恐怖
夜の闇が世界を支配し、細い月明かりだけが希望をつないでいるような、ひどく寒々しい空気の中にルーグとナカノロフは立っている。ルーグは視線をわずかに落としていて、普段の生意気な活発さはなりを潜めていた。ナカノロフはルーグに目を向けず、油断なく周囲を警戒しながら声を掛ける。
「恐ろしいか?」
ルーグは顔を上げ、ナカノロフの横顔を見つめてうなずいた。「そうか」と言ってナカノロフは笑う。
「私もな、恐ろしい」
えっ、と驚きの声がルーグの口をつく。ナカノロフは少し恥ずかしそうに言葉を続けた。
「夜闇の中にいるとな、急に不安になる。自分には何もできぬのではないか、何の役にも立たぬのではないか、とな」
ナカノロフはルーグのほうを見る。
「だがな、それは幻想なのだ。何もできぬということなどない。何の役にも立たぬことなどないのだ。生きて、立っている。ならば戦えるのだ。戦えるなら――」
確信に満ちた目でナカノロフはルーグの目をのぞき込んだ。
「――守れるのだよ、ルーグ殿。あなたは必ず誰かを守れる」
自信のない様子でルーグは目をそらす。
「……おれは、さ」
所在なさげに身を縮め、少しだけかすれた声でルーグは言った。
「あっち側、なんだよ、たぶん」
ナカノロフは意味を捉えかねたように眉を寄せる。ルーグは途切れ途切れに続けた。
「自分のことなんてどうでもいいと思ってた。だから、他人のこともどうでもよかった。自分以外は全部踏み台で、でも踏み台の上にいる自分にも価値なんてないんだ。くだらないおれが、くだらない他人を踏みつけにするんだ。なにもかもくだらないって思ってた」
自分で自分の腕を抱き、ルーグは小さく震える。
「どうして、平気でそんな、そんなことできたのか、もう分からないんだ。でもおれは確かに、誰かを騙して、誰かから奪って、誰かを、殺して」
「ルーグ殿!」
己を切り刻むルーグの言葉を遮り、ナカノロフはルーグの肩を掴んだ。ルーグは固く目をつむる。
「敵が猫人に『狼憑き』を飲ませたってわかったとき、おれ、どっかで『ああ、そうだよな』って思ったんだ。相手にダメージを与える方法として効率がいいって。猫人たちの苦しさとか、悔しさとか、そういうのを考える前にさ」
ルーグの目から涙がこぼれる。
「怖いんだ。おれは本当は、猫人とかどうでもよくて、いざとなったら簡単に他人を見捨てちまうんじゃないかって。アニキたちと一緒にいて、おれ、変われたって思ったけど、本当は、全然、そんなことなくってさ、誰が死んでも構わないって、本当は、そう思ってるんじゃないかって。敵と、おれは、おんなじじゃないかって」
「ルーグ殿は『屠龍』とは違う!」
ナカノロフはルーグの肩を掴む手に力を込めた。ルーグが驚いたように目を見開いてナカノロフを見る。
「『屠龍』は他者を蔑ろにすることを肯定する者どもだ。あやつらは何も悩まない。あなたとは違うのだ、ルーグ殿」
ルーグの瞳に迷いと不安が同居する。自分自身の中にある根深い不信を拭い去るのは難しいのだろう。ナカノロフはさらに言葉を重ねようと口を開き――はっと何かに気付いたように中空を見つめた。ルーグが訝しげな表情を浮かべる。
「どう、したの?」
「いや……」
ナカノロフは言いよどみ、口を閉ざす。しかしその顔からは明らかな焦燥が見て取れた。ルーグは再度ナカノロフに返答を促す。渋面で逡巡し、呻くようにナカノロフは言った。
「……弟が敵と交戦し、手傷を、負ったようだ」
スキルウィンドウがスッと姿を現し、半透明の枠を揺らめかせる。
『パッシブスキル(レア)【双子テレパシー】
双子には人知の及ばぬ不思議な能力があるらしいよ』
ルーグは驚きを示した後、肩に置かれたナカノロフの手をそっと外した。
「行ってよ」
しかし、とためらうナカノロフにルーグは真剣な目を向ける。
「ここはおれだけでいい。助けに行って」
十歳の子供にそう言われて「任せた」とは言いづらいのだろう、ナカノロフはなお迷いに視線をさまよわせる。ルーグはうつむき目を伏せた。
「……おれを、みじめにさせないでくれよ」
ナカノロフがハッとした表情を浮かべる。そんなつもりはなくてもルーグのプライドを傷つけていたことに気付いたのだ。後悔を押し殺し、大きく息を吸って、ナカノロフはうなずいた。
「……わかった。ここはあなたに任せる」
うなずきを返し、ルーグは少しだけほっとした表情になった。ナカノロフはルーグの肩を一度だけ叩くと、闇に包まれた森に向かって駆け出す。再びスキルウィンドウが姿を現し、スキルの発動を告げた。
『アクティブスキル(レア)【双子テレポート】
双子には人知の及ばぬ不思議な能力があるんだってば』
……双子だってだけで何でも許されると思うなよ。双子だったらテレポートくらいできるよねみたいなノリで納得なんてしてやらんからな。
ナカノロフが地面を蹴り、中空でその姿が掻き消える。その背を見送り、ルーグは思いつめたような顔でつぶやいた。
「おれは、守るんだ。おれが壊した以上のものを、守らなきゃいけないんだ」
「がっかりさせないでくれよ。昔のあんたならこんな攻撃、簡単に避けてたはずだろ。よけなくたって【脂肪装甲】で防いでいたはずじゃないか。それがなんだよこのザマは。この五年でどんだけ腑抜けたんだ、なあ?」
はっきりと失望を表して男は言った。ヨシネンはリーンの身体を支えながら男をにらみ上げている。リーンは苦しげに浅く呼吸をしていて、生きてはいるが意識ははっきりとしていないようだった。
「『緑雨』を二番隊にまで押し上げた『黒鬼』が、情けないマネしないでくれよ。あんたはもっと、強くて、冷酷で、圧倒的だったろうがよ!」
苛立ちと共に男は細剣を振るった。リーンの身体を抱きかかえてヨシネンは後方に跳躍し、刃を逃れる。腹部の傷から血が染み出し、ヨシネンは痛みに顔をしかめた。
「後ろに逃げるなんて選択、以前のあんたならしなかったぜ。俺の剣をへし折って首を落としていたはずだ。そんな傷で動きが鈍るはずもないでしょう? くだらねぇ、くだらねぇ男になったんだ、あんたは」
男は憐れみをつぶやき、細剣を持つ手は憤りに震える。ヨシネンは男に構わずリーンの傷口に手を当てた。
『アクティブスキル(ノーマル)【応急手当】
簡単な傷を治療する』
リーンの傷口がふさがり流れる血が止まる。顔は青ざめているものの呼吸は少し穏やかになった。男がギリリと奥歯を噛む。
「無駄なことするなよ! もうすぐ死ぬ役立たずだろうが! そういうの切り捨てて俺たちは進んできたんだろうが!」
自らの傷も【応急手当】でふさぎ、リーンを地面に横たえてヨシネンは立ち上がった。
「そうやって、切り捨てて進んで、どうなった?」
「なに?」
男の目と対照的に、ヨシネンは透明な瞳で男を見据える。男は不快そうに眉を寄せた。
「切り捨てて、殺して、壊して進んだ先にあるのは、いつ己が切り捨てられるかわからぬ恐怖と、未来を描けぬ刹那の生と、色を失った虚しい世界だ」
男は白けた顔で吐き捨てる。
「切り捨てられたくないなら強くなるしかない。未来なんて幻想でしかない。世界の虚しさなんぞ今に始まったことじゃない。全部弱者のたわ言だ! 弱いから死ぬ、踏みにじられる、望みを絶たれる! 当たり前のことだ!」
ヨシネンは表情を変えず、静かに首を横に振った。
「そうでない生がある。力ではない価値がある。『弱さ』が死すべき理由にならぬ世界があるのだ。五年前、我らはそれに出会い、己がいかに狭い世界に生きていたのかを知った。そして、決めたのだ。奪い殺すだけの生き方を捨て――」
揺るがぬ確信と共にヨシネンははっきりと告げる。
「――一介のコスプレイヤーとして生きることを」
んん? あれ、聞き違いかな? 明らかにこの状況に不似合いな言葉が聞こえたような……いや、いやいや、そんなまさか。
「コスプレは趣味で続ければいい! 安定した職を捨ててやることじゃない!」
聞き間違いじゃなかったーーーっ! コスプレで合ってたーーーっ!! 何この急速に緊張感が失われる感じ! そして敵の男のセリフが夢を追いかけて上京しようとする子供に反対するお父さんみたいになっとる! 傭兵稼業って安定した職じゃないよね!?
「血にまみれた手で衣装に袖を通すことはできん。それはすべてのレイヤーに対する侮辱だ」
それはそうかもしれないけど、なんていうか、異なる次元の話を同列に扱ってる感じが半端ない。コスプレってそんな殺伐とした文脈で語られるものじゃなくない? もうちょっと、かわいいとかかっこいいとか、カルチャーの側面から語ってもらえませんか?
「……もういい」
呆れたように首を振り男がつぶやき、細剣の切っ先をヨシネンに向ける。
「もしかしたら以前のあんたが戻ってくるかと思ったが、無駄だったよ。こんな腑抜けを斬ったって自慢にもならんが――」
男の顔がひどく残忍な色を帯びる。
「――あんたの『黒鬼』の名、その首と共に置いていけ」
男の細剣に蒼い炎が宿り、凍える光が周囲を照らす。ヨシネンは大太刀を肩に担ぐようにして、男に向かって半身に構えた。
「蒼炎を御せるようになったか」
「馬鹿にするなよ。五年前のつもりでいたら後悔するぜ」
挨拶代わりのように男は剣を振った。蒼炎が奔り空気を凍えさせながらヨシネンに迫る。ヨシネンは黒炎をまとった刃で蒼炎を切り払った。凍った空気中の水分が蒸発して視界が煙る。男は一気に距離を詰めてヨシネンに鋭い突きを放った!
『アクティブスキル(レア)【蒼龍凍炎穿】
蒼龍の凍える息吹を宿した刃で放つ葬送の一撃』
ヨシネンは身を引――こうとして踏みとどまり、横薙ぎに突きを弾いた。男は馬鹿にしたように楽しそうに嗤う。
「避けないか。そうだよな。足元にいる役立たずを巻き込むかもしれないもんな」
地面に横たわるリーンはすでに意識を失っているようだ。ヨシネンは大太刀を翻して袈裟懸けの一刀を浴びせる。男は大きく後ろに飛びずさった。黒炎が男を追い、蒼炎によって凍らされて砕けた。ヨシネンの額にじっとりと脂汗が滲む。【応急手当】でふさいだはずの傷口からじわりと血が滲んだ。
「辛そうじゃないか。楽にしてやろうか?」
にやにやと嫌な笑いを浮かべて男は剣先を揺らせる。挑発を意に介さずヨシネンは息を整えた。男の身体を蒼炎が包んで衣を形作り、スキルウィンドウが【蒼炎闘衣】の発動を告げる。ヨシネンもまた【黒炎闘衣】をまとった。
「せめてもの慈悲だ。一撃で葬ってあげますよ、副隊長」
男の足元から冷気が広がり、夜の森を震わせる。細剣を胸元に引き寄せ、水平に構えて男はヨシネンをにらみつけた。空気が細かい氷の粒となって頼りない月光を反射し、場違いに幻想的な美しさを演出する。ヨシネンは迎撃態勢を取った。両者の剣気が膨らみ、うねり、激しく対立する。
「ところで」
男は天気の話でもするように声を掛ける。
「俺とばっかり戦っていいんですか?」
――ヒュッ
風を切ってヨシネンの背後から矢が迫る。『屠龍』の隊員はこの男だけではなく、おそらくヨシネンが男と話している間に背後に移動していたのだろう。その矢の射線上にいるのは、リーンだった。ヨシネンは素早く身を翻して飛んできた矢を払う。矢は見事に両断されて地面に落ち、ヨシネンは無防備な背を男に晒した。
『アクティブスキル(VR)【双龍蒼葬閃】
永久凍土を纏う凍気は二匹の龍となり、閃光のごとく敵を貫く』
細剣から放たれた龍の姿の二条の閃光がヨシネンを貫く。全身が氷に閉ざされ、ヨシネンは彫像と化した。
「すいません、一撃じゃなくて二撃だったわ」
得意げに男が形だけの謝罪をする。男を包んでいた【蒼炎闘衣】が役割を終えて霧散した。パキン、と音を立ててヨシネンの身体を覆う氷が砕け、ヨシネンは大太刀を地面に突き立てて身体を支え膝をついた。男が忌々しげに顔をゆがませる。
「無駄に頑丈だなあんたは。【黒炎闘衣】が威力を削いだか?」
まあいい、と言って男はヨシネンに近付く。もう振り向く力も残っていないのだろう、ヨシネンは片膝をついて大太刀に身を預けたまま荒く息を吐いている。
「本当にくだらない人生でしたね。血も繋がらない拾った孤児に気を取られて死んで、その孤児も死ぬ。何がしたかったのか知らないが、まったく殺りがいがない相手でしたよ」
男はヨシネンの首筋に狙いをつけて細剣を構えた。
「さようなら副隊長。『黒鬼』の名は俺がしっかり受け継ぎますから、安心して地獄に落ちてくださいね」
醜悪な笑みを浮かべて男が足を踏み込む。ヨシネンは、動かない。細剣の切っ先がヨシネンの首を貫――
――ガキンッ
細剣が下から強い力で跳ね上げられ、男は大きく目を見開く。傭兵としての本能だろうか、男は素早く後ろに下がって身を低くした。ヨシネンの傍らの何もない空間から打刀だけが伸びている。打刀は空間を裂くように動き、
「殺りがいを求めるなら」
空間の裂け目から現れたのは、静かな怒りを湛えた、
「私がお相手しよう」
ナカノロフだった。男の顔から血の気が引き、唇が震える。
「隊、長――」
ナカノロフは白炎を纏った刃を振る。夜闇を切り開くように光跡が刻まれる。
「私は弟ほど優しくはないぞ。覚悟するがいい」
ナカノロフの目に宿る憤怒が男を捉えた。
ナカヨシ兄弟は今、着流し浪人スタイルのコスプレで日常を送っています。




