試練 ~剣士カイの場合~
灯りの無い、誰もいない小さな舞台に、剣士カイは独り、立っていた。門を抜けた先は小劇場の舞台袖。普段は客に夢を見せるこの場所も、今は窓から差し込む光だけに照らされて仄暗く沈黙している。カイは舞台の中央に進み出て『なんでもない剣』を抜いた。飾り気のないその刃は何も語ってはくれない。
「俺は、何がしたいんだ?」
カイは剣に向かってぽつりとつぶやく。『悪魔』の力を身に宿して生まれ、死をまき散らす己に怯えながら生きてきた。生きるために、『悪魔』に抗うために、剣に縋ってきた。殺し殺される日常に身を置いて生きてきた。しかし今、『悪魔』の力を失って後、カイはその生き方そのものに疑問を感じていた。
「アイツに毒されたってことか?」
トラックという男に出会ってから、あの男の言葉に、行動に、影響されたのは間違いないだろう。敵味方を問わず一貫して殺すことを拒み、圧倒的な強さを持ちながらそれを振りかざすことを恥じる。命の価値を臆面もなく語り、嘲笑されても意に介さない。誰もが生きる価値があるのだと、そう断言するあの男に、カイは救われ、そして――そうありたいと、思うようになっていた。しかしトラックの一貫した命に対する態度は、いかなる場面でもそれを貫くことができる強さに裏打ちされたものだ。実力もなく態度だけを真似したところで紛い物になるだけ。そして『悪魔』の力を失った自分にそんな力はない。
「……これは、逃げかな?」
『なんでもない剣』が与えたのは歌の力。暴力ではなく感動によって相手を制する、それが『なんでもない剣』がカイの心からすくいあげた力の形なのだろう。そしてそれは、拭うことのできない血塗れの手を持つ自分が見た夢の姿だ。そうあることができればどれほどいいだろう。しかし現実は、武器を持って向かってくる相手に届く歌などない。
「ここは――」
不意に聞こえてきた声に驚き、カイは声の主を捜した。いつの間にか、薄暗い客席の中央に一人の男が座っている。男は足を組み、舞台にいるカイを見つめている。
「――始まりの場所だ。多くの者が夢と希望を胸にこの舞台に立つ。見る夢は様々でも、スタートラインは平等だ」
男の顔は意志を感じさせないほどの無表情で、カイは気圧されたように無言でその視線を見返している。男は淡々と言葉を続けた。
「走り始めれば残酷な現実が待っている。努力ではどうにもできないことが山ほどあることに気付く。一握りの才能が容易く頂点に輝く様子を、唇を噛んで見上げるだけの日々を繰り返す。その才能たちも、時機が合わなければ、運がなければ、あっさりと消えていく。自分と彼女の差は何なのかと眠れぬ夜が続く」
冷酷な声音はカイの耳に残酷に響く。
「アイドルを目指すとは、そういうことだ」
「アイ、ドル……?」
戸惑いをつぶやいたカイにうなずきを返し、男は立ち上がった。
「インディーズで活動する君の様子を見させてもらった。粗削りではあるがなかなかいいものを持っている。今のままでもそれなりに成果は出るだろう。だが全国区にはなれない」
はっきりと断言する男にカイは不快そうな表情を浮かべる。
「なぜ断言できる?」
「君が君自身を信じていないからだ」
カイがはっと息を飲む。核心を突かれて口を閉ざす。男のカイに向ける視線は冷たい。
「君の歌には拭い去れない自信の無さがこびりついている。それは少数の保護欲を喚起して一定のコアなファンを生むかもしれないが、皆が君を受け入れる要素にはならない。君がどんなに前向きな歌を歌っても、声に滲む不安がそれを打ち消してしまう。それでは君の歌は届かない。君のファンを自称する相手にさえ、君の本当の願いは届かないだろう」
カイは男から視線をそらせ、床に目を落とした。そんなことは言われずとも分かっている。自分の歌が剣の代わりに誰かを守るだなんて、そんなことが信じられるはずもない。自分が求めているのは戦場で敵を制する力だ。血風渦を巻く地の真ん中で急に歌いだすなど正気の沙汰ではないではないか。
「今、アイドル界は戦国時代の様相を呈している。昨日トップに君臨していた者が明日には話題にも上らなくなる過酷な戦場で、歌うことをためらう気持ちは理解できなくもない」
カイは顔を上げ、男をおずおずと見る。何かがズレているが何がズレているのか言語化できない戸惑いが浮かぶ。男は平然とカイを見つめ返した。
「君は君自身と向き合わねばならない。自分と向き合わぬ者はトップアイドルにはなれない。なぜ歌う? 何を届ける? 答えなさい」
男の瞳に鋭い光がかすめる。
「ミューゼス・カリオペイアよ!」
男の発した言葉に反応するかのように『なんでもない剣』が光を放ち、薄暗い舞台は真白に塗りつぶされる。光が晴れたとき、そこにいたのは――魔法の歌姫、ミューゼス・カリオペイアだった。カリオペイアは目を閉じ、大きく息を吸って、そして決然と目を開いた。
「私の望みは一つだけ。私の歌で世界を変えること」
「世界を、変える?」
続きを促すように男はオウム返しにカリオペイアの言葉を返した。カリオペイアはうなずき、挑むような視線を送る。
「世界は今、分断がはびこり、共存が嘲笑と共に語られようとしている。自分と異なる価値を認めず、差異をあたかも害悪のように言い募り、排除して当然という論理が賢しらに広がる。けれど、人であろうとエルフであろうと、ドワーフでも獣人でもゴブリンでも、歌は誰にだって届く。同じ歌を聞いて、同じように心を動かされるのよ。だから私は歌いたい。私たちは違うけれど、同じなのだと伝えるために」
「君の歌に、その力があると?」
カリオペイアの決意は、しかし男に問い返されて急速にしぼんだ。「君自身を信じていない」と喝破された内心が彼女の決意を阻んでいる。男は小さくため息を吐いた。
「君は大きな勘違いをしている」
男は客席からゆっくりとした足取りで舞台へと向かいながらカリオペイアに語り掛ける。カリオペイアは目で男を追った。
「歌で世界を変えることはできない」
カリオペイアは唇を噛んで俯く。世界の残酷さを、理不尽を、歌で克服するなど幻想に過ぎない。心のどこかで囁くその声を突き付けられたと感じているのだろう。しかし男は、今までの過度な無感情からわずかに熱を帯びた声音で言った。
「だが、歌で世界は変わる」
カリオペイアが顔を上げる。男の言葉の意味を捉えかねて眉を寄せる。男は舞台に上がり、カリオペイアをまっすぐに見つめた。
「変わることを強いてはならないし、強いることはできない。歌は自由でなければならない。だが、歌に込められた想いに触れた者は必ず、変わる。わずかでも、こちらの期待とは違っても、何かが必ず変わるのだ。個人の、そんなささいな変化が、やがて集まり、大きな流れを作り、世界は変わっていく」
男はパチンと指を鳴らした。どこからかスポットライトがカリオペイアを舞台上に浮かび上がらせる。カリオペイアはまぶしそうに目を細めた。
「歌の力を信じなさい。そして想いを込めて歌うんだ。君にできるのはそれだけだ。そして君の歌う歌が、愛が、希望が、皆の心の灯となったとき、君は偶像と呼ばれているだろう」
男はカリオペイアに近付き、右手を差し出した。カリオペイアはその手を見つめる。男はわずかに表情を緩めた。
「厳しく残酷なこの世界が君の舞台だ。憎しみを煽り、暴力を振りかざす者たちをさえ、君の歌で魅了するんだ。未来を切り拓くのは剣ではなく、想いなのだと証明して見せろ」
カリオペイアは緩慢な動きで男の手を取る。男は強い力でその手を握り返した。カリオペイアの目が驚いたように見開かれる。男は真剣な目つきでカリオペイアの目を覗き込む。
「君をトップアイドルにする。信じるか?」
男の言葉がゆっくりとカリオペイアに浸透し、彼女の瞳の色が変わった。握り返された手に負けぬよう力を込めて、カリオペイアははっきりと言った。
「よろしくお願いします、プロデューサ―」
返答に満足したように、男が笑った。
数々のアイドルを世に送り出した伝説のプロデューサーが無名の素人と手を組んだ――突然のそのニュースはアイドル界に激震を与えました。世はまさに、大アイドル時代。群雄割拠のアイドル界はますます混迷を深めていくのです。




