夏の終わりの
蒸し暑い空気が残る夏の終わり、強く照り付ける日差しにようやく翳りが見え始める季節に、ケテルはどこか浮ついた雰囲気の中にいた。それは不安を打ち消すような、不自然でわざとらしい高揚のように見える。人々は未来から目を背けて日常に耽溺している。
――ケテル納涼盆踊り大会。
二年に一度開催されるお祭りに、人々は熱狂していた。
猫人たちの救出後、ルゼたちケテルの評議会は他種族への働きかけを続けているが、芳しい返事はなく、皆が判を押したように「検討中」と答えるばかりのようだ。ケテルに協力を約束したのはゴブリンと猫人のみで、クリフォトに対抗するには全く足らない。ルゼの当初の目論見通り、クリフォトとの初戦――アディシェス、エーイーリー、カイツールのいずれか――に勝つことができれば事態は好転する、と信じたいが、今の他種族の腰の重さを考えると、あまり楽観することもできない。
新たな翼を得たドラムカンガー7号はエバラ家に戻り、みんなの祝福を受けた。エバラに両手を握って感謝されたジンは照れたようにはにかんでいた。ジンはドラムカンガー7号の背のジェットを治すことができなかったから、これで胸のつかえが少しは降りたことだろう。飽きもせずに文句ばかり言っている人形師をよそに、ジンの横顔には自信と成長が刻まれていた。
ナカヨシ兄弟は猫人救出戦以来、リーンと共に暮らしている。ヨシネンの娘、ということだったが、実際には孤児だったリーンをヨシネンが引き取って育てていた、ということだったようだ。五年という時間の空白は互いの溝を深めていて、とても自然な親子関係とはいかないようだが、決して断絶を望んでいるわけではいないようで、ぎこちないながらも互いに改善を模索している様子だった。リーンはナカヨシ兄弟の運命を変えた『コスプレ』というものを理解しようとしばしばイベントに参加しており、一部ですでに『女神降臨』と騒がれている。
ミラは戦いによって『始原の光』の制御に一定の手応えを感じつつも、ドラムカンガー7号の手助けがなければ勝てなかったという事実に苦い思いを感じているようだ。トラックたちの役に立ちたい、という気持ちは、思うように役に立つことができていないという焦燥となっているようで、しばしばリスギツネを相手に密かに魔法の修行をしている。リスギツネ師匠の指導は厳しく、時に修行は深夜にも及ぶようで、くたくたになっては死んだように眠る日が続いている。
伝説の英雄と同じく『無敵防壁』を手に入れたルーグは、その力をいまいち実感できていないようで、猫人救出戦で役に立つことができなかったと落ち込んでいる。実際には教会の中にいる猫人たちを守り、『屠龍』の総隊長グレンの攻撃を防ぎ切ったのだから、はっきり言って充分すぎるほど活躍しているんだけど、本人は納得いっていないらしい。結局途中で気を失い、トラックに助けてもらったという思いが強く、全然成長していないじゃないか、と思っているようだ。「もっと強くならなきゃ」のつぶやきと共に、ルーグはマスターからもらった短剣を握りしめていた。
『なんでもない剣』の覚醒によって魔法の歌姫、ミューゼス・カリオペイアに変身する力を得た剣士は、自らの方向性に対する迷いがますます深まったらしく、冴えない表情で日々を過ごしている。なにせ美少女に変身しちゃうからなぁ。誰にも相談することができなくて苦しそうではある。しかし、一方である種の光明を見出した側面もあるようだ。剣を振るい命を奪う、そうではない戦い方がある。歌によって心を動かし、戦いを治める、そういう方法もあるのかもしれない。誰も死なせない戦いを為しうるのかもしれない。『なんでもない剣』をじっと見つめ、剣士は密かにボイストレーニングを始めた。
セシリアはあの戦いの後、口数が減り、ふさぎ込むことが増えた。戦いとは命のやり取りであり、負けたほうが死ぬことなど珍しくはない。冒険者として、あるいは過酷な運命を背負う亡国の王女として、忌まわしい敵の命を奪うことが決して許されないのだと言うことは誰にもできまい。しかしトラックとの出会いが彼女の心の根本に影響を与え、命の価値に対する認識を変えた。命を奪うというその行為自体を、もはや彼女は許容できないのだ。だからこそ彼女は自分を許すことができない。そして、許されざる自分の姿を、トラックに知られることを恐れる。隣にいる資格がないことを知りながら、隣にいられなくなる未来を恐れている。青白く疲弊していくセシリアに気付いている者は、周囲にあまり多くはない。
そしてトラックもまた、グレンとの戦いを経て思い悩むような様子を見せることが多くなった。ぼーっとして話を聞いていないことが以前より顕著に増えたり、荷物のお届け先を間違えそうになったり、交差点で一時停止を忘れかけたりと、集中を欠いている場面が明らかに多くなっている。【手加減】しても最強、それこそトラックが自らに課した使命であり、それがグレンとの戦いで木っ端みじんに砕かれたわけで、自身のこれからの在り方について、トラックは決断をしなければならない。これからケテルはクリフォトと戦争になる。その時トラックはどうすべきなのか。自分が最強でいられないのだとしたら、『守るために殺す』のか、『守り切れないとしても殺さない』のか。真に譲れないのは『殺さない』ことなのか、『守る』ことなのか。自らの根本への問いに、トラックはまだ答えを出せていないようだった。
「納涼盆踊り、ですか?」
初耳だ、という顔でセシリアが首を傾げる。「あら、知らない?」とイーリィは意外そうな顔を向けた。ケテルに住む者にとって夏の終わりを象徴するそのお祭りは、知らないひとがいるということに思い至らないほどにケテル市民にとってあるのが当然のイベントなのだろう。
「夏の終わりの三日間、ケテル全体がお祭り会場になって、いろいろなイベントが開かれるの。昔は毎年開催されていたらしいんだけど、あまりに規模が大きくなって二年に一回になったらしいわ」
イーリィが簡単に納涼盆踊りの概略を説明する。もともとは土着の自然信仰から生まれた豊作祈願祭と、先祖の慰霊のための儀式がそれぞれ夏の終わりに行われていたらしいのだが、ケテルが商都となって豊作祈願の重要性が薄れ、時期の近かった両者が統合された上に、信仰心の希薄化が合わさって本来の目的が忘れられ、単に夏を惜しんで盛り上がろうぜみたいなお祭りになったのだとか。かつての儀式の名残として、一日目のハイライトは東西ケテル神輿対決、二日目は中央広場での盆踊り、そして三日目は無数に夜空に放たれるスカイランタンが祭りを彩る。神輿対決は東側が太陽神を、西側が雨神を表しており、太陽神が勝てば日照りに、雨神が勝てば長雨になるため、最後は必ず引き分けに終わるようになっているらしい。二日目の盆踊りは祖霊を地上に迎えるための儀式、三日目のスカイランタンは霊を送り返すための儀式なのだとか。もっともそれらの由来を知っている者はもはやケテルには少数派らしい。イーリィは議長の娘としてケテルの歴史も学んでいるため、そういうことも知っているんだな。
戦の気配、例えばそれはケテルを囲う外壁の補強であったり、空堀を深くする工事であったり、食料や資材の備蓄であったり、といった、日常に溶け込むことができない風景は人々を少なからず動揺させており、ケテルを離れる、という選択をする者も現れ始めているようだ。もっとも他種族との交易を収益の柱とする商人たちは多く、別の場所で商売をすることに不安があることも事実で、大半の者は決断をしあぐねたまま時を浪費している、というのが現実だろう。このまま何事も起こらないのではないか――そんな甘い淡い期待だけを頼りに人々はいつか突きつけられる終わりから逃げている。そして、『逃げている』という現実から目をそらすための非日常を求めていた。その格好の言い訳にふさわしい舞台が、ケテルで二年に一度開催される『納涼盆踊り大会』というわけだ。今年の納涼盆踊り大会はいつにも増して盛り上がるだろうとイーリィは言った。
「だから、これはチャンスなのよ、セシリア」
ギルドに併設された酒場のカウンター席で、イーリィは真剣な眼差しでセシリアを見る。よく理解していない様子でセシリアはイーリィを見つめ返した。イーリィはぐっと顔を近づける。
「トラさんとの距離を近づけるチャンスだって言ってるの!」
えっ、と声を上げ、セシリアの顔にわずかに朱が差す。しかしすぐに、セシリアは迷いを示して目を伏せた。じれったそうにイーリィはセシリアの肩を掴む。
「怖気づいてる場合じゃないのよ! いい? ケテル納涼盆踊り大会は、ケテルで開催される様々なイベントの中で最も成婚率が高いの! ここで勝負をかけなきゃ、このままずるずるぬるま湯みたいな関係が続くことになるのよ! それでいいの?」
セシリアは困ったようにあいまいに微笑む。思ったような反応が得られないことにじゃっかん苛立ち、「あーもうっ」とイーリィは嘆いた。
「あなたが何もしないなら、別の誰かがトラさんを誘うかもしれないのよ? それでいいの? なんなら私が、トラさんを誘ったっていいのよ?」
挑発的にイーリィはセシリアの目を覗き込む。セシリアの瞳が揺れ、すぐに視線をそらした。
「……そう、ですね。それでも、いいのかも、しれません」
「ちっがーう!」
イーリィは天を仰いで叫んだ。
「わかった。よーくわかった! あなたの自主性に任せていたら、百年たっても話が進まないわ! 私がトラさんと話を付けてくるから、あなたはそこで待ってなさい!」
「ま、待って! それは――」
どすどすと床を踏みしめて出ていこうとするイーリィの背にセシリアが生死の声を掛ける。イーリィは素早く振り返り、セシリアの鼻先にビシッと人差し指を突き付けた。
「チャンスは何度も巡ってくるわけじゃない。わかっているでしょう?」
うっ、と呻いてセシリアは言葉に詰まる。それに、とイーリィは少しだけ視線を落とした。
「……もうすぐ、ケテルはお祭りどころの騒ぎじゃなくなる。トラさんはきっとその中心にいることになるわ。思いを残してほしくないの」
「イーリィさん……」
セシリアが、他人に言えない何かを抱えていることを、イーリィは気付いているのだろう。それが何かは知らなくても、その苦しさを、重荷を、イーリィは察してくれている。なお不安に揺れるセシリアの鼻を人差し指でピンと弾いて、イーリィは笑った。
「お膳立てはしてあげる。でも、最後はあなた次第よ? しっかりなさい」
鼻を押さえて涙目になるセシリアを残し、イーリィは酒場を出ていった。
そして、納涼盆踊り大会当日――
プァン、とトラックがクラクションを鳴らす。ギルドの前で、落ち着かない様子で待っていたセシリアが振り向いた。イーリィに着付けてもらった浴衣姿で、少し気恥ずかしそうに視線をさまよわせている。トラックが再びクラクションを鳴らす。ほっとしたようにセシリアは顔をほころばせた。
「それでは、参りましょう」
ケテルの通りには隙間もなく出店が並び、すでに祭りを楽しもうとする人々でごった返している。セシリアの横に並び、トラックは歩くような速さでそっとアクセルを踏んだ。
BONODORIは遥か東の果てにある幻の国ZIPANGUから伝えられた摩訶不思議な儀式で、その正装である浴衣も同時にもたらされたと考えられています。




