幕間~変わる~
気配を殺し、こそこそと周囲を窺う。町は今、未曽有の事態に息を潜めている。突如現れたアディシェスの兵士たちは抜き身の剣を手に人々を威迫し、外出を禁じて、あたかもここが己の町であるかのように振舞っている。自由を尊び独立の気風が強い一部の商人たちは反発しているが、不思議なことにケテル評議会も商人ギルドも、そして衛士隊も何ら公式な態度を示さず、人々は自らの行動を判断しかねているようだった。
(冗談じゃねぇぜ)
兵士の足音に慌てて身を隠し、ロジンは口の中で吐き捨てる。アディシェス兵は冒険者ギルドをケテル制圧の最大の脅威とみなしており、冒険者やその関係者を捕縛するべく動いているらしい。ロジン自身は冒険者ではないが、冒険者ギルドに併設された酒場で下働きをしている。関係者まで敵が網を掛けようとしているなら、自分も対象になっておかしくはない。
(俺は毎日ジャガイモの皮を剥いてただけだってのに、とんだとばっちりだ!)
考えてみれば、生まれてこのかたロクな人生じゃなかった。南東街区に生まれ、マフィアに怯えながら生きてきた子供時代。自分が奪う側になってやるとマフィアの構成員になったが、使いっ走り以上の存在にはなれず、やがて所属するマフィアも敵対するガトリン一家によって壊滅させられ、再び寄る辺ない生活に逆戻りだ。食い詰めてどうしようもなくなったところをヘルワーズに拾われたが、そこでも使い捨てのコマのように扱われ、結局は衛士隊に捕まった。何とか処刑は免れたものの、冒険者ギルドに監視されつつ酒場の下働きとして毎日こき使われ、心も体も休まることがない。
(俺は何も悪くねぇのに、何一つ思うようにいかねぇ! おまけに今度はアディシェスだって!? くそっ! そんなに俺をいじめて楽しいかよ!)
アディシェス兵は冒険者ギルドの建物を包囲しようとしたが、ギルドマスターを中心としたギルドのメンバーは素早く異変を察知して態勢を整え、今は中央広場にバリケードを築いて敵を押し止めている。だが、いかに個々が強力な力を持つ冒険者とはいえ、はるかに物量に勝る敵軍に抵抗し続けるのは無理だろう。つまり、潮時、ということだ。
(やつらと心中なんてごめんだ。俺はここで抜けさせてもらうぜ。そもそも俺は関係ねぇんだ。無理やり働かされてただけなのにとばっちり喰うなんて割に合わねぇ話じゃねぇか。そうだろ?)
誰にともなくそう言い訳し、耳を澄ます。通りを過ぎる兵士たちの足音が徐々に遠ざかっていった。アディシェス兵の出現で生じた混乱に乗じてギルドを抜け出したロジンはすでに中央広場を抜け、北東街区の路地裏に身を潜めている。このまま何とかやり過ごし、夜を待ってケテルを出れば、晴れて自由の身だ。自由になればこんなクソみたいな人生も多少はマシになるはずだ。少なくとも、アディシェス兵に捕まるよりは遥かに。
「……めて……」
か細い声が耳に届き、ロジンは声が流れてきた方に目を向けた。それは通りとは逆の、より路地の奥から聞こえてくる。ロジンは背を丸め、猫のように音を立てず移動した。隠れ生きることが日常だった人生で培った身のこなしが今こうして役に立っているのはひどい皮肉だろう。
「外出は禁止だと言っているだろう。反逆罪で処刑されたいのか?」
気付かれないギリギリの距離から様子を窺う。どうやら若い娘が三人の兵士に囲まれ、問い詰められている、というより難癖をつけられているらしい。娘は蒼い顔をして震えており、兵士たちは下卑た薄笑いを浮かべている。つまりは、よくあることだ。こういう非日常の場面では、しばしば人間はその本性をさらけ出す。ゲスがゲスな欲求に正直に行動すれば当然そうなるという、典型的な例だ。
(運が悪かったな)
多少の同情を持って心の中でつぶやき、ロジンはその場に背を向ける。かわいそうと言えばそうだが、こちらにだって事情がある。わざわざ危険に身を投じて見ず知らずの娘を助ける義務が自分にあるだろうか? 失敗すれば殺される。あの娘に人生があり、未来があるように、自分にだって人生も未来もあるのだ。他人のために全てを捨てて奉仕する義務など誰にもない。自分が自分のために生きて何が悪い?
「……たすけて――」
涙に掠れた声が背を打ち、ロジンは足を止めた。いやいや、何止まってんだ。戻って助けるって? どこのヒーロー気取りだバカバカしい。そもそも関係ねぇだろう。他人がどうなろうと知ったこっちゃねぇ。誰だって自分が一番大事だろ? こんな場面に遭遇したら毎回助けんのか? 助けりゃしねぇだろ? 助けるバカなんてどこにも――
(――あの、バカだったら)
冒険者ギルドの酒場で働き始めたとき、冒険者たちは他者に対して、あるいは命に対して、ある種の冷淡さを持っていた。それは金で命を奪い、あるいは奪われることを生業とする者特有の諦念に近い感覚だったのだろう。弱ければ死ぬという『当たり前』の感覚が弱者に対する配慮や同情を拒む。しかしその態度は、あるひとりの男の存在によって少しずつ変わっていった。
特級厨師トラック。無類の強さを誇りながら、あの男はそれを『守る』ために使う。命を、心を、守るために力を振るっている。当初はただの甘ちゃんだと、そんなことをしていたらすぐに死ぬと、冷笑と共に見られていたあの男は、魔王を退けギルドの最高位を極めても変わらなかった。
もしかしたら、弱いものを守ることには価値があるのかもしれない。
強いとは、誰かを守ることなのかもしれない。
命は大切なのかもしれない。
あの男は何も語らないが、彼の態度が冒険者たちの心を揺らす。そして今、ケテルの冒険者たちは他に類を見ないほどに甘っちょろく、そして――強くなった。
踏み出そうとして、足が動かない。兵士たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。その笑い声が、どうしてだろう、たまらなく腹立たしかった。誰かを怯えさせ、苦しませて笑っている。その声がたまらなく不快だった。
振り返り、一歩踏み出す。身体は滑らかに動いた。敵は三人、しかも兵士だ。戦っても勝てない。だから、戦わない。ふっと強く短い息を吐き、ロジンは路地の奥へと駆け出した。
「うおぉぉぉーーーーっ!!」
己を鼓舞し、敵の意気を挫く吠え声を上げる。驚いたように兵士がロジンを振り返った。兵士が腰の剣に手を掛けるのが見える。剣を抜かれたら終わりだ。間違いなく負ける。だから、必要なのは、速さだ。
『アクティブスキル(ノーマル)【加速】
瞬間的に移動速度を上げる。
増加量は熟練度によって異なる』
現れたスキルウィンドウを振り切ってロジンは敵兵に体当たりを食らわせた。予想していなかったのだろう、手前にいた兵士は体当たりをほとんど無防備にくらい、後ろにいた二人を巻き込んで吹き飛んだ。ロジンはすぐに立ち上がり、娘の手を取って、
「逃げるぞ!」
叫んで走り始める。娘は戸惑いながら必死にロジンの後を追った。
「いいかよく聞け!」
走りながらロジンは、半ばヤケになった様子で言った。
「俺は兵士と戦って勝てるほど強くないし、もういい歳だし、もう体力ないし、もう怖いし、あんたを危険から守る自信はまったくない! だから、過剰な期待はしないで、自分の身は自分で守ってください!」
すでに疲労しきったように荒く息をしながら走るロジンを娘は目を丸くして見つめる。背後から怒り狂った兵士たちが追いかけてくる音が聞こえる。ロジンは涙目で、
「ちっきしょーっ! 俺だって、俺だってなぁ!」
もはや誰に向かって言っているかも分からない様子で、ただ叫んだ。
「俺だって、冒険者(ギルドに併設された酒場の下働き)だバカヤロー!」
ロジンに手を引かれながら、娘は思わず笑った。
それが、私と夫の最初の出会いでした。




