね」
ディアーナの声に母の面影を感じ取り、セシリアの目が潤む。しかしディアーナは感傷を許さぬと言うように表情を改めた。
「何を望む?」
ハッとセシリアの表情が強張る。ディアーナは冷たいとさえ思える口調で言葉を続けた。
「ここに来たということは、叶えるべき願いがあるはず。貴女は何を望み、何を願うの? セフィロトの娘である貴女は」
わずかなためらいを示した後、セシリアは覚悟を決めたように表情を引き締めた。
「私の望みは、あなた方の描いた理想を実現すること。出自も、種族も越えて『自由』な世界をもたらすこと。そしてセフィロト王国の王位継承者として、国を再興し、戦乱の元凶たるズォル・ハス・グロールを討ち、世に平和と安寧をもたらすこと。私のために命を落とした無数の人々のため、私の義務を果たすことが、私の望みです」
セシリアの答えに、ディアーナは思わずといった様子で苦笑いを浮かべた。戸惑うセシリアにディアーナは謝罪する。
「ごめんなさい。どこかで聞いたことのあるような答えだったから、つい、ね」
ディアーナは視線を上げて遠くを見つめる。
「百年前、私が『愚者の門』で受けた試練には『私』がいた。私は『私』に問われたの。『何を望む?』と」
ディアーナの顔に苦い後悔が浮かぶ。
「そのとき私は言ったわ。世界に自由を。平和を。安寧を。けれど『私』はこう問いを返してきた。『本当にそれだけか?』って。私は『そうだ』と答えた。私の望みはそれだけだと。私は、嘘を吐いたの」
「嘘?」
セシリアは思わずといった様子で問う。伝説の英雄たちが望んだのは自由と平和だったはずだ。それが嘘とはどういうことなのか――ディアーナはセシリアの疑問に答えず、その目をじっと見つめた。
「私も同じように問いましょう。貴女の望みは本当にそれだけ?」
セシリアの瞳がためらいに揺れる。しかし彼女は、ぎこちなくうなずきを返した。
「私の、望みは、自由と平和と安寧、そして、私を生かして命を落とした人たちの無念を晴らすこと。それが全てです」
ディアーナはじっとセシリアの目を覗き込む。セシリアはディアーナを見つめ返し、やがて耐えきれなくなったように目を逸らした。ディアーナは小さく苦笑いを浮かべ、そして遠くを見るように視線を上げた。
「私は、コングロを愛していた」
えっ? とセシリアが思わずといった様子で顔を上げる。百年前、戦乱を鎮めて後、ディアーナは故郷に戻り、当時のセフィロト王国の隣国の王子と結婚したはずだ。一方のコングロはケテルの創建に邁進し、生涯独身を貫いたと聞く。目を丸くするセシリアの疑問に答えるようにディアーナは口を開く。
「彼はまぶしいくらいにまっすぐな人。心を抑えつけることを何よりも嫌う人。彼の夢は種族も性別も貧富の差も飛び越えて、皆が自由に自らの道を選ぶことができる世界を創ることだった」
ディアーナの目に哀しみと自虐が宿る。
「私は臆病だった。彼の夢を共に見ることができなかった。だから私は、自分の一番の望みを心の奥に閉じ込めたの。大乱を鎮めた後、私は彼と別れて故郷に戻った。国を治める責務がある、血を伝える義務があると、自分に言い訳をして」
ディアーナはセシリアを再び見つめる。
「トラックというあの御方を、愛しているのではないの?」
セシリアが目を見開き、顔が瞬時に朱に染まる。それはどんな言葉よりも雄弁な問いへの回答だった。何かを言おうとして言葉にならないセシリアに、ディアーナは問いを重ねる。
「自由は、平和は、本当にあなたにとって大切? あなたのために命を落とした人たちの無念を、本当に晴らさなければならないの?」
「当たり前だ!」
セシリアはディアーナをキッとにらむ。
「父母の無念を、友の最期の言葉を、臣下の献身をどうして忘れられよう! 私はセフィロト王国の王位継承者! 逆臣を誅し皆の魂を鎮めることこそ、生き残った私の責務だ!」
ディアーナは続きを促すように無言でセシリアを見ている。セシリアは視線を落とし拳を強く握った。
「……燃え落ちる城を背に、暗闇の中を駆けながら、私は誓った。ズォル・ハス・グロールを必ず討つ! そのためならばいかなる犠牲もいとわぬと!」
「それは彼の望みと相容れない」
ディアーナの静かな言葉がセシリアを打ち、セシリアはビクリと肩を震わせた。
「トラックという男が命を諦めることはない。ならばあなたの行く道の先に、やがて彼は立ちふさがる敵になる。それでいいの?」
「……私、は――」
セシリアは硬く目をつむる。止めようとしても止めることができぬ涙が頬を伝った。
「――もう、私の手は、穢れている。彼の隣にいる資格は、もう私にはない」
セシリアの身体から光が溢れる。しかしその光は真白の輝きを持たず、血の赤と憎しみの黒に濁っていた。父母の仇、ラジール・バルジオロを手に掛けて後、彼女の『始原の光』は翳り淀んでいる。ディアーナは首を横に振った。
「憎しみも怒りも抱かぬ無垢な輝きが『始原の光』なのではないわ。あなたの光の濁りはあなたが穢れたからではなく、あなたがあなた自身を偽っているから」
偽りなどない、とセシリアはうつむいてつぶやく。ディアーナの目が厳しさを増した。
「あなたは怖れているだけ。あなたは逃げているだけ。傷付くことが、失うことが怖くて、義務や責任を言い訳にしているだけ」
「お前に何がわかる!」
激しい怒りを示すセシリアに、ディアーナは自嘲を口元に浮かべた。わかるわ、と小さくつぶやき、ディアーナは声を柔らかくする。
「どうして『生命の樹』に祈りを届ける力を持つ者を『セフィロトの娘』と呼ぶかわかる?」
脈絡のない問いを受け、セシリアは戸惑いを顔に示した。ディアーナは諭すような微笑みをセシリアに向ける。
「『生命の樹』に祈りを注ぎ、新たな理が『生命の実』として結実したとき、『セフィロトの娘』はその役割を終える。役割を終えた者が舞台に残り続けることはできないでしょう? だから――私たちは娘と呼ばれる年齢を超えられない」
ディアーナは淡々と『セフィロトの娘』の運命を語った。歴代のセフィロトの娘はことごとく二十代で命を落としている。ディアーナ自身、二十代の半ばを迎えることなくこの世を去っているのだ。セフィロトの娘はあたかも世を変える道具のごとく、生まれ、世を乱し、そして死ぬ。人としての幸福を望むことなど許されぬとでも言われているかのように。
「なればこそ」
セシリアは硬い表情で口を開いた。
「私の命は大義のために使わねばならぬ。終わりの時を区切られたのならなおさら、余計な夢など見ている暇はない」
セシリアは虚勢を張るようにディアーナをにらむ。ディアーナの見つめ返す視線にも、今度は目を逸らさない。ディアーナは小さく息を吐く。
「義務や責任に縋って生きるには、五年は長すぎた」
ディアーナはセシリアを透明に見つめる。
「コングロと別れてからの五年間、私は灰色の世界にいた。あらゆるものが作り物のように見えた。彼が隣にいないことも、彼ではない誰かが私の隣にいることも、悪い夢のようだったわ。苦しかった。苦しさを自覚できないほどに」
「それはあなたが惰弱であったに過ぎない!」
不都合なものを振り払うようにセシリアはディアーナの言葉を遮った。そうね、とつぶやき、ディアーナは目を伏せる。
「けれど、私たちが、彼が望んだ世界は、『弱さを否定しない』世界のはずだった」
ディアーナは固く目を閉じる。
「王族に生まれたから。『始原の光』を身に宿していたから。そんな理由で望みを諦めなければならないの? なんて、弱さだと言われたらそうでしょう。けれど、力の強い者、声の大きい者だけが望みを叶える世界を目指したわけじゃない」
ディアーナは再び目を開き、セシリアを見据えた。
「『自由』とは何にも縛られないことじゃない。何に縛られるのか、それを自らの意志で決めることができるということよ」
気圧されたようにセシリアは口を閉ざす。ディアーナの口調にかすかな労りが混じった。
「どうか、逃げないで。自分の心が本当に望むものから。何を捨ててもいい。何を望んでもいいの。偽りはいつか綻ぶ。そしてその時、必ず後悔することになるから」
本当に望むもの。本当の望み。セシリアは強く唇を噛む。その頬を涙が伝い落ちた。
ディアーナは戦乱の終結後、故郷へと戻って女王となり、隣国の王子と結婚しました。ディアーナは夫を愛することができませんでしたが、夫はディアーナを愛していました。一児をもうけた後、ディアーナは他界します。夫はディアーナの遺志を継いで平和のために奔走し、セフィロト王国の礎を築くのです。




