試練 ~ルーグの場合~
圧倒的な存在感を以て男はその世界の中心に君臨していた。そこは屋外、荒野と言っていいような何もない地平が広がっている場所で、空には雲の一つもない。ルーグはみじろぎさえ許されぬ様子で、その男を凝視している。ただそこに立っているだけだというのに、視界に入れば到底無視することなどできないほどのカリスマ性をその男は持っていた。
「ようこそ、紳士の社交場へ」
男は穏やかにルーグに微笑みかける。アビと呼ばれる膝丈の男性用コートを着た、一見すると典型的な貴族然としたいでたちだが、『貴族』という言葉で想像される優雅さは、服の上からでもはっきりとわかるその筋肉によって霧散していた。
「吾輩の名はコングロ。現世での役目を終え、今はここで隠居するだけの老人だ」
ただの隠居老人、には明らかに不要なほどのパワーがその肉体から滲み出る。ルーグは自らの右手首を左手で握った。握っていなければ震えを抑えることができない。
「小さな勇者よ。何を望んでここに来た?」
『筋肉ヒゲ紳士』コングロ。百年前の大戦を終結させた三英雄の一人にしてケテル創建の立役者。その筋肉によってこの世のあらゆる理不尽を粉砕した伝説上の人物は、侮りも疑いもない透明な黒い瞳でルーグを見つめる。ルーグは大きく息を吸い、己を叱咤するように表情を険しくしてコングロに答えた。
「強く、なりたい」
コングロはわずかに眉を顰める。
「なんのために?」
ルーグを見据えるコングロの瞳が鋭さを帯びた。気圧されたようにルーグが口を閉ざす。コングロは表情を変えぬまま、感情の無い声で言った。
「強さとは色の無いただの力だ。ゆえに、強さには目的がなければならぬ。何のために力を振るうのか、打ち負かすためか、凌駕するためか、奪うためか、出し抜くためか――」
「ちがうっ!」
牙を剥く仔犬のようにルーグは鼻にシワを寄せる。コングロはじっとルーグを見据えたまま、次の言葉を待つように口を閉ざした。ルーグは自らの感情を確かめながら、途切れ途切れに話し始める。
「おれは――おれはずっと、ひとを、だまして、踏みつけて……殺して、きた。生きるためだって、仕方ないって、他の連中もやってるって、言い訳しながら、生きてきた」
ルーグの目が過去を、かつての自分を映し出す。他者にも自分にも価値を見いだせない灰色の日々に奥歯を噛む。
「でも、そんなのは噓だったんだ。だまさずに生きることはきっとできた。踏みつけずに、殺さずに生きる方法はあったんだ。でもおれはそうしなかった。おれは卑怯で、臆病だった」
軽く目を閉じ、再び目を開いたとき、ルーグの瞳には硬質な決意が宿っていた。腰の短剣にそっと触れ、ルーグの言葉から澱みが消える。
「おれは『望まれている』んだって、言ってくれた人がいた。おれを望んでくれるひとたちに会って、おれは初めて自分が臆病だったんだと気付いた。いつ死んでもいいと思ってた。怖いものなんてないって。でもそれは、期待したり、誰かを信じたりすることが怖かっただけだ。ああ、そうか――」
自身の心を辿り、正解に近付く実感を得て、ルーグは意外そうに目を丸くした。
「――おれは、今、生きたいんだ」
呆れたように吹き出し、ルーグは苦笑いを浮かべる。
「おれは生きたいんだ。でも、ひとを踏みにじってきたおれに生きる資格がないことぐらい分かってる。だからおれは、守らなきゃいけないって思ったんだ。おれが踏みにじってきたひとたちよりもずっと多くのひとを守ろうって。あなたを踏みにじってごめんなさい。あなたを殺して、ごめんなさい。でもおれはたくさんのひとを守ったんだよって、そう言い訳がしたかったんだ。そしたらちょっとくらい、許されるかもしれないって」
やっぱおれってバカだな、とルーグは自嘲した。独白のような言葉を静かに聞いていたコングロは、わずかに視線を落とし、そして右の拳を固く握った。半身に構え、右腕を引き、ルーグを厳しい目で見据える。息をすることも許されぬ、意識を失いかねないほどの殺気が周囲に満ちた。ルーグの身体が金縛りにあったように硬直する。彼我の距離を瞬時にゼロにして、コングロの赤熱した拳がルーグに襲い掛かった!
――ガツッ
硬い壁を打ったような鈍い音と共に、淡い光が空気に散る。半ば本能的に発動した【無敵防御】がコングロの拳からルーグを守っていた。ルーグの瞳孔が収縮し、血の気を失った肌から冷たい汗が噴き出す。コングロは静かに語り掛ける。
「君の『守りたい』気持ちが偽りでないことはスキルが証明してくれる。スキルとは願いの結晶。偽りが奇跡を呼ぶことはないのだ。絶対にな」
コングロは姿勢を正し、わずかに表情を緩めて半分ほどの背丈のルーグを見下ろした。
「君の示した勇気に敬意を表する。吾輩の全力を以て君の願いを叶えよう」
「ゆう、き……? おれは」
戸惑ったようにつぶやいたルーグの言葉を遮り、コングロは確信に満ちた表情で大きくうなずく。
「犯した罪は消えぬ。償うことなどできぬのかもしれぬ。しかしそれは、償いを放棄する理由にはならぬ。贖罪の道を模索し続けること、それはまさに勇気の名に相応しい」
断言するコングロをぽかんと見上げ、ルーグは少しだけホッとしたような、複雑な表情を浮かべた。コングロはわずかに目を細める。
「君と吾輩は少し似ている。これは必然なのだ。君がここを訪れたことも、我々が【無敵防御】を得たこともな」
さて、と切り替えるようにつぶやき、コングロはぱちんと指を鳴らした。
「早速だが、強くなるには己を鍛えるしかない。すなわち、修行こそがただ一つの道」
指音に呼ばれたように、ルーグの周囲の何もない空間から仔猫が現れ、地面に着地した。仔猫は人慣れしているのか、怯える様子もなくルーグに近付き、顔をルーグの足にこすりつける。
「……猫?」
コングロの意図が読めず、ルーグの口から戸惑いが漏れる。しゃがんで仔猫をそっとなでるルーグの様子に満足したように微笑み、コングロは腕を組んだ。
「可愛いだろう?」
「そりゃ、可愛いけど」
にこやかな笑みのままコングロは言葉を続ける。
「今から吾輩は全力でその仔猫を攻撃するから、君は全力でその仔を守れ」
「はぁ!?」
思わず仔猫を胸に抱き上げ、ルーグは信じられないものを見るようにコングロを見る。コングロの上半身の筋肉が膨張し、そのパワーを押し込めていた服が役割を放棄してはじけ飛んだ。
「自慢ではないが、吾輩の拳の一撃は小さな山を吹き飛ばす威力がある。しっかり守れよ、少年!」
「ちょっと、待っ――!」
抗議の声を一蹴し、コングロがファイティングポーズを取る。破滅の気配が重苦しく周囲を覆っていく。手加減の気配は微塵もなく、ルーグは胸に抱く仔猫をかばってコングロに背を向けた。
『アクティブスキル(レア)【ギガントフィスト】
神話に曰く、大陸をその拳で割ったと言われる一人の巨人の力を宿した一撃』
――ズドンッ
重く響く拳の音と共に、【無敵防御】でさえ吸収しきれない衝撃にルーグの身体が吹き飛ぶ。拳が巻き起こした衝撃波で地面が深くえぐれた。ルーグの腕の中で仔猫がミーと鳴く。じゃっかんふらつく身体でルーグは仔猫に微笑んだ。
「うむ、よくぞ守った。では増やそう」
当然のようにそう言って、コングロは再びパチンと指を鳴らす。ルーグの足元に二匹の仔猫が現れ、よちよちとすり寄る。ルーグの顔から血の気が引いた。
「増えるのか!?」
「当然だ。君はひとりだけ守れればよいと思っているわけではあるまい?」
大きな体を、力を凝縮するように縮め、コングロは再びファイティングポーズを取る。
「罪なき命を、守れるか?」
挑発する声音にルーグは挑むような鋭い目を向けた。
『アクティブスキル(VR)【魔人の鉄槌】
人を捨て、人を超越した魔人が
愚者に報いを与えるために遣わした鉄槌の力を拳に宿して放つ一撃』
空を裂く拳が闇を解き放ち、空間を侵食しながら仔猫たちに迫る! ルーグは左手に仔猫を抱えたまま地面に右手を突き、叫ぶ。
「無敵の力よ! 我が後背を守る不可侵の壁となれ!」
ルーグの右手から地面に流れた淡い光が壁を形作り、破滅の闇を阻む。仔猫たちはきょとんとした様子で光を見つめた。光に触れた闇は千切れ、散らされ、溶けて消える。ぜいぜいと荒く息を吐くルーグにコングロは素直な賞賛を送った。
「【無敵防壁】とは驚いた。君の願いはすでに吾輩と同じところまで到達しているのか」
「ふざっけんな!」
激しい怒りを滲ませてルーグはコングロをにらむ。コングロは涼しい顔で少年の怒りを受け流した。
「危機が人を成長させる。背に負う命の重みが君を更なる高みへと導くのだ。ということで追加ね」
パチンという指音でまたも仔猫がルーグの頭の上から降ってくる。無垢な瞳がルーグを見つめている。コングロは右腕を大きく引き、大ぶりの右ストレートを虚空に放った!
『アクティブスキル(HR)【ソニックパンチ】
神速の拳は衝撃波を巻き起こし、行く手を阻む者を吹き散らせる』
放たれた衝撃波はしかし、再び発動した【無敵防壁】によって遮られる。コングロは想定済みとばかりに左右の拳を振って連続して衝撃波を放った。【無敵防壁】が揺らぎ、歪む。ルーグは歯を食いしばった。
「あっ!?」
ルーグとコングロが同時に驚きの声を上げる。一匹の仔猫が覚束ない足取りで歩き、今にも【無敵防壁】の外へと出ようとしていた。すでに右腕を振り抜いていたコングロにスキルの発動を止める術はなく、衝撃波は仔猫めがけて大気を裂く。ルーグが雄叫びを上げ、【無敵防壁】の範囲を広げようとするが、間に合わない――!
「むぅん!」
次の瞬間、コングロは空間を飛び越えたかと見紛うような速さで自ら起こした衝撃波を追い越し、仔猫を抱き上げてその背にかばった。衝撃波はコングロの背を打ち、分厚い広背筋に阻まれて散り失せる。大きく安堵の息を吐き、ルーグは訝しげな視線をコングロに向けた。
「……あんた、何やってんだ?」
コングロは振り返ることなく、バツの悪そうに答えた。
「……仔猫を傷付けることなどできぬ」
「だったらなんでこんなやり方にしたんだよ!」
ルーグのもっともな問いにコングロは言葉に詰まり、そっと仔猫を離すと、何事もなかったようにルーグに向き直った。
「じゃあ、仔犬にしよう」
パチンと指を鳴らすと、今度はルーグの頭上からまん丸ふわふわの仔犬が降ってくる。天使のような可愛さに一瞬目を奪われ、ハッと我に返ってルーグはコングロに抗議の声を上げた。
「仔犬だったらいいってもんじゃねぇだろ!」
「大丈夫。吾輩、猫派なので」
「猫はダメだけど犬ならいいとか、かえって外道っぽいだろそっちのほうが!」
うっ、とうめき声を上げ、じゃっかん怯んだような表情を浮かべたコングロは、すぐに開き直ったように胸を張る。
「えぇい、これは君のための修行なのだから、本来は君が責任を持って守ればよいのだ! とにかく続けるぞ!」
大声で強引に話を終わらせ、コングロはまた拳に力を込める。仔犬が好奇心に満ちた目でコングロを見つめた。全幅の信頼を寄せた瞳――コングロががっくりと膝をつく。
「……仔犬を傷付けることなどできぬ」
「何がしてぇんだあんたはっ!」
ごもっとも、と力なくつぶやき、コングロは地面を見つめる。しばし無言の時が流れ、コングロは何かを吹っ切ったように立ち上がった。
「まあでも、吾輩も君の願いを全力で叶えると言った手前、心を鬼にして続けねばならん。だから、もし仔猫や仔犬が傷付いたら、おおむね君のせいだってことで吾輩の中で折り合いを付けました。というわけで続けるぞ少年! 己の力で見事、か弱き命を守り切って見せよ!」
「むちゃくちゃだこのオッサン!」
ルーグの抗議を完全に無視して、コングロは自らの両の拳を胸の前で合わせた。ミシミシと音を立てて腕の筋肉が膨張していく。極限まで力を高め、コングロはその全てを地面に向かって叩きつけた。
『アクティブスキル(SR)【地裂拳】
その拳は大地を割り、全てを飲み込む』
悲鳴を上げるように鳴動する大地に刻まれた亀裂がルーグと仔猫たち仔犬たちを飲み込まんと襲い掛かる。ルーグは崩れる地面を支えるように両手を突いた。【無敵防壁】の光が広がり、崩落する大地の上に崩れぬ足場を形成した。中空に、奇跡のようにルーグたちが浮かんでいる。
「応用も見事! こういう物言いは好かんが、敢えて『天才』と呼ばせてもらおう!」
スキルによって穿たれた大地の亀裂が、スキルの発動の終わりと共にゆっくりと閉じる。もはや言葉もなく、肩で息をしてルーグはコングロをにらみつけた。
「守る、ということはな」
コングロがルーグの視線に応える。
「傲慢と強欲を背負うということだ。自分は誰かを守れるという傲慢。誰も犠牲にしないという強欲。それらがなければ、人は必ず現実に負ける。守れなかった理由などいくらでも見つかる。こんな事情があったから。もしこうであったなら。守れなくても仕方なかった。だが、君の目指すものはそうではないだろう?」
コングロは右の拳を天に掲げる。蒼天にわかに掻き曇り、抗えぬ終焉の気配に空が怯える。
「すでに吾輩の渾身の拳を幾度も防いでいる。もはや立っているだけでやっと、指の一本も動かす力は残っていまい。だが、君がどれほど疲労の極みにあろうと、君の守りたいものを脅かす輩はいくらでも湧いて出るぞ。そのとき君はどうする? 仕方なかったと諦めるか?」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ
空を覆う巨大な隕石が地面に影を落とす。どこに行こうと逃れられない圧倒的な絶望が姿を現す。ルーグの足元で仔猫たちがミーと鳴いた。ルーグは天を仰ぎ、強く拳を握る。
『アクティブスキル(SSR)【メテオインパクト】
かつて世界を氷に閉ざした巨大隕石がこの世界の終わりを告げる』
さあ、どうする? コングロの目がルーグにその覚悟を問う。諦めるか? 隕石に抗えぬとて誰も責めはしないぞ。守れぬとてお前は何も悪くないぞ。それでも敢えて足掻くのか? お前が本当に守りたいものはなんだ?
「……壁じゃ、ダメだ」
ルーグは隕石を見つめ、奇妙なほどに落ち着いた様子でつぶやいた。壁ではダメだ。たとえ無敵防壁を屋根のように展開しても、隕石の衝撃は、熱は、側面から襲い掛かるだろう。包まねばならないのだ。あらゆる方向から襲い来る理不尽から、守るのだから。ルーグは天に両手を掲げる。祈るように、願うように。
「無敵の力よ。おれに、命を諦めないための力を、与えて」
ルーグの身体から淡い光が立ち上る。光は徐々に輝きを増し、やがて直視できないほどの強さになった。どこからともなくファンファーレが鳴り響く。それは、スキルの更なる進化を告げる祝福の音。コングロが目を大きく見開いた。
――シャン
上空を覆う隕石にまで光が到達したとき、無数のガラスが一斉に砕けるような澄んだ音と共に、破滅の影は光の粒となって消えた。まるで幻だったとでも言いたげに空は青を取り戻す。コングロは唖然と空を見上げ、そして、これ以上楽しいことはないという表情で笑った。
「君の願いは、吾輩を超えたか!」
自分が成した偉業を知らず、ルーグはぼんやりとコングロを見る。足元で小さな命たちが嬉しそうに鳴いた。ルーグは仔猫たちに目を向け、微笑んで――その身体が力尽きたように崩れ落ちる。瞬時にコングロは距離を詰め、倒れようとしていたルーグを抱き止めた。
「【無敵防壁】を超える力、見せてもらった。君は間違いなく、皆を守る勇者であった」
意識を失ったルーグの顔は、少しだけ笑っている。足元にいた仔猫たち仔犬たちが幻のように姿を消した。コングロの身体から淡い翠の光がルーグに流れ込んでいく。
「だが、その力は今の君にはあまりに負担だ。しかるべき時が来るまで、吾輩が眠らせておこう。君が数多の命の全てを守ると願ったとき、力は再び目覚める」
ルーグをそっと横たえ、コングロは感慨深げにつぶやいた。
「百年前、吾輩たちが成しえなかった未来を、少年、君たちが創っていくのだな」
コングロはふだん、訪問者を迎えるとき以外は猫まみれ犬まみれの日々を送っています。




