高揚と幻滅
淡い月光に照らされ、トラックは空からゆっくりと地上に降りる。その姿は荒々しくも威圧に満ちているわけでもなく、ただ静かに夜闇の中に存在している。しかし、トラックの放ったただ一声のクラクションは、『屠龍』の傭兵たちの動きを制していた。
「か、はっ――」
副隊長が剣を振り下ろそうとする姿勢のまま動きを止め、真っ青な顔で目を見開いている。その身体は酷寒の中に放り出されたように細かく震え、全身から汗が噴き出している。呼吸がうまくできないのだろう、苦しげに呻く顔が徐々に赤く変色していく。
周りに控えていた傭兵たちもまた、その場にバタバタと倒れていく。トラックの怒りを前に意識を保っていられないらしい。折り重なるように倒れていく隊員を目の当たりにして、総隊長はこの上なく嬉しそうな表情を浮かべた。
「殺意ですらない、ただの怒りで歴戦の傭兵を止めるか! すさまじいまでの重圧だ!」
総隊長は副隊長に近付き、その背を右手のひらでバシンと叩いた。呼吸の方法を思い出したように副隊長は咳き込み、空気を貪る。手に持っていた剣を取り落とし、地面に膝をついて力尽きたように座り込む。副隊長の落とした剣を拾い、軽く振って感触を確かめながら、総隊長はトラックに言った。
「貴様、何者だ?」
トラックは平静にクラクションを返す。総隊長はにぃっと笑った。
「なるほど、貴様がこの小僧の『憧れる冒険者』か。何も諦めぬという強欲の持ち主なら、そのバカげた覇気もうなずけるかもしれん」
トラックはさらにプァンとクラクションを鳴らす。その音は感情を抑え、抑えなければ爆発してしまいそうな激情を無理やりに抑え込んでいるようだ。総隊長は安心しろとばかりに何度もうなずいた。
「その件に関しては俺と貴様の利害は一致している。この小僧を殺すつもりはないし、殺させることもしないと約束しよう。この小僧は惜しい。十年もすれば武の頂を窺う戦士になるだろう」
未来に思いをはせるように総隊長は顔をにやつかせた。心の底から戦闘狂なのだろう。強くなったルーグと戦うことを楽しみにしている。負ける、という可能性は考えていないらしい。トラックはプァンと硬いクラクションを鳴らす。総隊長は剣の切っ先をトラックに向けた。
「バカを言うな。せっかくこうして会ったんだ。ついでに俺と死合っていけ」
逃がさないぞ、と言わんばかりに目をギラつかせ、総隊長は剣を猫人たちがいる教会に向ける。それは、トラックが戦いを拒めば猫人を殺すぞ、という恫喝だろう。こいつ、ルーグとの賭けに負けたくせに全然撤退する気ねぇじゃん! 嘘吐き、詐欺師! トラックはプァンとクラクションを鳴らす。総隊長は大真面目に答えた。
「貴様は強い。理由などそれで充分だ」
興奮して鼻息も荒い総隊長の様子に戦いは避けられないと思ったのだろう、トラックはウィングを開いて中にいる猫人を【念動力】で外に出した。猫人は一様に眠っている。解毒されたとはいえ狼憑きによる消耗は簡単に回復するものではないのだ。トラックは確認のようにクラクションを鳴らす。やや食い気味に総隊長は答えた。
「安心しろ。俺は猫人なんぞに興味はない。殺してもいいが、別に殺さなくてもいい」
おやつを待ちきれない子供のように、総隊長はそわそわと無意味に剣を振り回す。トラックは全ての猫人を降ろし、総隊長に少しだけ近づいた。総隊長の顔が満面の笑みを形作る。トラックは【念動力】でルーグをそっと持ち上げると、猫人たちの隣に横たえた。これから始まる戦いに巻き込まないためだろう。
「名を聞こうか」
高揚した声音で総隊長は言った。トラックのことを、これから壊す相手のことを知りたい、その気持ちを抑えきれないのだ。トラックはプァンとクラクションを返す。総隊長が大きく目を見開いた。
「トラック? 貴様、特級厨師トラックか!」
総隊長の興奮が更に増す。まるで長く離れていた恋人に再会したような喜びが全身からあふれ出す。
「小僧が英雄の再来なら、貴様はさしずめ伝説の継承者といったところか。冥王の暴走をたった一人で食い止めた初代特級厨師に並ぶというその力、ぜひこの目で見たいと思っていた!」
感無量だと顔を紅潮させ、総隊長は左の拳をぐっと握った。運命に感謝を捧げるように天を仰ぎ、総隊長は叫ぶ。
「なんて日だ! 歴史に名を遺すような強者を、この手で壊すことができるなんて!」
トラックがプァンとクラクションを鳴らす。ハッとした顔で総隊長は言った。
「いや、そうだな! そうだ、俺が勝つとは限らん。そう、勝てぬかもしれん! 勝てるかどうかわからん戦いなど久しぶりだ! 死ぬかもしれん戦いができることが、俺は嬉しい!」
もはや全身で喜びを爆発させ、総隊長は剣を再びトラックに向けた。刃が赤い光を帯びる。
「俺の名はグレン! グレン・ジェマ! さあ、特級厨師よ――!」
右の半身を引き、戦闘態勢を取って総隊長グレンは恍惚と叫んだ。
「俺と、殺し合おう!」
同時にグレンは地面を蹴り、トラックへと迫る! トラックがぶぉんとエンジン音を鳴らし――戦いが始まった。
グレンが袈裟懸けにトラックを切りつけ、キャビンの天辺を削る。鍔迫るように押し合い、刃とフレームが火花を散らす。アクセルベタ踏みのトラックの前進を剣で抑え込んでいるあたり、グレンという男は充分に化け物の類だろう。しばらく互角の力勝負を演じ、不意にトラックが後方に退いた。グレンの身体がわずかに前に泳ぐ。その隙を逃さずトラックは【マチガイル】を放つ! グレンは剣を振り下ろしてサマーソルトキックを迎撃するが、不安定な体勢からの斬撃はトラックのパワーを抑えきれず、腕が弾かれて万歳をするような格好になり、無防備な姿を晒した。間髪を入れずトラックは【回し蹴り】で追撃する! まともに【回し蹴り】を食らい、グレンは大きく吹き飛んで地面に転がった。
「……何のつもりだ」
ゆっくりと立ち上がったグレンの目が怒りに燃える。それは裏切りを詰るような、決して許さないと言わんばかりの激しい憎悪だった。
「この俺を相手に【手加減】だと!? ふざけるな!」
剣を持つ手を強く握り、グレンは屈辱に震えている。トラックのキャビンの上に【手加減】が腕を組んで立っていた。トラックはプァンとクラクションを鳴らす。グレンはギリギリと奥歯を噛み、トラックをにらみつけた。
「戦いとは生死を賭けるから価値がある! 死なぬと分かっている戦いなどただの茶番だろうが! 命を削り合う極限の緊張から戦いの意味が生まれる! 違うか!」
トラックは冷たく突き放すようなクラクションを鳴らす。グレンはうつむき、呻くように言葉を絞り出した。
「なんてこった。それほどの力を持ちながら、敵を殺す度胸もない惰弱な奴だったなんて。ありえないだろう、ああ、ありえない」
嘆くように左手で顔を覆い、グレンはブツブツとつぶやく。
「……なまじ強い力を持っているから、【手加減】しても充分に勝てると思っているのか? 今までもそうやってきた? 命を脅かされるような危機を、経験したことがないのか?」
何か希望を見出したように、グレンは左手を外して天を仰いだ。
「そうだ。危機を感じれば【手加減】などと言ってはおれまい。死の瀬戸際で他人の命など気にするはずもない! そうだ、つまりは――!」
血走った眼をトラックに向け、グレンは大きく口を開いて笑った。
「――貴様から余裕を奪えばよいのだ! この俺の手で!」
グレンの持つ剣が赤の輝きを帯び、スキルウィンドウが【絶対攻撃】の発動を告げる。禍々しい赤の刃をトラックに突きつけ、グレンは叫んだ。
「仕切り直しだ! 貴様が【手加減】などという寝言をほざくことがないくらいに、切り刻んでやるぞ!」
剣が宿す輝きがどす黒い怨念めいた色を帯び始める。『狂鬼』の名にふさわしい狂気の光を目に宿し、グレンは再びトラックに向かって地面を蹴った。
変態には変態なりの理屈がある。理解はできんが。




