どこへ
誰もが言葉を失って立ち尽くしている。風にはためくアディシェスの旗は、ケテルがこの世から姿を消したのだという事実を皆に知らしめていた。あの町で生まれた者も、あの町に流れて来た者もいるが、もう帰ることができないという寂寥感、寄る辺なさはここにいる者たちが等しく共有しているだろう。
「……これから、どうすれば――」
誰かがぽつりとつぶやく声が聞こえる。とりあえず逃げ延びた。アディシェスは町の外まで冒険者を追ってくるつもりはないようだ。ケテル内部の統制に注力するつもりなのか、あるいは別の意図があるのかは分からないが、今日明日にも再び追われる身になることはないだろう。もっともそれがこの先もずっと続くとは限らないし、そもそもこのままここに居続けるわけにもいかない。衣食住の確保は最優先課題なのだが……今、それを考える余裕がある者はこの場にいそうにない。
「『真緑の樹』に向かいましょう」
聞き覚えのある、そしてここにいるはずのない声が聞こえ、皆が一斉に声の主を振り返った。そこにはいつの間にか、小太りで人の好さそうな商人の男――コメルが立っていた。トラックの荷台にもドラムカンガーFの中にも彼は間違いなく乗っていなかったのに、いったいどうやってここに? 周囲の者たちが驚きと、そして憎悪の目をコメルに向ける。
「どうしてお前がここにいる!」
マスターが声を荒らげてコメルに詰め寄る。冒険者ギルドを敵に売った評議会議長ルゼの腹心であるコメルに敵意を向けるのは、ギルドマスターとしては無理からぬことだろう。だがおそらく、マスターが他に先んじて声を上げたのは、立場のある人間が最初に動くことで冒険者たちの感情的な暴発を抑えるためなんだと思う。それほどに周囲の冒険者たちの憤りは深く、場の空気は悪くなっていた。喪失感、心細さ、そういったものをごまかすための怒りを、コメルの登場が正当化する。一触即発の雰囲気をかろうじて抑え込み、マスターは過度に威圧的に振舞っている。
「よくも平然と姿を見せられたもんだ」
抑えきれぬ怒りを乗せてマスターがコメルをなじる。対照的にコメルは平静な態度を崩さない。その態度は周囲の怒りに油を注いでいるが、コメルは意に介していないようだ。マスターはコメルの襟首を掴む。コメルはわずかに顔をしかめた。
「私たちが対立したところで何も解決しはしません。協力するほうが現実的ではありませんか?」
「裏切者と手を組めるはずねぇだろう!」
落雷のようなマスターの怒鳴り声がビリビリと空気を震わせる。コメルに動じた様子はない。
「我々は裏切ってなどいません。私がここに現れたことがその証明です」
議長の最も信頼する腹心が、わざわざ一人で、追われる立場になった冒険者たちの許に来た。そのことの意味を考えろと、コメルは言っている。腹心がこのタイミングで姿を消せばアディシェスに、あるいはクリフォトに疑心を抱かせるかもしれない。そのリスクを負っていながらルゼはあえてコメルをよこしたのだと、彼は言っているのだ。マスターは不信に満ちた目でコメルをにらみつける。コメルは淡々と言葉を続ける。
「我々はケテルの商人です。どんなものでも売り、どんなものでも買います。自らの目的を達成するためならばね」
「つまりは、金と保身のために俺たちを売ったんだろうが!」
怒鳴るマスターの声に、コメルの表情が初めて感情を見せる。襟首をつかむマスターの手を払い、コメルは頭一つ分高いマスターの顔をにらみ上げた。
「見くびらないでいただきたい!」
思いのほか強いコメルの口調に周囲が飲まれたように口を閉ざす。コメルは強い意志を宿した瞳でマスターを見据えた。
「旦那様の、評議会議長ルゼの目的は常に一つだけ。ケテル創建の三英雄の遺志を継ぎ、『自由』な世界を作り上げること。そのために今はアディシェスに降ることが必要だとお考えになり、旦那様はあなた方を売った。そして未来にあなた方が『自由』をもたらすと信じて、旦那様は私をここに遣わしたのです。あなた方を買うためにね」
「俺たちを、買う、だと?」
マスターの怒りと不振にわずかな戸惑いが混じる。都合の良い言い訳ではないかと疑いながら、いつの間にか周囲もコメルの言葉に耳を傾け始めていた。コメルは大きくうなずく。
「ケテルは以前よりクリフォトとの戦に備えて武具や食料を蓄えてきました。その大半はアディシェスに接収されましたが、幾らかは隠匿することができた。その全てをあなた方に差し上げます。少なくとも半年、皆さんは餓えずに暮らすことができるでしょう」
コメルの言葉に空気が少し変わる。食を保証される、ということは今の冒険者たちの置かれた状況においてかなりのインパクトを持っているらしい。感情的に許せない、でも現実的にはこの提案を飲む以外にない。冒険者たちの表情に葛藤が滲む。
――プァン
トラックが静かにクラクションを鳴らし、周囲がざわめく。マスターがトラックを振り向き、見極めるように見つめた。再びトラックがクラクションを鳴らす。それは冒険者たちに言い訳を与えるための言葉だったのだろう、「しかたねぇな」「特級厨師がそう言うなら」という声があちこちから上がった。マスターは奥歯を噛み、コメルに向き直ると、言葉にはしたくないのか、ただうなずきを返した。コメルはわずかに表情を緩め、
「ありがとうございます」
と皆に向かって頭を下げた。
「なぜ『真緑の樹』に? エルフたちが我々を受け入れるとは思えませんが」
セシリアがやや硬い表情でコメルに問う。セシリアの傍らには不安そうな表情のミラがいて、二人は手をつないでいた。ミラにとって『真緑の樹』は決して容易く赴くことのできる場所ではない。拒まれ、追われた故郷なのだ。コメルはセシリアに顔を向けた。
「理由は三つあります。一つは、『真緑の樹』が空間的に断絶した場所にあること。『妖精の道』を通らねば辿り着けないあの場所は逃げ込むには都合がいい。『妖精の道』を開くことができる者は多くありませんし、よしんば開くことのできる術者がいたとしても、『妖精の道』は大軍を送り込むには不向きです」
コメルが上げた理由はそのまま、エルフがクリフォトとの対決に積極的でない理由でもある。エルフは『真緑の樹』にこもっていれば自分たちは安泰だと思っているのだ。でも、だったらむしろエルフは冒険者たちを受け入れないんじゃないだろうか? わざわざ自ら危険を呼び込むようなマネはしないんじゃ……
「二つ目の理由は、エルフがクリフォトとの戦に最も後ろ向きだからです。この機会に多少強引にでもエルフを巻き込み、クリフォトと対決せざるを得ない状況に彼らを追い込みます。エルフの出方を窺う他種族は多い。エルフを味方につけることができれば、日和見を決め込む他種族の態度を一気に傾けることも不可能ではない」
「言葉は勇ましいが、そんなことが可能なのか? エルフが俺たちを受け入れる理由などないだろう。むしろ門を閉ざされ、追い返されるのがオチなんじゃないか?」
剣士が疑いの目でコメルを見る。同調するように他の冒険者たちがうなずいた。しかしコメルは自信ありげに首を横に振った。
「いいえ。私は今、エルフは他種族の中で最も説得しやすい相手だと考えています」
剣士が訝しげに眉を寄せる。コメルは皆に聞こえるよう、やや声を大きくして言った。
「ケテルがアディシェスに降ったことがエルフにとってどんな意味を持つか、お判りですか?」
突然の問いかけに戸惑いが広がる。どんな意味を持つか、って言われても、えーっと、地理的にクリフォトとの緩衝地帯になっていたケテルがなくなって、エルフの集落が敵と隣接することになった、とか? エルフは『真緑の樹』だけに住むわけじゃないから、集落を捨てて『真緑の樹』にこもるか、クリフォトと戦うかの選択を迫られることになる? 誰かがぽつぽつとコメルに答える。その中には俺と同じようなことを言った者もいたが、それらの回答にコメルは全て首を横に振った。
「それらは誤りではありませんが、核心ではありません。エルフにとって、ケテルがアディシェスに降った最も大きな意味は――」
コメルは絶対的な確信を持って断言する。
「――白米を入手する手段が断たれた、ということです」
……は? はくまい? 白米って、お米だよね? そういえば、エルフって白米大好き種族だったっけ。いやいやいや、だからって、白米のためにクリフォトと一戦交えようなんて話になる? 白米はエルフにとって主食というよりは嗜好品の類じゃない? トラックがプァンとクラクションを鳴らす。コメルの自信はいささかも揺らがない。
「もはやエルフにとって、白米のない生活など考えられないでしょう。なにせ今『真緑の樹』の貴族たちの中では、白米に白米を乗せて食べる『白米丼』が大流行していますから」
は、はくまいどん!? なにその斬新な響き! コシヒカリ・オン・ザ・アキタコマチ的な? よもやそこまでエルフの食文化に白米が浸透しているとは。だとしたら、もしかしたら本当に、白米の力でエルフを説得できるのか? そんな冗談みたいな話ある?
「我々が隠匿した物資の中にはウォーヌマ産の一等米も大量にあります。それの無償譲渡を条件にあなた方の受け入れを求めれば、エルフは門を開く」
コメルの自信に満ち満ちた断言はさざ波のように広がり、冒険者たちはごくりと唾を飲んだ。もしかしたら、本当にこの男の言うとおりになるのかもしれない。疑心が徐々に解けていく。コメルの堂々とした態度が皆の気持ちを変えようとしている。
「……無理だよ」
周囲がコメルを信じ始めたとき、それに冷水を浴びせるような否定の言葉が発せられる。ミラはセシリアの手をぎゅっと握り、少しかすれた声で言った。
「エルフはそこまで愚かじゃない。命と白米を天秤に掛けたりはしない。エルフが白米を食べ始めてからまだ百年も経っていない。忘れようと思えば忘れられる。エルフは『妖精の道』さえ閉ざし、傍観者としての道を選ぶ」
予言めいたその言葉は、わずかに生まれた希望のようなものを急速にしぼませた。エルフが排他的な種族であることは誰もが知っている。そして、自身がエルフであるミラの言葉には確かな説得力があった。そりゃそうだよな、という諦念が広がる中、コメルはミラをまっすぐに見据えた。
「ええ。だからあなたが必要なんです、ミラさん」
ミラは不可解そうにコメルを見つめ返した。コメルは視線をそらさない。
「白米は、いわば建前です。彼らが門を開くためのね。白米を手に入れるために門を開いたのだという言い訳をエルフに与えてあげるのです。彼らが門を開く本当の理由は、あなたです、ミラさん」
ミラの目に悲しみと諦めが同居する。エルフは『魂の樹』の歪んだ者を同胞とはみなさない。ミラは小さく首を横に振った。
「私がいれば彼らは態度を硬化させる。むしろ私がいないほうが――」
「いいえ」
自らを否定するミラの言葉をコメルは遮る。
「あなたこそが鍵なんです、ミラさん。どうか勇気を出して、彼らと向き合ってください。そうすればきっと、あなたはあなたの知らない真実を手に入れるでしょう。そしてそれこそが、ここにいる全員を救う唯一の道なのです」
ミラは戸惑いながら、しかしコメルの言葉を否定できずに口を閉ざす。エルフと向き合うことはミラにとってとても勇気のいることだろう。否定され、再び追われるだけで終わるかもしれない。しかしそれでも、そうすることで皆を助けられるなら――ミラがセシリアの手を握る力を強くする。セシリアはそれに応えるように強く握り返した。謝意を示すようにコメルは胸に手を当てる。
「全て信じよとも、全てを委ねよとも申しません。ただ一度だけ、私にお任せください」
そしてコメルは、あらゆる困難をねじ伏せるような不敵な笑みで皆を見渡した。
「ミラさんと白米、その二つの力で、『真緑の樹』の門をこじ開けてみせましょう」
『真緑の樹』では今、白米丼と白米ライスバーガーが人気を二分しています。




