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試練 ~ノブロの場合~

 試練の門をくぐったノブロは、意表を突かれたように立ち尽くしていた。門は役目を終えたとでも言うように姿を消し、もはや戻る術はない。試練を乗り越えなければここで朽ち果てるのみ、なのだが――


「ようきたの。ささ、つったっとらんで、こっちに来んさい」


 ノブロの前にはニコニコと柔和な笑顔を浮かべた小柄な老人がいて、嬉しそうに手招きをしている。戸惑いながらノブロは老人に近付いた。


「こんなとこで何してんだ、じいさん」


 何もない、ただ広いだけの部屋の中心に小さな丸椅子だけがあり、老人はその椅子に座っている。ノブロの背丈の半分ほどしかないであろうその老人は、ノブロに対してまるで警戒する素振りもない。


「何するも何も、ここはわっしの『領域』じゃからの。わっしはずっとここにおって、たまに来るお前さんみたいなもんと話をするのを楽しみにしとるだけじゃよ」


 老人が軽く手を振ると、唐突にノブロの前に丸椅子が現れる。目を丸くするノブロに機嫌を良くしたのか、老人はさらに机と茶菓子を出現させ、席に座るように促した。


「とりあえず座っとくれ。お客がずっと立っとったらこっちが落ち着かんでの」


 そういうものか、とノブロは素直に席に着いた。老人は塩大福と緑茶を差し出し、楽しげに話しかける。


「んで、お前さんはここに何をしに来たんじゃ?」


 塩大福に手を伸ばし、すっかり毒気を抜かれたようにノブロは少し背を丸めた。


「試練、ってやつを受けに来たんだけどよ。なんか、変なおっさんに言われてよ。ここに来れば未来に近付く、とか何とか?」


 塩大福を丸ごとひとくちでほおばるノブロの様子に驚きながら、老人は続きを促す。


「ほうほう、それで? お前さんは何を望んでここに来た?」


 緑茶の入った湯呑にふうふうと息を吐きかけながらノブロは答える。


「オレぁよ。チャンピオンにならなきゃなんねぇんだ。そう約束しちまったからな。でもこれがむつかしくてよ。何をすればチャンピオンになれるのか、未だによくわっかんねぇ。だからここにその方法があんのかと思ったんだけどよ」

「チャンピオン!」


 老人は驚きと共に目を見開き、そして楽しそうに笑った。


「うむ。よい響きじゃ。憧れるのう、チャンピオン」


 ノブロはじゃっかんムッとした表情を作り、緑茶を一気に飲み干すと不服そうに口を尖らせる。


「憧れじゃねぇよ。なるっつったんだからならなきゃなんねぇ。オレぁウソは嫌ぇなんだよ。なんか? オレがチャンピオンになると、みんなが喜ぶらしいんだよ。オレが住んでる町の奴ら、あんまりシアワセそうなヤツいねぇからよ。パッと明るくしてぇんだ」


 ノブロは空になった湯呑をじっと覗き込む。老人は「ふむ」とつぶやいて笑いを収め、今度は真剣な眼差しをノブロに向けた。


「本当に、チャンピオンになるつもりかの?」


 その声は鋭さを帯び、ノブロは思わずといった様子で背筋を伸ばした。柔和な雰囲気は消え、老人からビリビリと空気を震わせるような重圧が放たれる。ノブロは湯呑を机に置き、まっすぐに老人を見据えた。


「なる」


 老人のじっと値踏みする視線を堂々とノブロは受け止めて見せる。老人はしばらくノブロを見つめた後、「よっこらせ」と椅子を降りて、挑発めいた態度で手招きをした。


「ちょっくら打ち込んでみぃ。筋を見ちゃる」


 やや膝をかがめ、右手を軽く掲げて老人は「ほれほれ」とノブロを促す。ノブロは戸惑った様子で眉を顰める。


「打ち込めって、じいさん。やめとけって。ケガでもしたら困んだろ」


 老人はカカカと声を上げて笑った。


「わっしにケガをさせられるほどの拳ならええがの」


 あからさまな挑発に、ノブロはカチンときたように表情を強張らせて椅子から立ち上がった。老人はうなずき、再び右手を掲げる。ノブロは軽く拳を握り、老人に向かって左ジャブを放った。


――パチンッ


 老人の手を弾き、乾いた音が部屋に響く。老人は馬鹿にするように吹き出した。


「なぁんじゃそのへなちょこパンチ。それでチャンピオンになるとよう言えたモンじゃな」


 ノブロの頬がピクリと引きつる。本気で来いと老人の目が告げていた。ノブロはやや前屈みに身を縮め、先ほどの手打ちとは明らかに違う、腰の入った右ストレートを繰り出す。


――バチンッ!


 重い音を立てて老人の手が弾かれ、ノブロはどうだと言わんばかりに強く老人をにらみつけた。老人はからかうように笑う。


「まだまだ、こんなもんお遊びじゃわ」


 ノブロはムキになった顔で拳を繰り出す。空気を裂いて襲い掛かる連打を、しかし老人は余裕の態度でひょいひょいとかわし、あるいはいなした。平然とした老人の顔と対照的に、ノブロの息が荒ぶる。


「お前さんの拳は、軽いのよ」


 老人の侮りの目がノブロを捉える。ギリリと奥歯を噛み、ノブロは大きく踏み込んで右フックを放った! しかしそれは、あまりに不用意な攻撃だった。老人の瞳がギラリと殺気を放ち――その右の拳が雷光のごとくノブロを襲った!


「――っ!?」


 いったい何が起こったのか、理解する間もなくノブロの身体が傾ぎ、派手な音を立てて地面に倒れる。芸術といっていいほどに見事なカウンターは、ノブロの脳を揺らし、その平衡感覚を完全に奪っていた。動けぬノブロを冷徹に見下ろし、老人は言った。


「お前さんがチャンピオンになれんのは、本当のボクシングを知らんからよ。ボクシングはただの殴り合いじゃあない。相手をねじ伏せるために戦うわけじゃあない。拳を交わすことで強さの頂を目指す。己の拳を以て人の限界を超える。その果てなき道の先にチャンピオンがある」


 床に無様に転がったまま、ノブロは拳を強く握る。


「ボクシングはな、お前さんが思うよりずっと、『怖い』もんなんじゃよ」


 ノブロは立ち上がろうともがき、果たせずに無意味に手足を動かした。悔しさがその顔に滲む。老人は憐れみでノブロを見下ろした。


「器じゃないよ、お兄ちゃん。アフロ頭でチャンピオン気分になってるのがせいぜいじゃろ。悪いことは言わんからやめとけ。不幸にゃなりたくないじゃろ?」


 アフロをポーズだけと言われたノブロの顔色が変わる。床に拳を叩きつけ、動かぬ身体を意志でねじ伏せ、ノブロは立ち上がった。ふらつく身体を叱咤するように足を踏みしめ、ノブロは老人をにらみつける。


「……半端にアフロってるつもりはねぇよ」


 ノブロの瞳に強い光が宿った。それは、己の目指す道に対する確信だったろう。


「オレの生まれた町は、みんな死んだみてぇな目ぇしてよ。ずっとゴミ溜めみてぇな場所だったよ。けどよ、今、生まれ変わろうとしてんのよ。でも、生まれ変わるってよ、みんなどうしていいかわっかんねぇんだよ。変わりたいし、変わんなきゃいけねぇこともわかってる。でも何に変わりゃいいんだ? ずっとゴミ溜めにいたからよ。あんましわっかんねぇんだよ、みんな。どうやったらシアワセになれんのかなんてよ」


 ノブロはゆっくりと腕を持ち上げ、ファイティングポーズを取る。


「オレがチャンピオンになりゃよ。ちったぁよ、誰かに伝わるかもしんねぇ。アイツがチャンピオンになれたんだから、自分にもなんかできるだろってよ。そんで、その誰かがまた誰かを励まして、それが誰かの勇気になって、最後にゃみんながよ、シアワセになるかもしんねぇ。だから――」


 ノブロは拳に満身の力を込め、鋭い右ストレートを放った。ズバンッ、とミットを打つ重い音が響く。老人の手にはいつの間にかミットがあった。


「――オレは、チャンピオンになる」


 老人はにやりと笑った。


「なかなかの拳じゃ」


 老人の目から侮りが消える。


「地獄の道行きじゃ。才なき者が王者に挑むというのはな」


 ノブロは生意気に笑った。


「かっけーだろ、そういうの」


 虚を突かれたように目を見張り、そして老人は楽しそうな笑い声を上げた。ひとしきり笑った後、老人は真剣な表情でノブロを見つめた。


「わっしの名は、エドワード・ダマト・ダンペー。お前さんが決して折れぬと約束できるなら――」


 エドワードと名乗った老人はノブロに向かって右手を差し出した。


「――わっしがお前さんを、チャンピオンにしちゃる」


 バチン、とやや乱暴にその手を取って、ノブロは不敵な笑みを浮かべる。


「オレぁ頭が悪ぃからよ。諦めも悪ぃんだよ」


 ほっほっほ、と笑い声を上げ、伝説のトレーナー、エドワード・ダマト・ダンペーは老人らしからぬ強い力でノブロの手を握り返した。

このノブロとエドワードの出会いを、後の人々はこう評したと言います。

『それは虎が翼を得た瞬間だった』と。

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[一言] 虎に翼( ˘ω˘ )
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