試練 ~ミラの場合~
エルフたちが住まう場所とは違う、どこか荒々しい生命の気配が満ちた森を独り、ミラは歩いていた。門を抜けた先にあったのは、昼なお暗き深い森。獣たちの瞳だけが光を湛えて獲物を見つめ、一瞬の油断が命を奪うようなひりついた気配に満ちている。
「……ダークエルフ、あるいは、獣人――?」
自分を狙う視線を四方から感じ、ミラは足を止めた。明らかな敵意がそこここに散らばっている。もっともそれは断りもなくこの森に踏み込んだミラに対する正当な反応なのかもしれないが。
「あなたは、周囲の全てが敵に見えているのね」
見通せぬ闇の奥から、場違いに思えるほどに年若い娘の声が聞こえ、ミラは声の主を捜して目を凝らした。ミラの正面からぼんやりと光が浮かび上がり、やがてそれはひとりの獣人の姿を形作る。見覚えのないその姿にミラはわずかに眉をひそめた。
「初めまして。ここに来たということは、あなたは私と同じ、ということかな?」
安心させるように微笑み、獣人――猫人の娘はゆっくりとミラに近付いてくる。ミラは身を固くして娘をにらんだ。
「同じ、って、どういうこと?」
硬い声で打ち据えるように問うミラを、猫人の娘は変わらず穏やかに見つめ返す。
「自分の無力さにうんざりしてる、ってこと」
ハッとミラが息を飲む。図星でしょう? と猫人の娘の目が告げていた。再びミラが強く娘をにらむ。娘はミラから視線を外し、どこか遠くを見つめるように視線を上げた。
「偉大過ぎるひとの傍にいることは、そう容易くはない。彼らはいつもはるか遠くを見つめていて、私はいつも必死だった。同じ場所に立っていたい。同じ景色を見たい。ただそれだけのことが、こんなにも難しいなんて、ね」
娘の顔が薄く自虐に歪む。ミラは戸惑いを浮かべた。娘は自分のことを語っている、にも関わらず、その心情はミラが抱いているものと同じだった。トラック、そして、セシリア。大好きなひとたちの役に立ちたくて――何も果たせずにいる自分と。
「百年前、この地は異なる種族同士が互いに争い、無数の命が意味もなく消えていく地獄の中にあった。しかしあるとき、一人の人間がその現実を拒絶し、『他種族融和』を掲げて戦いを始めた。そして彼はセフィロトの娘と出会い、戦乱の原因がセフィロトの娘を巡る争いであることに気付く。彼はセフィロトの娘と共に争いを終わらせる手段を捜し、戦い、そして――ついには戦乱を終結に導いた」
娘の独り言のような言葉を聞いて、ミラは彼女の正体に思い至った。百年前の大戦を終結に導いた三英雄、その一人は猫人の娘であったという。後にケテルを造った筋肉ヒゲ紳士コングロ。当時南方の小国にすぎなかったセフィロト王国の王女ディアーナ。そして、獣人族として他種族融和の土台を築くために奔走した猫人族長の娘マリット。そして今、目の前にいるのは――
「『偉大なる』マリット――」
マリットは小さく苦笑いを浮かべ、言葉を続ける。
「コングロの見果てぬ夢をディアーナの力が叶えた。『生命の樹』はセフィロトの娘の祈りに応えて実を付け、古き理は記憶とともに消えた。でもね」
マリットは再びミラに目を向ける。
「私はほとんど何もしていないの。何もできなかった。三英雄なんて言われているけど、私はただ彼らと一緒にいただけ。それだけなの」
マリットの目に寂しげな光が揺れる。ミラはじっとその瞳を見つめた。胸の前で右手を握る。心が、痛い。
「役に立ちたかったし、助けたかったし、幸せになってほしかった。でも私にはできなかった。互いを想っていたはずの二人は結ばれることなく別れた。ディアーナは『生命の実』を生み出した代償を負い、大戦の終結から五年の後に亡くなった」
ミラの瞳が収縮する。セフィロトの娘が『生命の樹』に祈りを捧げれば『生命の実』がなる。だがその代償が命を削ることなら、セシリアもまたディアーナと同じ運命をたどるということだろうか?
「コングロは己の果たせなかった理想を未来につなぐべくケテルの創建に尽くし、独り身を貫いて亡くなった。私は、私だけが、穏やかに生きて穏やかに死んでしまったわ。私は私が望んだことを何も果たせなかった」
淡々とした声に後悔と自責が滲む。大きく息を吸って、切り替えるようにマリットは少しだけ声を大きくした。
「あなたがここに来たのなら、今のままではあなたは私と同じ後悔を負うということ。未来を変えたいなら、あなたはここで変わらなければならない。あなたは何を望むの? あなたの果たすべき願いは、何?」
マリットはまっすぐにミラを見つめる。その視線は一切の甘えを許さぬ厳しさを宿していた。言い訳も、泣き言も通じない。なぜなら、言い訳の先、泣き言の向こうに望む未来があることはないから。
「私は――」
答えようとして言いよどむ。自分の心の中を一つずつ確認していくように、ミラはゆっくりと言葉を紡いだ。
「命は、大切だって、トラックは言う。みんな幸せがいいって言う。けれど、私は、知りもしない誰かのことなんて、どうでもいい。私の、言葉にならなかった声に気付いてくれた。私を、諦めずにいてくれた。私は、私の大切な皆を守りたい。理想も未来も、いらない。私は――」
己の願いを見極め、ミラは決然と言い放った。
「――トラックとセシリアを、幸せにする」
マリットは微笑み、ミラの決意を受け止めたようにうなずく。
「見定めたのなら走り出すだけ。あなたはあなたの願いを叶える強さを身に付けなければならない。そしてその『強さ』は、暴力のことじゃない」
力を溜めるように身を縮め、溜めた力を解放するようにマリットは大きく腕を振った。風が巻き起こり、周囲の木々を吹き散らす。日を遮っていた枝葉が千切れ飛び、陽光が森に差し込んだ。ミラは「あっ」と驚きの声を上げる。日に照らされ、ずっとミラに刺すような視線を送っていた者たちの姿がはっきりと見えた。
「……そう、か」
ミラは呆然とつぶやく。ミラをずっと見つめていたのは、怯え震えながら牙を剥く獣人の子供たちだった。
「怯えていたのは、私だった」
怯えていたから、敵だと思った。攻撃される前に打ち倒さねばならないと思った。最初から恐怖に負けていたのだ。役に立たねばならない、そう自分を追い詰めて。
「あなたの敵はあなたの外にはない。あなたの願いを叶える力は、ほら」
マリットはミラの胸の中心を指さした。ミラの胸――『核』がある部分から仄かに白い光が放たれる。
「それがあなたの、あなただけの力。セフィロトの娘の運命を共に背負う奇跡の力。他の誰にも為しえないことがあなたにはできる。その力を使いこなせれば、ね」
ミラは両手を自らの胸に重ねた。『始原の光』。セフィロトの娘が宿す祈りの力。願いを叶えるために戦う相手は、この力だ。この力を御することだけが、望む未来に辿り着く唯一の道なのだ。
「その力で私を、私の後悔を、踏み越えなさい」
マリットが厳かに告げる。口を真一文字に引き結び、ミラははっきりとうなずいた。
マリットはコングロ、ディアーナ亡き後も種族間の融和に尽力し、その死後に『偉大なる』の名を送られ、種族を問わず尊敬を集めました。




