幕間~囚われ~
薄暗い部屋でひとり、イーリィは何をするでもなく椅子に座っていた。評議会議長ルゼ・バーラハの持つ幾つかの別邸の一つ、その中でもプライベートな用途で使用する小さな家で今、イーリィは事実上の軟禁状態にある。部屋の前には護衛という名の監視がおり、自由な行動は制限されていた。もっとも、今の彼女に何か行動を起こす気力はない。
(みんなに、申し訳ない)
うつむいて唇を噛む。ケテルは他種族融和を掲げ独立都市としての誇りを貫く、そう思っていたし、実際にその方向に進んでいたはずだ。食料や武具を備蓄し、クリフォトと一戦を交える覚悟を決めていたはずだったのだ。それがなぜ急にルゼが心変わりしたのか、イーリィにはまったく思い当たることがなかった。
(父様――)
立ち上がり、窓から外を見る。こぢんまりとした庭に小さな花が咲いていた。この家はまだルゼが駆け出しの商人だったころに家族で住んでいた場所だ。そのときには母が庭の手入れをしていた。父と母と手をつないで笑っていた、幼い自分がいた場所。イーリィにとっても、ルゼにとっても、ここは特別な場所だった。当時は借家だったこの家をルゼは商会を率いるようになってから買い取り、人を雇って維持している。
『すまない、イーリィ』
「なぜ」と問い詰めたとき、ルゼはただ謝るばかりだった。ケテル商人として三英雄の意志を継ぐ意識を強く持っていたはずの父のあれほど弱々しい姿を、イーリィは見たことがなかった。母が亡くなった、失意の底にいたであろうときよりもさらに身を縮めてうなだれる父の姿が痛々しい。
(……何を考えているの、父様)
クリフォトの脅威が目前に迫ってなお協調できない他種族に絶望した? だからと言ってそう容易くクリフォトに降る決断をするだろうか? アディシェス伯は信の置ける人物だとしても、ケテルの思想や信条はクリフォトとは決して相容れぬものだ。それらを捨ててまで守らねばならないものがルゼにあったのだろうか? 後悔にまみれただ謝り続けるしかないと知りながらなお、優先すべきものがあったのだろうか?
――コンコン
小さく窓を叩く音が聞こえ、意識が現実に引き戻される。窓の外を覗き込むが、そこにはただ小さな庭の風景が広がっているだけだった。気のせい? とわずかに眉を寄せるイーリィに、今度はかすかな呼び声が届いた。
「……イーリィ」
「イヌカ!?」
思わず声を上げそうになり慌てて口を押さえる。目を凝らすと、窓の外の風景の中にわずかなゆがみのような揺らぎのようなものが見えた。イーリィはなるべく音を立てないように窓を開く。揺らぎは滑るように移動し、部屋の中に入ってくる。そして空気から染み出すように、見知った姿が目の前に現れた。ピンクのモヒカンにトゲのついたジャケットを着たその男は、イーリィの様子を見て安堵の表情を浮かべると、すぐに無関心を装う真顔に戻った。
「どうして、ここに?」
「どうしてじゃねぇよ。捜してたに決まってんだろうが。急にいなくなりやがって」
イヌカはイーリィを半眼に睨む。イーリィは思わず吹き出し、口を手で隠した。間の抜けたやり取り。なぜか、少しだけホッとする。
「いったいどうなってやがる。議長がアディシェスに接触してるなんて、調査部でもまったく把握しちゃいなかったぜ」
忌々しげなイヌカの言葉にイーリィは顔を強張らせた。
「……ごめんなさい。私にもわからないの」
わずかに後悔を示し、イヌカの口調が柔らかくなる。
「別にお前を責めちゃいねぇよ。それより、行くぞ。こんなところに閉じ込められていたくねぇだろ」
イヌカがこちらに手を伸ばす。イーリィは弾かれたように一歩下がり、手を胸の前で握った。訝しげにイヌカがこちらを見る。イーリィは首を横に振った。
「……私は、行けない」
イヌカはわずかに目を見開いた。イーリィが握る手に力を込める。
「ケテルがアディシェスに降伏した、その責任の一端は私にもある」
イヌカはくだらないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「お前に責任なんざねぇよ。何様だ、お前は」
「私は議長の娘よ、イヌカ」
イーリィに切り返され、イヌカが一瞬言葉に詰まる。次の言葉を遮るようにイーリィは言った。
「父はケテルを、そして冒険者ギルドを売った。私はもう、あなたたちの仲間ではいられない」
「んなこた――」
――コンコン
言い返そうとしたイヌカを制するように扉がノックされる。
「お嬢様、いかがいたしましたか?」
話し声に気付かれたのだろうか、扉の外にいた護衛が声を掛けてくる。問答無用に扉を開けて入ってこないのはおそらくウルスから配慮を欠かさぬよう厳命されているからだろう。イヌカは顔をゆがませて扉をにらむ。イーリィは「何でもないわ」と扉の向こうに返事すると、声を潜めて鋭くイヌカに言い放った。
「行って。私はもう、あなたたちと同じ道を歩むことはない。冒険者をやめることはできても父の娘であることをやめることはできないし、やめるつもりもない。私は父と、ケテルと運命を共にするわ。たとえどんな未来が待っているとしても」
イーリィの決意を見て取り、イヌカは奥歯を噛む。分かった、と小さく呻き、イヌカは怒ったような眼差しでイーリィの目を見つめた。
「だが、よく覚えとけ。ひとりで背負って、ひとりで不幸になろうなんて許されりゃしねぇってことをな。お前が愛したあの男は、必ず全てを救う方法を見つけるだろうぜ」
ハッとしたようにイーリィは目を見開く。イヌカの身体の輪郭が揺らぎ、徐々に空気に溶け始める。
「ケテルも、お前も、必ず助かる。その方法を俺たちが見つける。そしたら『あのときお前はバカみたいなこと言ってたな』って指さして笑ってやるからな。待ってろ、必ず俺たちは戻ってくる」
その言葉を残し、イヌカは再び大気の揺らぎと同化して窓から出ていった。どこか気が抜けたようにぼんやりとイーリィは窓の外を見る。
きれいに整えられた小さな庭。腕のいい庭師が丁寧に世話をした美しい庭だ。でもそこにはもう、母の面影はない。思い出の中のこの庭にある温かさは失われてしまった。手放せば二度と戻らないものがこの世にはある。
ああ、私は今、あのひとと歩く道を捨てたのだ――
不意にそう理解し、イーリィの目から涙が一粒、頬を伝い落ちた。
大切なものに囚われ、大切なものを捨てる。




