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試練 ~ナカヨシ兄弟の場合~

 ナカヨシ兄弟が門をくぐった先には、どこかのどかな森の風景が広がっていた。二人の背後で門が空気に溶けるように姿を消し、もはや戻る術の無いことを伝える。木々の枝葉が穏やかな風に揺れ、遠く小川のせせらぎが聞こえた。しかしその柔らかな雰囲気に不釣り合いなほどに、ナカヨシ兄弟の顔は強張っていた。


「……兄者」

「ああ、これは――」


 ナカノロフの額にじっとりと汗が浮かぶ。ヨシネンもまた、瞬きさえ忘れて目の前の風景を凝視している。ナカノロフはようやくといった様子でかすれた声を絞り出した。


「……自然を、コスプレしているのか――?」


 その言葉が合図であったかのように、目の前の風景がぐにゃりとゆがみ、形を失っていく。木々も、風の流れも、水音さえも嘘のように消え、やがて二人の前に姿を現したのはひょろりと背の高い壮年の男だった。男は「ふむ」と小さく息を吐くと、値踏みするようにナカヨシ兄弟を見据える。


「どうやら多少の心得はあるようだな」


 男の声音には、いささか無礼なほどの素直な賞賛がある。それは男がナカヨシ兄弟にひとかけらの期待もしていなかったことを示していた。ヨシネンが唾を飲み、呆然と口を開く。


「このようなこと、できる人間は一人しかおらぬ」

「ああ、だとすれば、あなたは――」


 ナカノロフが震える声で男の正体を告げる。


「『ものまね師』ココ!」


 男はわずかに笑みを浮かべた。


「懐かしい名だ。再びその名で呼ばれる日が来ようとはな」


 ナカヨシ兄弟は弾かれたように、ココと呼ばれた男に駆け寄り膝をつく。


「よもや伝説のコスプレイヤ―に会うことができるとは!」

「ああ、何という幸運! どうか、我らにコスプレの道を示したまえ!」


 『ものまね師』ココ。かつてコスプレ界に君臨した絶対王者。そのコスプレは年齢、性別、生物の壁すら超え、「本物よりも本物」と称されたが、ある日を境に忽然とコスプレ界から姿を消したという。より高みを目指して山に籠ったとも、実家に戻って家業を継いだとも囁かれたが真相を知る者はなく、ただその偉業のみを未だ語り継がれる伝説上の人物である。もはや神話と同様に語られ、近年ではその実在を疑問視する声すらあったその『伝説』が目の前にいる。上気したナカヨシ兄弟の顔とは対照的に、ココは渋い表情を浮かべた。


「私はただ、己の道を突き進んでいたに過ぎぬ。誰かに道を示すなどという大層なことはできんよ」


 その言葉と共に、ココの身体がしぼむように縮まり、十歳ほどの少年を形作った。服装も貴族の子弟が着るものに変わっている。唖然とその様子を見つめるナカヨシ兄弟にココは苦笑した。


「コスプレとはいったい何なんだろう。僕はずっとそのことを考え続けてきた」


 声変わり前のボーイソプラノでココは独り言のようにつぶやく。ぐにゃりと身体が歪み、今度はその姿が黒猫に変わる。


「にゃー」


 金の瞳でナカヨシ兄弟に一声鳴き、再びココは人の形を取った。枯れ木のように細身の老人となったココは、やや酒やけしたかすれ声で言葉を続ける。


「猫になったら喋れんわな。こりゃぁうっかりじゃわい」


 カカカと笑い、またもココは形を変える。艶やかな長い黒髪をなびかせた妙齢の美女が濡れた瞳で問いかける。


「コスプレとはなに? 姿をまねること? 同じ服を着て髪型を合わせればそれはコスプレなのかしら?」


 目の前で次々に姿を変えるココに気圧されていたナカヨシ兄弟は、彼――というべきか、彼女と言うべきか――の問いに我を取り戻したように口を開いた。


「否! コスプレとはただ姿をまねることに非ず!」

「そうとも! コスプレとは、その精神性を再現すること! たとえ骨格が、肌の色が、性別が年齢が異なろうとも、見る者にその『魂』を示すことだ!」


 挑むように叫んだナカヨシ兄弟の眼差しを見つめ、ココはまたも姿を変える。峻厳な雰囲気を纏った老婆となり、ココは大きくうなずいた。


「そう、コスプレの本質はその精神性にある。姿をまねるのは、高みに至るための助走のようなものだ。我らは視覚に惑わされる生き物ゆえに」


 姿を似せることによって対象に近付く。同じポーズを、同じセリフを繰り返すことでその内面に触れるのだ。そうやって徐々にコスプレイヤーは『本物』となる。


「精神の世界で我々は自由だ。肉体の制約から解き放たれ、望む姿を得る。そこには『自分』などない。自分という限界を超えたとき、我らは真の意味で『レイヤー』となる。すなわち――」


 老婆の姿が時を巻き戻すように急速に若返っていく。透き通るような金の髪の少女となって、ココは蒼い瞳で神託のように告げた。


「――コスプレとは、魂の解放」


 私とは何か。私は何者なのか。なぜ生まれ、なぜ生きているのか。その問いの根源である「私」そのものを超克する者を『レイヤー』と呼ぶのだと、少女の冷厳な瞳はそう伝えている。ナカヨシ兄弟はごくりと唾を飲んだ。


「魂の、解放――」


 うわごとのようにそうつぶやいたナカノロフを見遣り、少女は小さくうなずく。


「真の解放を得たとき、我らは『なんにでもなれる』。英雄にも、偶像にも、路傍の石にも。この世界の万象は己の魂と合一し、『私』は世界に遍く広がる。それこそがコスプレの目指す究極、『世界』のコスプレなのだ」


 ふっ、と少女の姿が消え、同時に足元の地面が消える。代わりに生まれた海に投げ出され、ナカヨシ兄弟は為す術なく暗い海の底に沈んだ。空気を求めてもがく二人が海水をかき分けて上昇しようとした瞬間、まとわりついていたはずの昏い海水は姿を消す。澄んだ青が広がる大空を、二人は落下していた。


「兄者、このままでは――」

「ああ、だが、どうすれば!」


 地面の影さえ見えず、雲を突っ切って二人は無限に落下していく。焦りを浮かべた二人の鼻にふと、花の香が届いた。


――ぽすっ


 柔らかな花のじゅうたんの上に、抱き止められるようにナカヨシ兄弟は両の手足を大きく広げて倒れていた。何が起こったのか、まるで理解できないと言うように二人は目を見開く。薄紅色の花びらが舞う、どこか現実感の無い風景の中で、無機質なココの声が響いた。


『己を殺し、世界へと至る。それこそがコスプレの究極の形。あらゆるものはもはや隔てを持たず、一は全であり、全は一である』


 ナカヨシ兄弟はココの言葉を吟味するように目を閉じる。確かに、コスプレは『なりきる』ことによって成立する。それを突き詰めていけば、己の自我は霧散し、コスプレ対象だけがそこにある、という状態が真に正しいということになるのかもしれない。しかし――


「――否!」

「断じて否である!」


 カッと目を開き、ナカヨシ兄弟は決然と立ち上がった。姿なき伝説に向かい、二人は吠える。


「コスプレは己を殺すことに非ず! 解放された魂は世界に溶けゆくことなく、世界をより豊かに拡張するのだ!」

「コスプレは『なりきる』と同時に自己を表現するものでもあるはずだ! 対象を正しく解釈し、描かれぬ内面をも補完する! ゆえにコスプレはレイヤーの数だけ存在する! そうでなければ、全てが最終的にひとつに集約されるのだとすれば、同じコスプレを別々の人間が担う意味がないではないか!」


 ぐにゃり、と視界が歪み、花に包まれた世界が急速に色を失っていく。かつて凄惨な戦いの場に身を置き、擦り切れ果てた先でコスプレに救われた二人の男の、怒りを湛えた瞳が『世界』を焼き尽くすように虚空をにらむ。やがて世界は無機質な灰色の何もない部屋へと姿を変え、二人の視線の先には一人の若い娘が立っていた。


「私が、間違っていると?」


 空間を支配する圧倒的な重圧が二人を襲う。しかしナカヨシ兄弟はその重圧を真っ向から受け止めた。


「コスプレは世界との同化ではない!」

「コスプレとは、『レイヤー』による新たな世界の創造である!」


 一歩も退かぬナカヨシ兄弟の様子に、ココは小さく笑った。


「ならば、自らの手で証明しなさい。己を手放さぬまま己を超える。そんなことができるのなら、ね」


 挑発めいたココの瞳にうなずきを返し、ナカヨシ兄弟は荷物袋から裁縫セットを取り出した。


コ、コスプレって、すごい――!

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