門
なぜか『妖精の道』を開くことのできるコメルの案内で、トラックたちはハイエルフの都である『真緑の樹』へと向かう。コメルはバーラハ商会の代表としてハイエルフと米の取引をしているので、『妖精の道』を開く方法を特別に教えてもらったのだということだが、教えてもらったからと言ってそう簡単にできるものなのか。セシリアもミラもじゃっかん不可解そうな視線を向けているが、気付いていないのか気付かぬふりか、コメルは堂々と先頭を歩いている。『妖精の道』はところどころ空間が歪み、ねじれ、足を踏み外したら二度と戻って来られない異空間なので、実力の確かな者たち以外はトラックの荷台かドラムカンガーの腹の中に入って移動している。
不規則に光が降り注ぎ、半透明に透ける精霊が落ち着かなさそうに周囲を飛び回り、この世ならざる風景を形作る。さっきまで確かに道だった場所が足を踏み出した瞬間にぐにゃりとまがり、罠のように奈落への道を開く。足を踏み外しそうになる仲間を魔法で、あるいはスキルでフォローしながらトラックたちは進んだ。前に何度か『妖精の道』を通ったけど、こんなに通りにくい場所じゃなかった気がするぞ。何の嫌がらせだ。
「……空間が不安定になっている。動乱の気配を精霊たちも感じ取っているのかもしれません」
コメルが険しい顔でそうつぶやいた。ケテルがクリフォトに降り、戦は当面回避されたはずなのに、精霊たちは世の乱れを予感しているのだろうか? だとしたらそれは、他種族とクリフォトの間で近い未来に戦いが起こると、そういうことなのだろうか? 精霊たちのまとうざらつくような不穏が皆の不安を煽る。
「出口だ」
不安を払しょくするように剣士がつぶやく。ようやく、なのか、意外と早く、なのか、道の先に青々と茂る木々が揺れる風景が、異界の中にぽっかりと口を開けていた。我知らず吐いた誰かの安どのため息が聞こえる。しかしコメルはその表情を引き締めて出口を見つめた。ケテルがクリフォトに降ったことをエルフたちはすでに知っているだろう。その門をこじ開けることは決して容易いことではないのだ。
「行きましょう」
硬い声でセシリアが言った。トラックたちは順番に出口を潜る。ハイエルフの森に足を踏み入れたその瞬間、強い風が吹いた。
「止まれ! それ以上近付けば命は保証しない!」
『妖精の道』を出てしばらく進むとハイエルフの都である『真緑の樹』の門が見える。王都の威容を誇るように設えられた大きな正門は今は閉ざされ、櫓からエルフの弓兵がトラック達に向かって弓を引き絞っていた。そこには明確な拒絶の意志がある。それはハイエルフたちが事態を正確に把握しており、すでに明確な判断を下しているということを伝えている。つまり、エルフは国を閉ざして籠ることを選んだのだ。ケテルとも他種族とも関りを断って。
「バーラハ商会のコメルです! 我々に敵対の意志はない! どうか話をお聞きください!」
コメルが前に進み出て声を上げる。弓兵が一斉にコメルに狙いを定めた。一瞬でハリネズミにされかねない状況で、コメルは少なくとも表面上は動揺を示さず、相手を刺激しないようにだろう、落ち着いた声音で言った。
「すでに状況はお聞き及びのことと存じます。ゆえに面倒な前置きは申しません。どうか我らを保護していただきたい。無論、相応の対価はご用意いたします」
ヒュっ、と風を切る鋭い音がして、コメルの頬を矢がかすめる。守備隊長と思しきエルフが冷淡な瞳で傲然と言った。
「お引き取りいただこう。我らは人の争いに干渉しない。ケテルがクリフォトに降った今、ケテルに義理立てする必要もなくなった。互いに、自らの身は自らの手で守ろうではないか」
守備隊長の声には一切の感情がない。もはや決断は下された、ということなのだろう。彼の内心はどうあれ、彼に門を開く意志も権限もないのだ。ただ、トラック達を見渡した守備隊長がミラの姿を認め、その瞳がわずかに揺らいだ、気がする。ここで折れるわけにはいかない、という意思表示か、コメルは少し声を大きくした。
「クリフォトが『種族浄化』を掲げていることはご承知のはず。今、門を閉ざし一時の安寧を得たところで、やがてクリフォトは必ず攻め寄せてまいりましょう。そしてその時、他種族はすでに各個撃破された後でございましょう。いかにエルフが優れた種族であっても、十万の大軍に己の力のみで抗するはいささか厳しいのでは?」
「見くびるな。我らの力があればクリフォトの雑兵ごときものの数ではない」
取り付く島もない口調で守備隊長はコメルを見下ろしている。コメルは同意するように大きくうなずいた。
「無論、エルフの皆さまの御力を存分に発揮すれば、クリフォトごときに遅れは取りますまい。御力を存分に発揮できれば」
含みのあるコメルの言い方に守備隊長は顔をしかめる。
「何が言いたい」
「今、『真緑の樹』に米の備蓄はいかほど?」
とぼけた態度でコメルは問う。『真緑の樹』への米の納入を一手に引き受けるバーラハ商会の番頭であるコメルが米の備蓄量について把握していないはずがない。守備隊長はわずかに顔をひきつらせた。
「それが何だというのだ」
「クリフォトの最終目的は他種族の殲滅。皆さまが『真緑の樹』に籠れば戦は長引き、早晩備蓄された米は底を突くでしょう。そうなったとき、果たして兵の士気を十分に保つことはできるでしょうか?」
コメルの言葉はさざ波のように広がり、今までじっとコメルに狙いを定めていた弓兵たちがわずかに動揺を示した。米が、なくなる。その可能性に今、初めて気づいたのだろう。動揺の気配を察して守備隊長が一瞬言葉に詰まる。守備隊長が次の言葉を発する前に、コメルは畳みかけるように言った。
「我らを受け入れてくだされば、我らの持つ米をすべて、無償で皆さまにご提供いたします。その量は今年の納入量の三倍。およそ三年、皆さまが白米に困ることはない」
さ、三年、とつぶやき、兵士たちがごくりと唾を飲み込む。弓を持つ手は下がり、矢はコメルを狙いから外していた。守備隊長の顔に初めて迷いが生じる。……そこまでか。そこまでの影響力を持っているのか、白米。我々は白米の持つ力を、もう一度見つめなおさねばならないのかもしれない。
「わ、私ではその是非を判断することはできん。上の判断を仰ぐゆえ、しばし――」
「その必要はない!」
守備隊長の逡巡を打ち消すような一喝が響き渡る。兵士たちが一斉に背を伸ばした。櫓にいる守備隊長の横に一人の老エルフが姿を現す。それは、かつてミラと共にここを訪れたときに見た、忘れたくても忘れられない顔の男だ。ミラを追いかけてきた女王を制止し、ふたりを引き離した張本人――エルフの国の宰相を務めるその男は、厳めしい顔でコメルを見下ろした。
「我らが白米ごときで動揺するとでも思うてか。もはや決断は為されたのだ。ケテルは我らを捨てた。ならば我らが自らを守るために行動することに何の不都合があろうか。お引き取りいただこう。我らにあなた方を守る義務も責任もありはしない」
宰相の言葉を受けて再び兵士たちが弓を構える。緩みかけていた空気が再びピンと張り詰めていく。コメルは焦る様子もなく、しかし無言で宰相を見上げている。息苦しい沈黙が降る。
「……それを承知で、曲げてお願いします」
弾けて壊れそうな沈黙を破ったのは、まだ幼い、少し震える声――ミラの声だった。ミラはコメルの横に進み出て宰相を見上げる。兵士たちがわずかに動揺を見せる。宰相は凍り付いたように無表情だった。
「ここにいる皆は、世界の未来を担う者たち。抑圧に抗い、自由をこの地に打ち立てるための鍵。百年前にここを訪れた三人が描いた夢を継ぐ彼らを死なせてはならない」
ミラはぎゅっと手を握り、必死の表情で宰相を見つめた。宰相は小さく鼻を鳴らす。
「百年前の英雄たちとその者らは違う。コングロもマリットもディアーナも、語る夢にふさわしい実力を備えていた。その者たちに世界を変える力などあるものか。ケテルをむざむざ敵の手に渡すことを許したお前たちに」
「トラックは、私を受け入れてくれた!」
ミラが宰相の言葉を否定するように大きな声を上げる。兵士たちがハッとした表情を浮かべ、弓を持つ手を少し下げた。ミラは勇気をかき集めるように大きく息を吸う。
「コングロの語った自由は、あらゆる種族、あらゆる生物が隔てなく幸福を希求できることだと聞き及びます。『魂の樹』が歪み何者でもなくなった私を、そのままでいいと言ってくれたトラックこそ、かの英雄の継承者にふさわしい。百年前、コングロの友として長老たちを説得して回ったあなたなら理解できるはずです」
宰相の顔を懐かしさと、わずかな痛みがかすめる。宰相は首を横に振った。
「……当時の私は人間を理解していなかったのだ。すべての人間が彼のようだと誤解していた。彼が逝き、世界はどうなった? 何も変わらなかった。人は人、エルフはエルフなのだ。百年という時間はそれを我らに教えてくれただけだった」
「それは違います!」
思わず、といった様子でコメルが声を上げる。
「確かに劇的な変化はない。しかし、わずかでも人と他種族の関係は変化しています! 百年前、『真緑の樹』に人が招かれることを誰が想像していましたか? エルフの作る髪飾りを人が身に着け、人が作った米をエルフが口にする。そんな未来が来るなんて誰も思っていなかったはずです! 当たり前の日常が、少しずつ変わっていく。侵食ではなく融和であればこそ、それは起こったのです! 英雄たちが望んだのは『自由であることを強いられる』世界ではない! だからこそ彼らはケテルを作り、だからこそケテルは百年をかけて、『融和』の歩みを進めてきたのです!」
宰相は不快そうにコメルをにらんだ。
「それは表面的な変化にすぎぬ。本質は何も変わらない。種族という壁を、誰も越えることはできない」
そして宰相はミラに目を向け、無感情に言い放った。
「『魂の樹』が歪んだあなたの言葉が我らに届くことはない。あなた方を我らが受け入れることもない。それが掟だ。もう一度だけ言う。お引き取りいただこう。さもなくば、我らは魔法と弓をもってあなた方を迎えることになる」
殊更に冷たい言葉がミラを打つ。ミラは精一杯の声で叫んだ。
「ならば、私はここを去ります! だからどうか、彼らのことは受け入れてください! みんなを助けてください! どうか!」
ミラが小さな体を大きく折り曲げて頭を下げる。兵士たちが完全に弓を降ろし、うつむいて唇を噛んだ。守備隊長が小さく「……何も分かっていない」とつぶやく。宰相は冷淡にミラを見下ろしている。
――プァン
トラックが静かなクラクションを鳴らす。ミラがハッとトラックを振り返った。セシリアは微笑んでうなずく。
「あなたを置いて私たちだけ安全な場所にいることなどできるはずもない」
「でも――!」
何か言おうとするミラを遮り、剣士は冒険者たちに言った。
「俺たちはこんな子供に守ってもらわないといけないほど弱かったか?」
剣士の挑発的な言葉に冒険者たちは苦笑いを浮かべる。マスターが軽く肩をすくめた。
「そいつぁ、ちっとカッコ悪ぃな」
他の冒険者たちも口々に「仕方ねぇな」「今日も野宿か」と愚痴る。しかしミラを追放してエルフに迎え入れてもらおう、と口にする者は誰もいなかった。剣士は満足そうに振り返り、エルフたちに告げる。
「俺たちは丸ごとセット売りでね。誰かが欠けちゃ意味がないんだ。何がどうだから仲間だとか仲間じゃないとか、そういうややこしい決まりがないから分離不可能なんだよ。騒がせて悪かったな」
剣士のその言葉を合図に、冒険者たちはぞろぞろと元来た道を戻り始める。コメルはじっとエルフたちを見ていた。ミラがトラックたちの背に声を掛けようと口を開きかけ――
「待て!」
守備隊長がたまりかねたように叫ぶ。セシリアたちが足を止めて振り返り怪訝そうな表情を浮かべた。顔を紅潮させて守備隊長は怒りの眼差しを向ける。
「言いたい放題言ってくれおって! 私たちが、いったいどんな想いでいたか、知りもせぬ分際で!」
兵士たちは守備隊長を驚きの目で見つめた後、覚悟を決めたようにミラを見た。その目尻にはわずかに光るものがある。
「あなたは、まるで分かっておられぬ!」
兵士の一人が怒りを込めてミラに言った。
「あなたが都から姿を消した時、我らがどれほど悲しんだことか!」
別の兵士が鋭くミラをにらみつける。
「見張り台から、コメル殿と共にこちらに向かって歩くあなたの姿を見つけたとき、我らがどれほど驚いたことか!」
溢れる涙を拭おうともせず、さらに別の兵士が叫んだ。
「トラック殿と共にここを去るあなたを、我らがどんな気持ちで見送ったか!」
守備隊長はもはや我慢ならぬと吠えた。
「あなたが去る代わりに他の者を助けよだと!? ふざけるな! 他の者など我らにとって何の意味も価値もないわ! あなたを助けずして誰を助けよと言うのだ! 我らが助けたいのは、我らが大切なのは――」
ミラはぽかんと守備隊長を見上げる。兵士たちは声を揃えて、自らの思いを叫ぶ。
「――あなただ、ミラ様!!」
思いの塊がミラに向かって放たれ、セシリアたちは意外そうな表情を作った。ミラはどこか信じられないというような、そんな表情で兵士たちを見渡す。宰相が慌てたように声を上げた。
「何をバカなことを! 都の守備隊長ともあろう者が、掟を忘れたとでも言うつもりか!」
「黙れ!」
宰相を鋭くにらみつけ、守備隊長は落雷のような怒声で一喝した。
「ミラ様を救わぬ掟に何の意味があるというのだ!」
迫力に気圧されたか、宰相は口をパクパクとさせて言葉をつなげずにいる。他の兵士たちも一斉に宰相を見た。ようやく意味を理解したように、ミラの目から涙がこぼれる。
「き、貴様、自分が何を言って――」
「ご報告!!」
ようやく言葉を絞り出した宰相を遮り、伝令の兵が慌てた様子で宰相に駆け寄る。八つ当たり気味に「何だ!」と怒鳴る宰相にじゃっかん怯えながらも、伝令兵は忠実に自分の仕事を果たした。
「女王陛下が逃亡なさいました!」
「何だと!?」
宰相の顔から一気に血の気が引く。
「バカな! 三重に張った結界を突破したというのか!?」
どういうことだよ。なんで自分の国の女王を三重に張った結界に閉じ込めてんだよ。クーデターでも起こしたの? 宰相ってクーデター好きだよね、一般論として。
「早急に確保しろ! 陛下が今、ここに来れば――」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ
大地が震え、大気が怯えるように鳴動する。膨大な魔力の気配が急速に膨れ上がった。宰相が後ろを振り返って切羽詰まった声を上げる。
「まさか、すでに――!?」
「ミーーーーーーー!」
門の向こう、『真緑の樹』の内側から地獄の底から湧き上がるような声が響き渡る。
「ラーーーーーーー!」
その声は己を阻む者を決して許さぬという確かな意志を以て、
「ちゃーーーーーん!!」
まばゆい破滅の光を放った!
――ズガァァァァァァァン!!
光は都を閉ざしていた門を吹き飛ばし、細かな木屑へと変えた。大量の木屑が舞い上がり視界を覆う。駆ける足音が迫り、粉塵を切り裂いて門から飛び出してきたのは、ひとりのハイエルフの女性――女王陛下そのひとだった。女王は他には目もくれずミラに駆け寄り、正面から強く抱きしめる。ミラが目を丸くした。宰相が蒼い顔で叫ぶ。
「おやめください陛下! 掟が――」
女王は宰相を振り返り、キッとにらみつけて言った。
「掟が、なんぼのもんじゃい!」
男前だな女王陛下。一喝を受けて宰相が言葉を失う。兵士たちが自然と声を上げた。
「女王陛下、万歳!」
「王女殿下、万歳!」
女王は再びミラを抱きしめる。声もなくただ腕に込めた力で思いを伝える。ミラはそっと女王の背に手を回して目をつむった。
宰相は呆然と母娘の様子を見つめ、兵士たちは手を取り合って喜びを叫ぶ。閉ざされていた門は跡形もなく消え去り、コメルがかすかに笑った。
女王はこっそり城を抜け出してミラに会いに行った件が宰相にバレて以後、ずっと結界の中に閉じ込められていました。




